たまにはぼそっと

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迫間城 その2

2009-06-15 05:15:36 | Weblog
ローカルな話題ですみません。

迫間城の城主について、調べてみました。
すると、その父親らしき人物が有名な人のようです。

以下、引用です

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大島光義
1508年〜1604年 美濃大島の出身。
弓の名手として世に知られるようになったという。

織田信長に仕えて姉川、長篠の戦いなどに参加し、本能寺の変後は丹羽長秀、次いで豊臣秀吉に属して弓大将を務めた。

慶長3年(1598)、摂津・美濃・尾張国内で1万1200石を与えられる。「関が原合戦」では徳川家康に与し、東軍の一員として会津征伐に従軍する一方、次男・3男は西軍に属させて家名の存続を図った。

戦後、美濃関1万8000石に加増され1604年、97歳で没。

生涯53度の合戦に臨み、41通の感状を得たという歴戦の勇士であった。

その死後、遺領は4子に分封され、それぞれが旗本となったため、関藩は光義の死によって廃藩となった。のち長男光成・4男光朝の系統は断絶したが、2男光政の川辺大島家・3男光俊の迫間大島家は明治まで無事に存続している。

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この大島氏の発祥の地は、さまざまないわれがあり、不明です。
大垣説と、京都説の二つが有力のようです。

以下引用です

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大島氏は新田氏流を称し、「応仁の乱後尾張国春日井郡に住して郷士となり、家紋に揚げ羽の蝶を用い、一族中には美濃に住した人もあった。

大島氏は木曽三川を中心に川筋衆として活動していたと思われる。

NTTの電話帳では京都府(丹波の面積の過半数を占める)に大島氏が約610人登録されており相当な人数に達しますし、京都府の大島氏の家紋は美濃大島氏と同じ「揚羽蝶」を使っている方もみえるそうですので、美濃大島氏は丹波から来住したのかもしれません。

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と、このようなところです。

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コメント
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