ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「私の独り言」 続き

2015-03-30 22:53:57 | その他
昨日、フト書き始めた「私の独り言」の続きです。

乾いた心を抱えて鬱々と過ごした日々から、神の御許に戻れた今、わたしは神様による救い、
赦し、癒しが分かっていて(多分)、その平安を神に心から感謝しています。
そして、神の御許を離れて生きていくこと、神を信じることなく生きていくこと、つまり
罪人としての「的外れに生きていくこと」の虚しさ、心細さを思うにつけ、
これまでの生き方が罪だったのだ、自分は罪人であったのだと実感し納得できるのです。

教会を、キリスト教を伝道する時に、「私たちは罪びとであるにも関わらず、イエスの
十字架の贖いによって神に赦され、救いに道に招かれている。私たちは贖われ喜びに満ちている」
という導入はどうなのでしょう、と昨夜、フト考えました。 
「求めよ、さらば与えられん」ということで、求める気持ちを持たない人々に福音を述べ伝え、
分かってもらうのはとても難しい、と考えた次第です。
教会に行くことは、神様にすべてを委ねた信仰の生活とは、こんなにも満ち足りているということを
心の欠けを実感していない人々に伝えても説得力は無いように思いました。
罪から解放される喜び、と言われても罪の自覚が無くてはなんの説得力も無いでしょう。

しかし、日々の生活の中で、本当は多くの人が満たされない思いを抱いているのではないでしょうか。 
心の深奥に大きく、またはひっそりと空しい思いを抱いているのではないでしょうか。 
充たされる思い、心からの充実、ぶれない拠り所を、本当は皆求めているのではないでしょうか。 
自分の心にある、そういう思いを自覚した人々に告げられる時、福音は力を持って働き、
人を罪びとから救うことでしょう。

教会に連なる者として、ぶどうの枝に連なる者として、私も伝道をしたいと思う日々ですが、
結局は、わたし自身が活き活きと喜びに満ちて生活することが救いに与った者としての証しになる、
罪から解き放たれるとはこういうことだ、という証しになるのでしょう。

そして、信仰薄い、信仰弱いわたしが神様に生かされている生活を活き活きと楽しく過ごすには、
礼拝に集う事を含めた教会生活、祈り、聖書、これ無くしては成り立ちません。
私の平安を一人でも多くの方と分かち合いたいと願う日々です。


春の日差しの中で仲良く水浴び。 
<ヤマガラ>と<メジロ>です。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

教会の出版物「信音」の最新号(3月29日発行)にK長老が書かれています。
『美竹教会の教会員はそれぞれの賜物に応じて教会を支えている。
会員の超高齢化は否定できないが、にもかかわらず左近先生を通して神さまから
元気をいただいて、それぞれが教会に集い、互いに家族のように支えあっている。
これほど素晴らしい経験が他にあるだろうか。
まだ教会に来られていない多くの方と分かち合えればと思う。』

縁あってこのブログに目を留められたアナタ、ぜひ美竹教会の扉を押して訪ねてみてください。
コメント
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