二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

派閥抗争 “皇道派”という誤認

2021-04-09 01:53:00 | 二・二六事件


二・二六事件を語るとき必ず上がるのが、所謂“統制派”と“皇道派”による派閥抗争である。
結論から言うと、青年将校は皇道派ではない。よって事件は派閥衝突によって生じたものでもない。これは意外と誤認されているので、改めて言わせて頂く。
将校一人一人の認識は判りかねるが、少なくとも決起前のインタビューにおいて栗原、安藤、野中の解答としては「どちらにも属さない」というものだった。


陸軍内部の派閥について、末松太平の「私の昭和史」から引用する。

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皇道派とは指導原理を国体の正しい姿に求めて理解する理念であり、統制派とは、一にも二にも、統制統制で諸般の事務を革新までも含めて処理することで、その指導原理は、皇道でなくてもよく、ナチズムでも、ファッシズムでも、極端な言い方をすればマルキシズムでもいいわけで
(中略)
皇道派といい、統制派といったものは、もとより抽象した概念であって、必ずしも個々の具体を表明し尽くしたものではないから、この二つの概念だけをたよりに、当時の軍内の動向を把握しようとすることは、ある面の理解には役立っても、これをもって安易に全般を理解しようとすれば、実態を見損なうわけである。分類は自分でするのでなく、勝手に他がするものであるから仕方がないが、私自身皇道派の一人として分類されることには不満である。
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実際、真崎甚三郎も
「派閥というのはジャーナリストがいつの間にか作ったもの」
と語っている。


それから余談ではあるが、昭和11年に外務省調査部が作成した「軍部人名録」の中では、末松太平が“統制派”に分類されていること、末松の「松」が「永」になっているのが何だか可笑しかった。

(写真は「昭和陸軍の真相」より)




これは本来思想の違い、方向性の違いにすぎない。それにどこかで線引きをしてしまった。皮肉なことに一軍人を語るとき、一言派閥を付け加えてもらうと判りやすいのもまた事実であり、実際私も使わせてもらっている。




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