前に書きましたけど、猿啄城(さるばみじょう)で、大ぼて山と、水の手を捜しに行きましたけど、再度挑戦です。
以下、参考までに引用です
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さて、織田信長は、堂洞合戦の前に、この猿啄城を攻めています
信長公記より引用です
猿 ば み の 城 、 飛 騨 川 へ 付 き て 、 高 山 な り 。 大 ぽ て 山 と て 、 生 茂 り た る 翻 あ り 。 或 る 時 、 大 ぼ て 山 へ 丹 羽 五 郎 左 衛 門 先 懸 に て 攻 め の ぼ り 、 御 人 数 を 上 げ ら れ 、 水 の 手 を 御 取 り 侯 て 、 上 下 よ り 攻 め ら れ 、 即 時 に つ ま り 、 降 参 、 退 散 な り 。
つまり、丹羽五郎左衛門が大ぼて山を攻略し水の手を取った。とあります。
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今回は、西の迫間不動から、水の手を捜しました
このあたりまで行ったんですよ
でも、それらしき水の手はわかりませんでした。
そして、坂がきつい! 水を運ぶのにはこのルートは適さないと思います
ならば、候補地は迫間不王の滝の上流でしょうか?
それから、迫間不動の西には沢がありました
そのうちの、どちらかもしくは両方かと思います
猿ばみ城から1キロちょっとですけど、尾根伝いに行けるので楽です
当時と地形も変わっているかもしれませんし、他にもルートがあるかもしれません
ですから、あくまで推測ですけど、もし水源がそこなら 「大ぼて山」は明王山かも知れませんね
明王山から見た猿ばみ城 (左の山の頂上の白いぽつんとしたところ)
180度回転して西を見ると
迫間城跡がありますけど、城は、当時、まだ無かったかもしれません
資料がまったく無いんですよね
おいらの、伯父にあたる人が調べていたそうです
でも、すでにだいぶ前に他界されているのでそのことについては話しすらしたことがありません
残念ですね。
それと、岩屋観音堂で以下のように書きました
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信長が、猿ばみ城攻略の時には、おそらく、舟を数艘、綱でつないで橋のようなもの(舟橋)を作り
それを利用して、大勢の兵士が川を渡ったのではないでしょうか。
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ところが、「武功夜話」と言うものには次のように記録されているそうです。
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『信長様御下知、栗巣向う岸大ぶて山に向け、丹羽五郎左衛門に仰せつけらる、美濃方多治見次郎なる者手勢600ばかり、堅固也、川幅およそ5間、渡りに舟無く、大岩に大綱繋ぎ、素肌となりて渡り、城は2町先、聞えれば矢玉の的、綱を頼りに対岸へ、猿啄の城兵は水の手より不意に攻め立てられ慌てふためき大井戸(太田)へ退散也』
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舟ではなく、綱をたよりに泳いで渡った?
それとも、綱渡りをした?
刀や槍、弓矢やら鉄砲をもってそんなことが出来るのでしょうか?
流れは急で、水深もかなりあると思います。
いや、試すことはご勘弁・・・