ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

私の今も神が遣わされたもの?

2013-07-22 20:42:36 | 説教
私が、何十年も遠ざかっていた教会に戻ったのは、心を病むほどのつらい出来事に遭遇したからです。
悩む私をみて姉は教会に戻るように、神様の御許に戻るように強く勧めました。

姉の言葉に従い聖書を読み、祈り、礼拝に出るようになって(神様の御顔を仰ぎ、手を合わせて祈ることで)
私は何とか気持ちのバランスを保ち、平安な日常を過ごすことができるようになりました。

私も神様のご計画に組み込まれ、今の場所(境遇)に神様から遣わされていると考えると、無意味で
むなしい私の人生も、意味あるもの、使命を持ったもの、と信じられるようになりました。
毎朝、あ~あ、今日も目覚めてしまった、という感慨ではなく、今日一日も少しでも神様の御言葉を証し
する者として過ごしたい、と目的意識を持つことができるようになりました。

非力な私でも、なんとか神様の福音を一人でも多くの方にお知らせしたいと願う毎日を心から感謝しています。
私にも使命があり、神様の御用に用いられているということが信じられるのは何よりも嬉しく幸せなことです。

もし、私がつらい出来事に遭遇せず、私から見て順風満帆の暮らしを続けていたら、教会に戻ることもなく
聖書も読まず、祈りもせず、神の御許に戻ることなく人生を終わっていたことでしょう。
私が神の御許に戻ることが神様のご計画であり、今の私の場所は神様が私を遣わされた場所なのだとしたら
私はそのことに素直に心から感謝します。

しかし、そのために私の存在そのものを否定するような、人生全体を否定するような、悲しくつらい出来事が
私を襲ったのだとしたら、あまりにも悲惨な気がします。

今でも続いている悲しくつらい出来事が無かったとしたら私は神様の御許には戻らなかったかもしれない・・・・
教会に連なる現在の幸せと、あのまま続いたであろう順風満帆の生活とどちらがよかっただろう・・・・・
比べるのはおかしいのかもしれませんが、私はその思いから離れられません。
神様を仰ぎ見ながら信仰の生涯を全うする幸せと、つらい出来事に出会わず神様に戻ることなく過ごして
いたであろう生活と、比べるのは愚かだし、いまさら取り返しはつかないのに、今でも、考えてしまいます。

すべては神のご計画だったのだとして、私の払った犠牲はあまりに大きなものです。
私の悲しみは、神様に信頼して生きるという幸せを得るために必要なものだとしても、身から出た錆とはいえ、
やはりそれは私にとってかなり残酷なものです。

エジプトに売られ、誤解から地下牢に十年以上も閉じ込められていたヨセフは毎晩どんな祈りを神に
捧げていたのでしょう。 涙ながらに神に訴え、枕を濡らして眠る夜も多かったことでしょう。
今私は、すべては御心のままに、と祈るのみです。

(昨日の礼拝説教「遣わされたのは神」をお聞きして埒もないことを考えました。)



<アオスジアゲハ> 今年の公園は蝶が少ないような・・・・


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