ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

(2)“お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人

2020-08-15 16:50:05 | 宗教、オカルト

(2) “お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人

  

 

「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳

 

すでに上記の 「盂蘭盆経」 はお読み頂いたことと思う。

 

いかがであろうか?

この捏造された文書は日本では、インドから中国に伝わって “漢訳” された “仏典” として約1500年間ほとんど疑われずに崇められ、読経されてきた。しかし今日、文献学的には偽経(偽造の経典)とみなされている。

 

 

21世紀の今日現在でも、特にお盆の時期には、この 「盂蘭盆経」  は、「お盆」 の由来、拠りどころとして日本の津々浦々のお寺の住職の法話で言及されたり、引用されたりしていることであろう。

実際、日本の仏教の僧侶がお盆に先祖供養の 「お勤め」 をして金銭物品を受け取る理由と根拠は、ほぼ1500年間、まさにこの 「盂蘭盆経」 という仏典の “絶対的権威” だったのである。

“日本の葬式仏教の拠って立つ土台” と言ってもいいくらいの確固不抜の “理論的根拠” であり、かつ “マニュアル” だった のである。

何しろ当の仏典の中でお釈迦様が死者への供養の仕方を、日付から盆に載せる食べ物まで懇切丁寧にこと細かに指示しているのだ。

しかし、その “周到なマニュアル的性格” こそ、インドのオリジナルの仏典らしくない怪しい点なのである。

 

しかし、葬式仏教にとって自らの存在意義、そして仏教学的根拠と思われていた当の最重要の経典が、今日の宗教学者や文献学者からは “偽経=捏造=フェイク” とみなされ、これはすでに “定説” となっている。

 

そして、これに対する有力な反論、つまり 「いや、そんなことはない、これはやっぱり本物だ!」 という反論は、仏教界でも歴史学界でも情けないことに皆無なのである。

 

おそらく、日本の “葬式仏教という業界” では、僧侶が 「盂蘭盆経は “偽経” である」 と口に出して言うことはずっと “暗黙のタブー” になっているに違いない。このタブーを破ることは、“業界の崩壊” につながりかねないだろう。

或る程度の知的レベルの住職たちは、この潜在的な問題に気づいているはずである。そして 「盂蘭盆経」 への不用意な言及が場合によっては藪蛇(やぶへび)になる危険性も考慮していることだろう。

 

この事例は何を意味するのか?

 

はっきり言おう。

 

ある国民が、何百年も何千年も騙され続けていることがあるということだ。

 

 

あなただけではない。 あの聖徳太子も騙されたのである。 斉明天皇も、持統天皇も、聖武天皇も、清少納言も騙されたのである。現代のザウルスの場合は 「何かヘンだぞ」 と思ってちょっと調べたら、真実がすぐに出てきたのである。一般常識とアカデミズムの情報較差は、ネット時代では素人でもその気になれば簡単に乗り越えられるのだ。

 

ふつうの日本人は、いくらネット時代になっても、自分で確かめようとしないので、皆ずっと騙され続けているのだ。これほどまでに何百年も何千年も騙されていても気がつかないのは日本人だけではないだろう。教育水準の低いアジア、アフリカ、南米の国々では普通のことであろう。

 

 

実際、この記事で客観的な証拠を挙げてこれだけきちんと説明しても、「まさかそんなわけないだろ」 と思いながら真実を受け入れることに躊躇する日本人の方が圧倒的に多いであろう。ここまで読んできているあなたはどうであろうか?

 

ザウルスは歯に衣(きぬ)着せずに客観的な事実を証拠とともに伝えるが、世間一般ではそうではない。この日本という国では、主張の内容が特定の産業や職業集団の利権を脅かす可能性がある場合は、ふつうは多少気を使って、目立った発表を差し控えるとか、表現を曖昧にするとか、なるべく断定を避ける表現にするとかして “忖度” をしているのだ。

なので、そうした “忖度環境” にあっては重要な事実が世間のほんのごく一部のひとには知られていても、無知で無関心な一般大衆には何百年も何千年も気づかれないということが実際に起こり得るのである。

 

ここまで言っても、まだ半信半疑のひとが圧倒的に多いであろう。そういうひとたちのために、さらに以下に、別の角度からの証拠を提示しよう。

 

 

釈迦の助言 にしたがい、7月15日” に仏教の僧侶に “供養” してもらった おかげで 目連の “母親” はその 罪を赦された” というのがこの “偽経” のストーリーではなかったか?

 

「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳

 

 

一皮むけば、“道教と儒教のてんこ盛り” ではないか?

 

ここまで見てくれば、もう明らかであろう。仏教伝来以来、葬式仏教の盤石の基礎であったこの 「盂蘭盆経」 は、6世紀の中国の僧の手になる “産地偽装” の “フェイク仏典” だったのである。

当時すでに行われていた 道教の死者供養の伝統 と 儒教の“孝”の精神 を、仏陀の優秀な弟子の話というでっちあげの仏典に巧妙に織り込んだのである。そうやって、中国の土着信仰(道教、儒教)を当時圧倒的な人気を博していた仏教の装いで無知な大衆にスムーズに受け入れさせようとしたのである。

そもそも “先祖供養” という要素は、インドで生まれた仏教には皆無である。“先祖崇拝“ という観念は、インドの原始仏教の “輪廻転生” の思想とまったく相容れない。

 

要するに、この偽作者の本当の目的は、ブッダの本来の教えを広めるためではないのだ。単に自分の属する僧侶集団の利益と繁栄のためである。だからこそ平気でブッダの教えとは無関係の話をでっちあげることができたのである。

当時すでに “伝説のスピリチュアルスーパースター” として絶大な人気を誇っていた ブッダ・ブランド” を利用しない手は無かったのである

ブッダのストーリーの “スピンオフ” を手持ちの材料(道教、儒教)ででっちあげ、無知な大衆を騙して引き込むのはたやすいことだったのだ。

経典を書けるというだけで当時はたいへんな知識階級に属しているわけで、そうした人間にとって、文字を読むことも書くこともできない人々をいかに大衆操作するかが一大関心事だったはずである。

 

しかし、6世紀のこの仏典の偽作者は、まさか自分の “でっちあげ” が日本にまで渡って、やがては 日本の葬式仏教の繁栄の礎(いしずえ)になろうとは夢にも思わなかったに違いない。

 

けっきょく、この捏造された仏典には、仏陀の教えなどかけらもないのだ。しかし、聖徳太子もこれが仏陀の本当の教えだと信じて疑わなかったであろう。 

要するに、中国人に “偽ブランドのロレックス” をつかまされたのである。

中国人は今も昔も変わらないのである。そして騙される日本人も昔からずっと変わらない。騙される人間は、永遠に騙されるのだ。

聖徳太子を笑うことはできない。およそ1500年経った今でも、ほとんどの日本人は騙されたままなのだから。違うだろうか?

 

実際、中国産の “偽経” は無数にある。以下のものもほんの一端である。

 

 

 

右の中国画ほど中国人の “中華思想” をよく表しているものはないだろう。

 

「孔子  が  老子  に  仏陀  を手渡す」

(儒教)    (道教)    (仏教)

 

中国で書かれた仏典のほとんどは、こういった “中華思想” に基づいていると言っていいだろう。

百歩譲っても、荒削りな未完成のものを、自分たち中国人が正しく完成して立派なものに仕上げてやっていると思っているのだ。

 

  

日本からの留学僧たちはすでに “道教化”され、“儒教化”され、すっかり体系化された、さまざまな “中国製の仏教理論” の中から、そのときそのときの “中国でいちばん人気の宗派” や “日本人好みの宗派” の理論をピックアップしては取扱説明書をマスターして、いそいそと持ち帰って行ったのである。

そして、中国帰りで箔(はく)をつけた留学僧は、 “新製品好きの日本人” に流行の最先端のお土産を紹介し、その人気に乗じて地位を築いていったのである。

 

先祖供養、仏像崇拝、釈迦の神格化、現世利益、悉有仏性 といった、中国で加わった要素は、インド産ではない中国産の “産地偽装の仏典” の含む、“表示なしのあやしい添加物” だったのである。“主成分であるはずの仏陀の本来の教え” は、有るか無しかの痕跡程度になっていった。

 

実際、中国人は何でも理屈をつけて、無理やりにでも体系化するのが得意である。そして、そういうことが不得手で馬鹿正直な日本人はいつも劣等感を感じ、卑屈にも中国人の “中華思想むき出しの理論” を賛美し、有り難がっていた。

 

日本の僧侶や貴族や大衆には、そうした “唐様(からよう)”の “中国製のフェイク仏教” は権威があって信頼性がありそうに思えたのである。

 

けっきょく、中国の場合と同じように、日本のさまざまな僧侶集団も自分たちの繁栄のために “中国産のフェイク仏教” をとことん利用したのである。

そのためには、仏陀の本来の教えをほとんど含まない、儒教、道教、陰陽五行説 をふんだんに盛り込んだフェイク仏教で十分だったし、むしろそのほうがわかりやすくて都合がよかったのである。

 

日本の僧侶階級は 大陸伝来の “仏教” という絶大な権威 を使って、時の権力者をも支配するような権力 をこぞって手に入れようとしていたのであって、“本来の天竺の仏陀の本当の教え” などはどうでもよかったのである。

つまり、日本では中国と同様、 

仏教は、

    “権力の源泉”  であり、

    “支配の道具”  であり、 

    “繁栄のための資産”   だったのだ。

 

そして今日でも 僧侶階級の “繁栄のための資産” として利用され続けている。

 

これが日本の仏教のすがたである。

 

 

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36 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-08-13 17:32:53
日本人は騙された、騙されたと言うが、日本人はそんな馬鹿じゃない。日本人は実は騙されたふりをしているだけだ。べつに騙されちゃいないんだ。ふりをしているだけなんだから日本人はほんとは頭がいいんだ。
騙されたふり さま (ザウルス)
2018-08-14 00:53:25
お話からすると、あなたは 「頭がいい」 ので、「実は騙されたふり」 をしているだけのようですね。
わかりました。あなたは 「騙されたふり」 をしているんですね。ご苦労様です。

それでは、お尋ねします。
何のために 「騙されたふり」 をしているのでしょうか?
習合とも言えるのでは? (ji)
2018-08-14 18:34:19
お釈迦様は、確か輪廻転生を否定してましたと私も記憶しています。

なので、先祖供養にまつわるもの全てが後付けの物だと私も思います。

しかし、中国大陸に仏教が伝わった際に人民に受け入れやすくする為に道教などの要素を取り入れたのも納得できます。
土着の物と渡来の物が習合するのは、宗教だけでなく、あらゆる物がそうだと思います。

時代が経てば、時流に合わせて教えの解釈や後付けのモノが加わるのではないでしょうか。
大乗仏教も上座部仏教、チベット仏教も、その時代や地域に馴染むために発生したとも考えられると思います。

例えば、般若心経も元は中国で作られたとも言われているそうです。
空の概念を道教の無で表現しようとした解釈もあるそうです。
また、お釈迦様はマントラを否定していたそうですが、般若心経は思いっきり呪文を讃えています。
だからと言って、般若心経は偽物と言えるでしょうか?
それらが本当だったとしても、般若心経の価値は変わりないと思います。

時代と共に全ての物は変化していきます。これが正しい正しくないは、確かに研究としては面白いですが、一概に否定するのは良くないと私は思います。
事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので。
ji さま (ザウルス)
2018-08-14 18:46:52
「事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので」 という理由で 「否定するのは良くない」  というのなら、オウム真理教だって、信仰して頼ってきた人はいるんじゃないでしょうか?

けっきょくあなたの主張は 「何でもアリでしょ」 と言っているだけのように聞こえます。

ありがとうございます (ji)
2018-08-14 18:53:27
確かに、おっしゃる通りです。
信仰している人がいるから否定してはならないというのは、良く有りませんでした。

洗脳されている人は、それを信仰しているわけですから。
ji さま (ザウルス)
2018-08-14 19:19:38
あなたのようにさっと、ご自分の非を認めることができるひとは世の中には決して多くないと思います。敬意を表します。

つまり、信じている人がいるのなら、そこには何か真実があるはずだ、とはかぎらないということです。
この記事で明らかにしたように、いつの時代にも自分たちの利益や権力のために大衆を騙そうとする人間はいるのです。

宗教家(スピリチュアルリーダー)のような知識階級はつねに言葉 (プロパガンダ) によってひとを支配し、操ろうとするものです。それは1500年前でも現代でも同じです。わたしはそういったプロパガンダに対して警鐘を鳴らしたいだけです。
ありがとうございます (ji)
2018-08-14 19:32:04
カラマーゾフの兄弟の大審問官を思い出しました。

権力者は勿論ですが、多くの人間は現状が変化する事に酷く拒否反応を示します。
現状に慣らさせ、それが普通だと常識だと洗脳し、いざ真実を突き付けられても、真実を受け入れられない状態にする。

勉強になりました。
Unknown (コメット)
2018-08-14 20:34:31
仏教教典の原典は釈迦存命当時の北インドの民衆が話していたパーリ語で書かれているが、玄奘その他が訳した仏教教典は当然、中国語で書かれている。中国ではこの漢訳仏典を当然、中国語発音で読む。読経は一般民衆が分かるようにその国の言葉で行われるべきであり、タイではタイ語訳が使われる。ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。私はザウルス様のように文献の追求は出来ていないが、日本仏教は胡散臭いと前から思っていた。一時、中村元氏その他の本に凝ったことがあるが、膨大な仏典の中で、お釈迦様のお言葉を原型通り残している事がほぼ確実なのは、岩波文庫に収められている法句教(真理の言葉、感興の言葉?)ぐらいかもしれないと読んだような気がする。早起きすると今でもチェンマイの人々は托鉢に回る僧侶の読経を聞いて、お布施をしているのを見るにつけ、日本より仏教が一般民衆の生活の中に生きていると感じる。
コメット さま (ザウルス)
2018-08-14 21:02:08
「ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。」   ・・・ まさに我が意を得たり、です。

日本の仏教では、もはやブッダの主張や思想はどうでもよく、ブッダという当時絶大な人気を誇っていたスーパースターの “威光と権威” を利用しているだけなので、ブッダの本当のメッセージを伝える必要はほとんど無かったのです。大衆操作するために “ブッダ・ブランド” を利用していただけなのです。

自分たち僧侶集団の繁栄のために仏教という言説体系をうまく利用していただけなのです。そして、実質的にはそれは今日でもそのまま続いているのです。
Unknown (sa)
2018-08-18 00:38:02
インド>中国>日本

ブッタがスーパースターでなかったバラモンの方がぐちゃぐちゃではなかったでしょうか?
漢字で翻訳したらすべて嘘みたいな有名なことわざが英であったように思いますし
良いところだけを抽出していく流れで良いと思います。

〔先祖供養〕
こそ財産の固執否定の宗教臭い不必要なものが洗われていく時代の流れを感じましたが
ザウルスさんは当たり前のように
子供に何かを残しているのではないでしょうか?
残そうしているではありませんか?
それはそれの染脳ではないでしょうか?
それが〔先祖供養〕発生起源ですが

それこそ仏陀が否定している自己愛ではないでしょうか?

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