湘南発、六畳一間の自転車生活

自転車とともにある小さな日常

横浜中華街でシルクロードの東端を想った

2006年09月10日 | 日常生活
昨夜の横浜中華街。ちょうどシルクロードの旅について書かれた本を読みはじめたばかりだったので、なんとなくその旅の東端の国である中国に自分もいるような気分に少しだけなった。小さな通りの雑多な雰囲気は、その本の著者が一日の行程を終えて食事に繰り出す中国のどこかの町の賑やかな路地のようにも感じられた。



振り返れば学業もスポーツも何一つ極めたことのない、劣等感の塊のような中途半端で凡庸な大学生であった著者が、ふとしたきっかけで東京から静岡の実家へ徒歩で帰省することを思いつく。そしてそれを実行する。朝陽とともに歩き出し、日が暮れると適当な寝場所をみつけて深い眠りに落ちる。そんな小旅行が思いのほか彼に充足感を与える。そして考える。歩いて旅をすることによって、自分を変えることがもしかしたらできるのではないかと。そして彼はシルクロードを徒歩で旅行することを思いつく。

西安からローマまでの距離が1万3000キロであることは、ある自転車旅行記で知ったそうだ(多分、『ちゃりんこ西方見聞録』という本ではないかと思う)。そしてその1万3000キロを徒歩で歩いたとしたらと彼は考える。すると、それは長く見積もっても2年半で歩き通せる距離だったのだ!2年半というのは静岡までの6泊7日と比べるととても膨大な時間に思える。けれども、それは人生の持ち時間からすればほんのわずかではないかとも思う。幾世紀もかけて行なわれた民族の移動や文化の伝播の痕跡をその2年半で垣間見ることができるのだとしたら、と彼は考える。そうして大学を卒業したその年に彼は1万3000キロに及ぶシルクロードの徒歩の旅にでる。

この本を僕は(いつものように)たまたまた図書館で見つけたのだけれども、ここに書かれたような前書きを読んで少し前のめり気味になってしまった。劣等感の塊のような学生が旅にでて自分を変えようとするというのは本に書く動機としてはどうかと少し思ったけれども(多分最近の多くの作家たちは“スタイル”としてこういった「青い」ことはあえて書かないような気がする)、この著者の語り口調は偽りのない静かな誠実さに溢れているように感じられて、そういったことをとても素直に、好意的に受け入れることができた。そしてやはり驚いたのが、2年半でシルクロード1万3000キロを歩けてしまうことだった。そのことに気づいたときの著者の興奮を、僕はしっかりと共有することができた。そしてそんなことを考え、実行しようというこの本の著者を心から応援したい気持ちになった。

僕はまだ600頁もあるこの本の80頁を読んだに過ぎないのだけれども、ゆっくりと歩くこの著者につきあって、著者の視線でシルクロードを旅してみたいなという気持ちになっている。地味な徒歩旅行だけあって、ここに書かれているのは(いまのところ)次から次へとハプニングが起こってといったような内容ではない。淡々とした旅の内容が、ことさら抑え気味に静かに描かれているような気がする。それはなるべく物事を真摯に自分の目で捉えようという著者の気持ちのあらわれのように僕には感じられる。ときどき語られる文化論のようなものも、自分で見たものを自分の感じた範囲、伝えられる範囲で自分のことばで語っているように思える。そういった抑え気味な文章がなんだかとても心地良く感じる。多分、僕はこの著者に好感を持ったのだと思う。

これから彼は乾燥した中央アジアに足を踏み入れていく。自転車で走れる距離にすら水場がないかもしれような場所を徒歩でどうやって旅をするのか。僕は自転車乗りなのでそんなことにも興味がいく。ローマまでどんな旅が続くのがとても楽しみだ。そしてローマに着いたとき彼がどんなことを感じるのか。そして僕がどう感じるか。そんなことがとても楽しみだ。



※朝エントリーしたときに、シルクロードの「西端の国である中国」って書きましたけど、中国はシルクロードの東端ですね。自分で気づいて焦りました。でタイトルと本文の該当箇所をなおしました。お恥ずかしいですぅ。