ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

自分は・・・・・

2014-12-03 08:59:35 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ヨハネによる福音書」16章2節 です。
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。
しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。


「牧師は信徒につまずき、信徒は牧師につまずく」という話をずっと昔に聞いたことがあります。
タイトルは忘れてしまいましたが、教会内のクリスチャン同士の様々な軋轢を描いた曽野綾子さんの
面白い短編を読んだことがあります。
クリスチャンは罪赦された、しかし罪深い弱い人間でもあります。

私たちクリスチャン一人一人の傍らには絶対者である神がおられます。
その神に常にフィードバックして自らを省みるならば、クリスチャン同士の争いや憎しみなど
あり得ないはず、と私は思っていましたし、思いたいものです。
たまたま英和辞典で individualism という言葉を調べた時に『個人主義、という日本語からは
“利己主義”を連想しがちであるが、英語のindividualismは本来、絶対神との一対一の関係に
最重点を置いて生きるキリスト教徒個々人の生き方、心構えをさすのであって、自己中心的、
あるいは自分勝手に生きることをいうのではない。“個人を尊重すること”という意味は
ここから生じる』という解説を読んで、その思いを一層強くしました。
他人との間にどんな出来事が勃発しても、私は神様だけを見ていよう、私は神様に見守られているとt
その思いだけですべては解決すると思っていた私は浅はか者なのでしょう。

教会もまた、弱く罪深い人間の集まりなのです。
キリスト教の歴史を見ると、その発生の時からすでに分裂が始まっていましたし、
異端問題も常にあったようです。何故なのか? 
今日の聖句を読んで、またまた納得するものがありました。
「自分は神に奉仕している」と考えて使徒を殺す者がいるとイエスは言われました。
各々が自分は神のみ心に適う者、正しく神のみ心を証しする者であると信じて、
それ以外の考え、行為を否定、抹殺するのでしょう。

私は毎朝「今日も神様のみ心を証しする者として過ごさせてください」と祈ります。
そして、一つ一つの出来事に何が神様のみ心かは分からずに、多くは感情の赴くままに行動しています。 
日常はそれでもそれほど困らない気がしていますが、大きな決断を迫られた時、
神様のみ心は何かを真剣に問う時、自分がどうするか・・・・・・・考えてしまいました。



春紫苑か姫女苑か分かりませんが、秋の野に春の花が咲いていました。


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