たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿田彦の伊勢での時間 その8

2022-10-15 04:52:06 | 猿田彦
象鼻山付近に居る人は、岐阜の金華山付近から移動してきたようなのですけど、

最初は垂仁天皇に追い出されたのかなと思っていました.

けれど、レイラインがあるということは,悪意が無いと考えていいでしょう。

丹後半島から琵琶湖を通っての輸送、そして、

伊勢までの海上の輸送を引き受けたのではないでしょうか。もちろん、サタヒコの依頼でしょう。


像鼻山古墳群は、前方後方墳2基,方墳17基,円墳40基,形状不明のもの3基の計62基からなるそうです

気になるのは、前方後方墳です。瑞龍寺山頂遺跡は前方後方墳ですのでその子孫と考えられます。

それと、犬山の東之宮古墳も前方後方墳でしたよね。かなり関係が深いのかもしれません。

ですから、サタヒコにとって、協力が得られやすい関係だったのではないでしょうか。

というより、以前にも書いていますけど、金華山の北はサタヒコの生まれ故郷です。

たぶんココ


長良川をはさんだ、金華山の住民とは顔見知りでしょう。

だから、犬山の「東之宮」 との関係が出来たとするのが適当かもしれない。


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猿田彦の伊勢での時間 その7

2022-10-14 05:13:06 | 猿田彦
坂田宮から東に進んで、現在の名神高速の養老サービスエリア付近に行きます。

当時は、そこまで海になっていました。

そこに、像鼻山古墳群というところがあります。

この付近に港があったようです。



そして、その人たちは美濃の金華山付近に居た人たちが移り住んだそうです。

金華山付近には、瑞龍寺山頂遺跡と言う所があります。


そして、瑞龍寺山頂遺跡 から象鼻山山頂を結ぶと


拡大します


さらに、伊波乃西神社からのラインも加えることが出来ます。ですけど、その場所が何処なのか分からない。


伊波乃西神社は、彦坐王の墓とされている場所です。違いますけどね。

丹後からサタヒコの母親と一緒にやって来た技術者のうちの、誰かの古墳でしょう。



いつかこの場所を確認したいですね。

しかも、このラインは、夏至とか冬至ではなく、なぜか11月29日・・・

特別な意味でもあるのでしょうか?わからない・・・



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猿田彦の伊勢での時間 その6

2022-10-13 05:22:43 | 猿田彦

垂仁天皇27年8月(304年)に大縣神社が出来ています。

その元宮のある、本宮山の山頂からの春分、もしくは秋分の日の入りのライン上に「坂田宮」があります

2023年の春分で計測すると少しずれが出ます。どうも春分、秋分のラインは年代により少しずつ

移動するようです。そのためかもしれません。

これ以上はおいらの手には負えませんので、そうしておきましょう。

このラインを測量したのは、伊勢に行く前かもしれません。どちらにしても、2~3年の違いです。

役目はもちろん、琵琶湖での湊の役目で、ここから養老を通り方々津神社のある美濃に行くための拠点です。


以前にも書きましたけど、坂田宮の「サカタ」は、サタヒコの「サタ」が変わった呼び方でしょう。

白髭神社から琵琶湖を東に行った対岸です。
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猿田彦の伊勢での時間 その5

2022-10-12 04:57:09 | 猿田彦

またまたこの表です。

正確なのかどうかも分からないですけど、とりあえず、これに沿って考えてみます。

302年の春に伊勢に到着するとします。場所は、斎宮の近くのレイラインが交差する場所付近でしょう

その翌年の秋に、白髭神社が出来ています。

丹後半島からの鉄の素材の供給をするための中継地の役目が主な狙いでしょう。

次の年には、内宮正殿が出来ている(垂仁26年ですが、10月ではなく1~6月までの間と言うことにしておきましょうか。)

ので、その前には、瀧原宮で鍛冶を行ったと推測します。304年です。

同じ304年の秋には、椿大神社が出来ていますので、かなり急いだようです。

椿大神社が出来るまでは、白髭神社から大垣まで出て、そこから従来のルートである

海岸沿いを船で伊勢まで行ったと推測します。

琵琶湖には、御上神社を建て、そこから徒歩で山越えして椿大神社まで行くというルートを

作っているようです。



尾張についてから、美濃、犬山、春日井のルートを復活させたと考えます。







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猿田彦の伊勢での時間 その4

2022-10-11 05:30:15 | 猿田彦
前回、「高宮」と言う場所は、見晴らし台、そして狼煙を上げる場所なのかもしれないと書いています。

そこで気になる場所が、外宮にある「豊受大神宮別宮 多賀宮」です。

多賀宮(たかのみや)=高宮 になるのだそうです。

確かに、丘の上にあります。


祭神が外宮の祭神の豊受大御神の荒魂である豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
由緒は定かではないが、雄略天皇22年(478年)の外宮創祀と同時に創建されたと伝えられている。
神宮ではおおむね高宮(たかのみや)と呼称されていた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時に、はじめてアジサハヒメの御霊は伊勢に来たわけですね。

外宮の本殿には、和魂が祀られ、この多賀宮には、荒魂が祀られた。

それまでは、見張り台そして、狼煙を上げる場所だったと考えてもいいのではないだろうか。

気になるのは、この多賀宮と、内宮の荒祭宮(あらまつりのみや)には鳥居が無いということ。

理由はわからないそうです。

神の降臨を祈った神事の場所ではないかと言う説もあります。

それが一番の理由かもしれませんね。






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猿田彦の伊勢での時間 その3

2022-10-10 06:34:21 | 猿田彦


この表の、一番最初の「飯野高宮神山神社」について考えてみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倭姫命世記によると、垂仁天皇22年(302)に倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間(現在の2年に相当)天照大神をお祀りされた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倭姫命世記は、作り話が多くあまり参考にはならないと思いますけど、このところは事実を伝えているのではないかと思うのです。

斎宮のレイラインが交差する場所からの、冬至の日の入りに当たる場所が本殿です。


さらに、「飯野高宮神山神社」本殿からの冬至の日の出の位置に内宮本殿があります。


サタヒコにとっては、重要な場所です。


祭神は、「猿田彦命 天鈿女命」です。天鈿女命=アジサハヒメなので彼女の御霊も伊勢に来ていると

そう思っていましたけど、二人が祭神になっているということは、後に決めた祭神なのでしょうか?

神社が出来た時には、サタヒコはまだ生きていて、「神」にはなっていませんからね。

そうすると、「猿田彦神社」も彼の死後に出来たことになる。

そして、天鈿女命=アジサハヒメの御霊はこの時には伊勢に来ていないことになります。

それについて、おいらは勘違いしていたかもしれない・・・

話を元に戻しましょう。

「高宮」とはどういう意味か?検索しても何も出てきません・・・

「飯野高宮神山神社」は、元は山頂にあったとの説もあります。

ですが、レイラインが示しているように

サタヒコそして、倭姫が伊勢に来た時からここにあるとしていいでしょう。

頂上は、見晴らし台、そして狼煙を上げる場所なのかもしれない。

「高宮」とはそのような意味と考えるのが当たらずとも遠からずと思うのです。




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猿田彦の伊勢での時間 その2

2022-10-09 05:57:09 | 猿田彦


この中で、白髭神社が意外と早く出来ていると思うのです。

白髭神社は丹後に行く道の起点になるので、早いのだろうか?

鉄を丹後から運ぶことを優先に考えたのでしょうか。

垂仁天皇26年に内宮の正殿が建てられているので、瀧原宮は、それ以前に建てられていることになります

椿大神社と大縣神社がほぼ同時に出来ているとは意外です。

その時すでに、サタヒコは尾張に居たことになります。

まあ、この年代が正しいとした上でのことですけどね。

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猿田彦の伊勢での時間

2022-10-08 05:54:03 | 猿田彦
サタヒコはどのように行動したのか、神社の創建を調べるとある程度分かるかもしれないと思い

調べてみました。

いろんなところから引っ張り出してきた年代なので、そのまま使うには不確かかもしれませんけど

とりあえず、書いてみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まずは、倭姫命世記によると、垂仁天皇22年(302)に倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間(現在の2年に相当)天照大神をお祀りされた。


内宮の荒祭宮創建は垂仁天皇26年10月であり、内宮の正殿と同時に建てられた

白髭神社の社記によると垂仁天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建

椿大神社は、垂仁天皇の御代27年秋8月に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された

大縣神社の社伝によれば、当初本宮山(一名真霊山)の頂に鎮座。
垂仁天皇27年8月、山頂に荒魂を鎮め置き、麓に新宮を造営して、和魂を遷座されたという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時は、秋と春で一年ずつ年をとるので、垂仁天皇22年を春として西暦に直します。



垂仁天皇26年は、春になると思います。まあ、少しの事は大目に見ましょう・・・

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紀元前 600 年

2022-10-07 06:14:27 | 猿田彦
「 人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理」 永田和宏 

この本から引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中国 には 製鉄 法 は 紀元前 600 年頃 に 伝わり、 銑鉄 が 作ら れ、 鍬 や 鎌、 鑿 などが 鋳造 で 作ら れ、 紀元前 512 年 には 鉄 の 大釜 が 鋳込ま れ た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで気になるのが、紀元前 600 年なのです。

日ユ同祖論でも出てきますけど、古ユダヤの「失われた10支族」の時代とピタリ合うのです。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
旧約聖書のアブラハム(紀元前17世紀)の孫はヤコブ(別名イスラエル)であり、ヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族である。12支族はアシェル族、エフライム族、ガド族、ベニヤミン族、イッサカル族、ルベン族、マナセ族、ダン族、ナフタリ族、ゼブルン族、ユダ族、シメオン族に分かれているとされる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。400年程続いた奴隷時代の後に紀元前13世紀にモーセ(モーゼ)は民族をエジプトから連れ出し、イスラエル12支族はシナイ半島を40年間放浪し定住を始め、200年程かけて一帯を征服して行く。カナンの地に住み、ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。ソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂して、サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された。この10支族の行方は文書に残されていないため、2部族によって「失われた10支族」と呼ばれた。アッシリアに征服された後、信仰を深めるため、信仰を邪魔されない場所に移るとして、消息不明になったとされる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された。」と書いてありますけど、

その他の人々が不明なんですね。

その人たちが、製鉄の技術を持っていたのかどうかはわかりません。

もし技術があったなら、製鉄を中国に広めたのが彼らの可能性が高くなるのですけど。

もう一つ気になるのが、「皇紀」というもの。

『日本書紀』の記述から割り出した神武天皇元年の年が、西暦紀元前660年なのだそうです。

まあ、これが正しいかどうかは日本書紀の編集者に聞かなくてはわからないでしょう・・・

司祭は船で東に向かったという話を聞いたことがあります。

もしそうなら、いち早く日本にたどり着いたのが、彼らでしょう。


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途中ヶ丘遺跡

2022-10-06 05:17:47 | 猿田彦
弥生時代前期中頃から後期にかけての環濠をめぐらせた集落跡

BC200~100年頃になります。

扇谷遣跡は、BC 150~50年ですので、少し年代が違いますけど

理由があるのか、誤差なのかは分かりません。

直線で約2km離れています。

ふと思い出したのが、「徐福(じょ ふく)」です。別名は、徐巿(じょふつ)

簡単に説明すると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と言って、

始皇帝の命を受け、3,000人の若い男女と多くの技術者を従えて、

財宝と財産、五穀の種を持って東方(日本)に船出した

しかし、秦には戻らなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これが、BC 210年のことです。

途中ヶ丘遺跡は、BC200頃からなので、ここに住んでいた人たちは、

もしかしたらこの中の技術者なのかもしれない。

かなり確立は高いと思います。

丹後半島には、新井崎神社があり、その場所は、徐福渡来の地と言われているところもあります。




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扇谷遣跡

2022-10-05 05:14:55 | 猿田彦
扇谷遣跡は、弥生時代前期末から中期前葉にかけての、丹後地域を代表する環濠集落とのこと。

弥生前期末ころにここではすでに砂鉄を用いて鉄が鋳られていたかも知れないという場所です。


この年表で見ると、BC 150~50年になります。

彦坐王の率いる製鉄の技術者たちの先祖と考えて間違いないでしょう。

彼らの系図をみてみましょうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 
七御子・建諸隅命 (川上摩須)   
八御子・倭得玉彦命   (サタヒコの母親の兄と推測)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

262年にサタヒコの母親は彦坐王の所に嫁いでいます。

一御子・天香語山命の先代が、天火明命(あめのほあかりのみこと)と言われますので

乱暴なやり方ですけど、一代20年とすると、160年ぐらい前の存在になります。

すると、天火明命はAD 100年頃の存在と言うことになります。

と言うことは、扇谷遣跡で製鉄を行っていた人たちは、それ以前の人たちと言うことになります。








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丹後半島の製鉄

2022-10-04 09:49:40 | 猿田彦
おいらの推測では、「天目一箇神」は、サタヒコの母親の兄と思います。

目に障害があるということは、製鉄の時に高温の鉄を見るためと言われます。

つまり、その頃に高い温度が作ることが出来たとするのが適当なのかな?

もしそうなら、その技術の延長がサホヒコの鍛冶の技術と言うことになると思うのです。

彼らの家系図を見てみましょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 
七御子・建諸隅命 (川上摩須)   
八御子・倭得玉彦命  (日本 得 魂 命)=天之御影神=天目一箇神 
       妹が 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーーーーーーー彦坐王             
                               ↓                 
                             サタヒコ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天目一箇神(倭得玉彦命)の率いる製鉄技術者の中の何人かが、サタヒコの母親と一緒に

彦坐王のもとにやって来たとすると、美濃ではサホヒコと一緒に暮らしていたことになります。

当然、春日井での製鉄にも関係しています。

サホヒコは、美濃でその技術者たちから、製鉄、鍛冶の技術を学んでいるのでしょう。

ということは、彦坐王は美濃でも製鉄をしていたと考えるのが適当かと思います。

志段味
と言う地名は、もしかすると砂鉄が採れる所という意味があるのかもしれない。
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鍛冶の技術

2022-10-03 05:37:44 | 猿田彦
鍛冶の技術といっても、伊勢津彦の優れた技術は炉に空気を送る技術と想像できます。

伊勢津彦(サホヒコ)が、伊勢を追い出された時に、

「伊勢を去る際、大風を起こし光輝いて日の如くあった」とあるのは、

風を使い高い温度を作っていたということかと思います。

「光輝いて日の如くあった」とは、普通の状態ではないですよね。

何かを伝えようとしているとしか考えられません。

その技術とは、鞴(ふいご)と、羽口(送風口)の事と考えます。

でも、妻木晩田遺跡の資料を調べても、それらしきものが出てこない。

春日井では、製鉄のあとさえありません。

後の時代になると、羽口は土を使った焼き物で作られているのが見つかりますけど、それもないようです。

意識して隠したのかもしれませんけどね。

土で作ったものが無かったと仮定すると、なんで代用していたのだろうか?

「竹」? 材料はいくらでもありますね。しかも、丹後半島では「竹」と言う言葉がよく出てきます。

考えすぎだろうか?

太い竹を半分に割り、そこに水を入れて、さらに細い竹で作った送風管をその中に入れる。

水冷の羽口になる・・・いかん!妄想が始まった・・・これくらいにしておこう。。。
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瀧原宮をもう一度考えてみます

2022-10-02 05:36:16 | 猿田彦
以前のブログです。

なぜ、月夜見宮からのレイライン上にあるのか?

鍛冶が関係していると考えるのが適当ではないだろうか。

外宮では、燃料とする木材の調達が難しくなってきたのでしょうか。

それとも、人の出入りが多くなり、鍛冶をすることが出来なくなった。

もしくは、鍛冶の技術を秘密にしたかった。

まだ他に理由があるかもしれませんけど、なんだかの理由で宮川の上流に移動した。

しかも、久具都比賣神社のさらに上流です。川沿いに行った場合の距離は30kmぐらいあります。

徒歩だと、3日くらいかかるでしょう。人を近づけないという場所としてはうってつけですよね。

帰りは、小さな船(カヌー?)を作ってそれに乗れば、簡単に久具都比賣神社に行けます。

そこで、鉄と辰砂を交換して外宮まで行けば運搬はスムーズにいきます。

まあ、これはおいらの推測でしかありませんけどね・・・

瀧原宮が、内宮よりも早く出来たと言われますけど、もしそうなら、わりと早い時期に出来ています。

ということは、燃料の木が不足するということは無かったことになります。

そうすると、鍛冶の技術を知られたくなかったという理由が有力になります。














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神路通り

2022-10-01 05:43:45 | 猿田彦
鉄素材は、まず、月夜見宮から陸揚げされ、外宮に向かいます。

その間の道を、現在では「神路通り」と呼んでいます。一度歩いたことがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神路通は、外宮の裏参道と月夜見宮を結ぶ道で「神の通う路」と言われています。
夜、石垣の一つを白馬に変え、その馬に乗って行ったそうで、夜は神様に出会わないように道の真ん中をさけ端を通ったと伝えられています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サタヒコの時代には、馬は日本には居なかったのではないかな?

五世紀前後の時期、古墳時代中期からですよね。

神宮のHPより引用させてもらいます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所のみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
雄略天皇 (418年~479年)

 このころの話ですね。ならば、馬がいるでしょう。

雄略天皇の事を調べると、サホヒコやサタヒコの事をよく知っておられるようなのです。

白山中居神社は、景行天皇12年の創祀ですけど、

雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したそうなのです。

これは、サタヒコ達のいきさつを知っているということになります。

でもなんで、等由気大神を丹波から呼んだのだろう?

アジサハヒメ(アメノウズメ)を祀ってある場所は、伊勢には、最初からなかったのだろうか?

ならばおいらは、勘違いをしていたことになるけど・・・

良く考えると、アジサハヒメを伊勢に祀る意味がないですよね。

でも、三種の神器の勾玉は誰の御霊を宿しているのだろうか?

つまり、八咫鏡は、天照大神。 天叢雲剣は、彦坐王。 

八尺瓊勾玉は、誰?ということ。

分からなくなってきた・・・


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