僕の細道

オウム

「オウム真理教」

あのオウムの教義って目茶苦茶なんですよね。インドを放浪していた時、あちらでは「サドゥー」と呼ばれる人達が居ました。彼等は悟りを開く為と称し、様々な戒律を立て、行っていました。しかし、彼らの実態はかなりいい加減な物で、「バクシーシ(喜捨)」で得た金銭は「ガンジャー(大麻)」に変わり、民衆から蔑まれていました。

麻原彰光みたいな胡散臭い輩は沢山いました。なんせ、あの教義の内容はインド大乗仏教、タイの小乗仏教、イスラム教、チベットの古典仏教、日本の各種仏教など、あちこちの教義を一緒くたに混ざった代物で、ある程度の知識があれば、その矛盾などに気が付く事でしょう。

また、信心する若者達は最近、流行っている「自分探しの教室」へ行く人達となんら替わる事は無いでしょう。

「自分の居場所」「自分の存在価値」を求め、迷い、児童虐待する親達にも同じ事が言えます。

そして、それらを遠巻きにし騒ぐ様は子ども達の“いじめ”をしている様と似通った行為でしょう。

私を含め、彼等を忌み嫌うのは「鏡に映った自分の様」を見せられるからではないでしょうか?

本来の宗教の有様(ありよう)は勧誘などの行為はしてはイケナイのです。信心する宗教を己自身に投影し、その様(行為)が他の人達の関心を引き、信心する者が増えていく姿が本物だと思います。また、宗教は人の心を支え、強くする力を持っています。

そして、強くなった心は自立へと進み、卒業(悟り)へと昇華していくのですが、近代の宗教は一部の幹部を支える為の上納金制度として活用されているのが現状です。また、政治への発言を得る為に信者を増やしたりもしています。オウムのように「権力」を得がたい為に「力」を誇示する集団も有ります。

あちこち放浪して見聞きしましたが、どの宗教が良くてどの宗教が悪いとは自分で判断するしか無いでしょう。その判断力をもその人の「心の力」が必要となってきます。「心の力」を得る為に「宗教」と鶏が先か?卵が先か?と同様となってしまいます。

では、現実的な対処はどうしたら良いでしょうか?

識者達と同じコメントなってしまいますが、まずは「情報公開」などの「透明性」。退会者(退会希望者)の「受け皿」となる施設が必要となってきますし、それに伴うカウンセラーの存在も必要になってきます。そして、社会復帰へのカリキュラムと職場が要るようになります。

以前に「破防法」を適用と有りましたが、あの時施行しておけば、もう少し楽に対処法が出てきたと思います。日本は法治国家を表するゆえ、法律の拡大解釈でしか、彼等を取り締まる事が出来なくなっています。

韓国の金大中大統領の北朝鮮外交と同様に「太陽政策」を取るか、米国のブッシュ新大統領の「北風政策」を取るか、各自が難しい判断を迫られる事になるでしょう。

インド放浪時に仏教のお坊さん曰く「宗教で平和は訪れない。何故ならその信者の信仰心がそれを妨げるのだよ。」と言っていました。あと、海外放浪中に「肯定、否定、認識」というのを覚えました。
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