Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

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イメージの病(やまい)-臨床と症例 13

2013年12月07日 | Weblog

オリジナル・コピー・シミュラークル
百瀬文展「なぞる人々」(新宿眼科画廊)

一枚の写真を前にしたわれわれは何を見ているのか。一つの視覚的イメージ(像)か、それとも現実の事象(事物やその状態)か。もちろんわれわれがまず目の前にしているのは、現実の事象の空間・時間から切り離され、縮小され、紙やモニター上に静止化・平面化された一つの画像-イメージである。しかし、写真を見るわれわれはすぐさまそのイメージを現実の事象に還元してしまう。これこそが透明なメディウムとしての写真の機能であり、ロラン・バルトが言う「被写体とイメージの密着」である。写真は一つのイメージであると同時に、現実から切り離された一つの事象でもあるわけだ。ここに写真を語ることの困難さがある。われわれが写真について語る場合、われわれはいったい事象について語っているのか、それともイメージ―写真そのものについて語っているのか。

映画の場合はどうか。映画においてもまた、目の前で展開されるイメージの運動を、それが演じられた運動だろうと、生の現実の運動(ドキュメンタリー映画)だろうと、現実的な運動に還元することになる。その現実的運動とは、ある状況が提示され、登場人物がそれを知覚し、どう消化し、その状況にどう行動するか-知覚・変様(情動・触発)・行動という感覚運動的図式、いわゆるドゥルーズがいう行動イメージである。行動イメージの連なり(状況→行動→状況→行動・・・)が一つのストーリー(語り)を形づくることになるだろう。したがってわれわれは、映画というイメージを見るといよりも、感覚運動的図式に還元された(あらかじめ観念化・言語化された)ストーリーを読むことになる。

イメージと事象。写真や映画といったテクノ画像は、このイメージと事象が交差したところに成立している。この二重性こそが、記録と表現を始めとして、現実(ノンフィクション)と虚構(フィクション)、客観的イメージと主観的イメージ、自然と人為・・・といったさまざまなアポリアを生じさせることになる。

新宿眼科画廊で開かれていた百瀬文のヴィデオ作品「なぞる人々」は、「なぞる」(なぞる・なぞられる)という言葉をキーワードに、映像が有するさまざまな二重構造(むしろ反転構造と言ったほうが正しいかもしれない)を露呈させてみせる、とても興味深い展示であった。時にユーモラスに、時に生々しく、露骨なまでにあらわにされた映像の反転構造は、ヴィデオ作品を観るわれわれにいかなる知覚体験を強いるのだろうか。

「なぞる人々」は、「Calling & Cooking」「Mirrors」「Take2」「Lonely romancer」の4つの作品から構成されている。もちろん一つひとつを独立した作品として観ることも可能だが、やはり4つの作品を全体としてとらえた方がより生産的な気がする(その理由は後述する)が、まずは一つひとつの作品をなぞってみよう。

さて、ギャラリーに入って最初に出会う作品が「Calling & Cooking」である。この作品は、一人の女性が料理をしながら、遠方にいる元の恋人と電話をする状況を撮ったものである。この女性が電話の会話中に「AYA」と呼ばれることから作者本人であると推測できる-つまりセルフ・ドキュメンタリー(その意味では自分をなぞった映像なのか)-が、ここではとりあえず、フィクションなのか、ノンフィクションなのかにこだわる必要はないだろう。

何台かの固定カメラで、料理中と電話中の姿がとらえられるとともに、玉ねぎを刻むアップや台所周りが映され、さりげなくこの女性の現在の状況が暗示されている(例えば、二本の歯ブラシなど、新しい恋人がいることを示唆している)。この作品は、われわれが日常生活でしばしば経験する、テレ・テクノロジー(電話など)による“身体”と“意識”の分裂を再現したものである。われわれが映像の中で見ている現実的運動の空間では、玉ねぎを刻むという身体行為が行われている。しかし、“意識”は電話を媒介とした別な空間に引き裂かれようとしている。玉ねぎを刻む行為がぎこちなくなり、制御し切れなくなる様によって、“身体”と“意識”の分裂のプロセスが可視化されている。“身体”と“意識”の空間的な分裂-台所の“ここ”と電話の“あそこ”-は、現在という時間の分裂でもある。なぜならば、“ここ”という空間における“身体”と“意識”における“いま”の一致が現在という感覚を生み出すとすれば、この“身体”と“意識”の分裂は現在という時間の分裂を含んでいることになるからだ。実際、お互いの近況がさりげなくかわされる中で、この女性の“意識”は過去(元恋人との思い出や別れの原因等々)へと導かれていく。その証拠となるのが、突然に挿入される、目元とそこから流れる涙の、他の映像とは異なる生々しい二つのカットである。おそらくこの作品の鍵となるのがこの二つのカットであろう。つまり、涙の原因となったのは、いま料理中に刻んでいる玉ねぎが原因なのか、それとも過去の思い出がもたらしたものなのか。映像の鑑賞者はそのいずれの判断も下すことができない。とするならば、女性の涙はどのような空間で起こっている出来事なのか。われわれもまだここでは、この疑問を宙吊りの状態にしておこう。

同じ部屋にさりげなく展示された小品が「Mirrors」である。カメラモニターに映されたインコが鏡に投影されている。しかしカメラレンズの先にインコはいない。インデックス(オリジナル)なき映像の反復。カメラモニターのインコは鏡に投影されたインコなのか。鏡のインコがカメラモニターに映されたインコなのか。オリジナル(現実)のインコはどこにいるのか。どちらのインコがどちらのインコをなぞっているのか。ここでもまたわれわれはその判断を宙吊りにされる。ここであらわにされている構造は、ジャック・ラカンが説くミラーステージの構造そのものである。あるいは、同じことだがロザリンド・クラウスがヴィデオについて論じたナルシシズム的構造。

三つ目の作品「Take2」は、一人の役者が牢獄に入った囚人の絶望を演じるのだが、その絶望がうまく演じられず、監督の声(オフヴォイス)から何度も駄目だしをだされるという映像である。登場人物である役者は何度も自らの演技をなぞっていくことになるというわけである。この映像を観るわれわれは通常、囚人の絶望を演じるメイキング映像ととらえるが-とりわけオフヴォイスの監督の声によって映像の内と外が区別されることで-、しかし、囚人の絶望を演じられない役者の絶望を、さらに演じた映像ととらえることも可能だろう。演じることを演じるという反復。ここでもまたわれわれは演じられる対象を特定することができない。

四つ目の作品「Lonely romancer」は、映像の内と外、映像とその対象の反転をさらに明快にあらわにしたものである。この作品では大小二台のモニターが設置され、一方(小)にはカラオケをする女性が、他方(大)ではカラオケの映像が流されている。カラオケ映像とともに表示された歌詞をなぞりながら、カラオケをする女性が歌う。ところがカラオケ映像に登場する女性が仕事途中に着替えをし、カラオケに入っていく。そこで大小モニターの映像が逆転する。カラオケをする女性はカラオケ映像の登場人物というわけである。そして、そのカラオケ映像の登場人物をなぞりながらカラオケを歌う女性。この女性のいる空間はどこか。映像の内か外か。

こうした入れ子構造は決して珍しいものではないし、映像固有のものでもない。例えば、J・L・ボルヘスはそのエッセー「『ドン・キホーテ』の部分的魔術」(『続審問』所収 中村健二訳)の中で、いくつかその例を挙げている。『ドン・キホーテ』の続編の登場人物たちは、『ドン・キホーテ』の正編を読んでいる。シェークスピアの『ハムレット』の中では、『ハムレット』に似た悲劇(舞台)が演じられ、ハムレットがその舞台を観る。シェへラザードが皇帝に語り聞かせる『千夜一夜物語』では、その皇帝の物語が挿入され、皇帝は自らの物語を聞く。百瀬文の面白さは、こうした入れ子構造をカラオケという日常メディアの中に見出したことだろう。

「Mirrors」「Take2」「Lonely romancer」の三作品はいずれも、映像とその対象(現実、オリジナル、インデックス等々)、指示するものと指示されるもの、あるいは“なぞるもの”と“なぞられるもの”を反映、反復、反転させることによって、その関係性を識別不可能にしている。その結果、これらの作品を鑑賞するわれわれは、判断を保留され、宙吊り状態に置かれることになる。この宙吊り状態は鑑賞者にとってどのような意義があるのだろうか。前述したエッセーの中で、ボルヘスは次のように語っている。

  「地図が地図の中にあり、千一夜が『千夜一夜物語』の中にあることが、
   何故われわれを不安にするのか。ドン・キホーテが『ドン・キホーテ』
   の読者であり、ハムレットが『ハムレット』の観客であることが、何故
   われわれを不安にするのか。わたしはその理由を発見したように思う。
   物語の作中人物たちが読者や観客になることができるのなら、彼らの観
   客であり読者であるわれわれが虚構の存在であることもあり得ないこと
   ではないからである-これらの作品の逆流構造はこのことを示唆している」
   (同上)。

ここでボルヘスが語っている不安とはなんだろうか。われわれの言葉で言い直せば、宙吊り状態に置かれることでもたらされることでもある。冒頭でテクノ画像がもつ「イメージと現実の事象」という二重性について指摘したが、実は、われわれはその対象(現実の事象)と映像(イメージ)をオリジナルとコピー(擬似現実)として区別することで、あるいは現実に準じたコピーと受け取ることで、その二重性を解消し、そこで生じる不安を回避しているのではなかろうか。とすれば百瀬文の「なぞる人々」は、その構造を露骨にあらわにすることによって、オリジナルとコピーの関係を転倒させ、われわれの不安を顕在化させようとしていると言えるだろう。オリジナルなきシミュラークル(偽物)の世界。

ここで再び、最初の作品「Calling & Cooking」に戻ってみたいと思う。先にわれわれは「女性の涙はどのような空間で起こっている出来事なのか」と書いた。玉ねぎが涙の原因なのか。思い出がその原因なのか。言葉を変えて言えば、涙の原因は生理的反応なのか-身体的(行動)イメージ、心的反応なのか-感情的イメージ、われわれはどちらにも判断できないということである。どちらにも還元できない、いわばドゥルーズが言うところの変様イメージとも呼ぶべきものである。ドゥルーズはその著『シネマ2‐時間イメージ』(宇野邦一他訳)の中で、デ・シーカーの映画『ウンベルトD』のあるシーンを例に挙げて次のように語っている。少し長いが引用する。

  「朝、若い女中が台所に入ってきて、一連の機械的な、うんざりする動作を
   続ける。少しばかりの洗い物、水をまいて蟻を追い払い、コーヒーを挽き、
   のばした足の先でドアをしめる。彼女は妊娠した自分の腹に眼をむける。
   あたかも世界のあらゆる悲惨がそこから生まれるかのように。こうして一
   つの月並みな、あるいは日常的状況の中で、無意味なだけにいっそう単純
   な感覚運動的図式にしたがう一連の動作が続くうちに、突然出現するのは
   一つの純粋な光学的状況であって、若い女中はこれに答えることも反応す
   ることもできない。腹、そして目、これは出会いなのだ・・・・・・。」

ここでドゥルーズが言う「突然出現する純粋な光学的状況」とは、感覚運動的図式に従うことのない、あるいは還元できない潜勢的な映像のことである。「Calling & Cooking」の中の「女性の涙」はまさに、ドゥルーズが言う「光学的状況」と言えないだろうか。不特定な空間、あるいは純粋で空虚な空間に生起する出来事。「感覚運動的諸状況にとってかわる純粋な光学的音声的状況」(ちなみにドゥルーズは、イタリアのネオ・リアリズム映画を“運動イメージ”から“時間イメージ”への移行を示すメルクマールとしている)。ここから一つだけ理解することができるとすれば、宙吊り状態、あるいは不安がわれわれを感覚運動的図式の習慣化された反復から逃れ、潜勢的な変様イメージを現前させているということである。「lonely romancer」の中でも、「やっとめぐりあえた」「あなたを待っていた」と歌われるではないか。カラオケを歌う人はカラオケの映像の中で本当(他者として私)の人物に会えたのかもしれない。シミュラークルの力。

ところで、われわれをこうしたメタレベルの視点に立たせることを容易にしたのは、ヴィデオという再帰的メディアの機能かもしれない。反映と反省の反復。

最後に、再びボルヘスの次の言葉を引用して、今月のレビューを終えたいと思う。

  「セルバンテスのテクストとメナールのテクストは文字どおり同一であるが、
   しかし後者のほうが、ほとんど無限に豊かである」
   (「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」『伝奇集』所収 鼓直訳)

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