ビデオ見ましょうどうしましょう

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田中山王社一名

2006-02-18 16:18:43 | Weblog
田畑之助を祀つたと言ふ田中山王社一名田畑ノ宮は、疑ひもなく同じ粟の話のある恒世ノ社である。膳所の近辺中庄村瓦浜に在るが、古くは其地の亀屋といふ家の界内に在つた。其家は堀池氏で、堀池は佐々木氏の一族だ(誌略)といふが、亀屋の主人が祭りの頭人となる時の名が、田畑之助だつたかも知れぬ。
山門・寺門の関係と、大友村主(スグリ)の本貫であると言ふ辺から、山王を天武、新羅明神を大友ノ皇子と考へた時期も、あつたらしく思はれる。所謂桃のにこう(尼公か)の件は、石芋民譚(土俗と伝説一の一、田村氏報告参照)の形式で、穴生とも言ふ賀名生に脂桃の話のあるのは、暗合でなく何かの脈絡のありさうな気がする。

表面

2006-02-18 16:18:15 | Weblog
説経の表面から見ても、山王祭りにえたの干与する事を暗示して居るやうであるが、古くは、京の河原辺のではなく、瀬田川下の村が与つて居たのではあるまいか。此民譚直接間接に深い交渉を持つてゐぬとも言へまい。
細工が臼の上に若の座を設けたと言ふ形は、浅草観音宮戸川出現の条に似てゐるが、ともかく、祭りにが重要な役目を務めた事を示したのは疑ひがない。尚細工を古くから馬具細工の意に解して居た証拠は「名歌勝鬨」には、細工小次郎に宛てゝ、鞍作杢作及び其娘お為と言ふのを設けて居るのでも知れる。

同性の愛が

2006-02-18 16:16:21 | Weblog
愛護若伝説を輿地誌略の作者の友人は「秋の夜の長物語」の飜案と考へて居たらしく、志田義秀氏は長物語から糸を引いた、隅田川伝説の一つと考へられたらしい(郷土研究一の三)。長物語と此民譚とに通じる点は、

梅若(長物語)愛護二人ながら、公家の子である点(い)。叡山に関係ある点(ろ)。桂海律師と細工と(は)。叡山なる人に逢ふ為、住家を出ること(に)。唐崎の松が、主要な背景になつてゐること(ほ)。入水(へ)。衣掛け(と)

の数ヶ処で、似て居ない点もある。其は、

肝腎な「松のうけひ」と「桃・麻の呪ひ」が、此にはあつて、彼には見えぬ事(ち)。同性の愛が中心問題になつてゐるのと、ゐぬのと(り)。継子虐待の有無(ぬ)。此は本地物で、彼は発心物語の一種とも言ふべきこと(る)。彼は山門・寺門の交渉を背景としてゐるのに、此は三井寺には無関係なこと(を)

などである。長物語は全く、智証門徒なる南谷の慶祚と、西谷の座主良真との関係(厳神抄)に、脚色を加へたものであらう。其上、隅田川の梅若と比べると(い)(へ)(と)並びにさすらひ(わ)の四点は類似して居り、細工と人買ひとが、幾分同じ傾向の役廻りに在る事を感ぜしめるに過ぎぬ。

革細工

2006-02-18 16:15:53 | Weblog
尤、革細工を細工と言うたのは、説経以前の有無は疑はしい。或は皆人知り悉した伝説である為、名を略した事、田畑之助の姓を脱したのと同じだ、との説明も出来ぬではない。而も輿地誌略には、小次郎、若に男色の語らひをした様に書いてゐる。「女筆始」には、若に思ひを寄せた男を関寺半内として、其妻が計らうて、若に事情を訴へて、盃を貰ひ受ける事になつてゐる。或は説経は此点を落したのかも知れぬ。

天満

2006-02-18 16:15:28 | Weblog
大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二つあれば後の申、三つあれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、中下坂本・へいつち(比叡辻か)村をはじめ、二十一个村の氏子たちが、船祭りをする(六段目)と言ふのである。
表紙の題簽に、

ひよしさんわうまつり     天満
あいごの若
からさきのひとつ松のゆらい  八太夫

とあつて、宝永五年正月の、大伝馬町鱗形屋の出版である。説経が江戸に大いに行はれて、八太夫座の勢力が張つて後の発刊である。此古浄瑠璃には、必若干の脚色と誇張とが、伝説の上に加へられてゐる事は期せなければならぬ。

稚児

2006-02-18 16:14:22 | Weblog
暗く雨降る夜、家を出て四条河原にかゝると、南に火の漏れる茅屋がある。細工のの住む処である。近寄つて戸を敲くと、盗賊かと思つて、薙刀を持つて来る。愛護一部始終を語ると、敬ひ畏んで、臼の上に小板を敷き、荒菰を敷いて、米を賀茂の流れで七度清めて、土器に容れて献る。此から神の前に荒菰を敷く風が出来たと説いてゐる。夜が明けて、細工に送られて、叡山へ志す。処が、中途まで来ると、三枚の禁札が立つてゐる。一枚目のには女人禁制、二枚目にはさんひ(?)やうじや、三枚目には細工の禁制が、書かれてゐる。細工が帰らうとすると、愛護が、強ひて叔父の処まで送つてくれと言ふ。「仰せ尤にて候へども、賤しき者にて候へば、只御暇」と言うて、引つ返した。
愛護一人で、帥ノ阿闍梨を訪れた処、叔父は、甥若の訪問に驚いて、其車馬の数を見させた処が、稚児一人立つてゐたので、此はきつと、北谷の大天狗が我行力を試る為に来たのだと思うて、そんな甥はないと言うて、大勢に打擲せしめた。若は山を下りようとして、三日山路に迷うた末、三日目の暮れ方に、志賀の峠に達した。其処で疲れて休んで居ると、都へまんぞう(万僧)公事に上る粟津の荘のたはたの介兄弟が来会うた。終始を聞いていとほしがり、柏の葉に粟の飯を分けてあたへた。「其御代より、志は木の葉に包め、と申すなる」と説明してゐる。

愛護

2006-02-18 16:13:44 | Weblog
六条判官は、尚恨が霽れぬ上、相手が初瀬寺に参籠して、何か密事を祈願して居ると言ふ事を聞いて、家来竹田の太郎及びよしながと共に、桂川に邀へ撃たうとする。二条家には、荒木左衛門といふ家来がある。主人夫婦に従うて、初瀬寺からの帰り途、桂川で現れた伏せ勢と争うて居る処へ、南都のとつかう(東光か)坊が通りかゝつて、仲裁する(二段目)。
北の方は玉の様な愛護(アイゴ)ノ若(ワカ)を生む。誓約の三年は過ぎて、若十三歳になる。約束の期は夙に過ぎた。命を召されぬ事を思ふと、神仏にも偽りがある。だから、人間たるおまへも其心して、嘘をつくべき時には、つく必要があるといふやうな事を訓へる。初瀬観音聞しめして、怒つて御台所の命をとる為に、やまふのみさきの綱を切つて遣はされたので、若はとう/\、母を失ふことゝなつた。
左衛門並びに親類の者が、蔵人の独身を憂へて、八条殿の姫宮雲井ノ前を後添ひとした。愛護は、父の再婚の由を聞いて、持仏堂に籠つて、母の霊を慰めてゐる。あまり気が鬱するので、庭の花園山に登つて、手飼の猿、手白(てじろ)を相手に慰んでゐる姿を隙見した継母は、自分の子とも知らず、恋に陥る。侍女月小夜(ツキサヨ)を語らうて、一日に七度迄も、懸想文を送る。若は果は困じて、簾中に隠れてしまふ。

趙の手

2006-02-18 16:12:40 | Weblog
 歌の声は消えるように輟(や)んだ。趙は夢の覚めたようにして愛卿の側へ往った。
「おいで、お前にはいろいろ礼も言いたい、よくきてくれた」
 趙の手と愛卿の手はもう絡みあった。二人は室の中へ入った。
「お前はお母さんのお世話をしてくれたうえに、わしのために節を守ってくれて、なんともお礼の言いようがない、わしは、今、更(あらた)めて礼を言うよ」
「賤(いや)しい身分の者を、御面倒を見ていただきました、お母様は私がお見送りいたしましたが、思うことの万分の一もできないで、申しわけがありません、賊に迫られて自殺したのは幾分の御恩報じだと思いましたからであります、お礼をおっしゃられては恥かしゅうございます」
「いや、お礼を言う、それにしても、お前を賊に死なしたのは、残念で残念でたまらない、今、お前は冥界(めいかい)におるから、お母さんのことも判ってるだろうが、お母さんは、今、どうしていらっしゃる」

沁園春

2006-02-18 16:11:37 | Weblog
 改葬が終ったところで、趙は墓へ向って言った。
「お前は聡明な女であった、凡人ではなかった、わしの心が判っているなら、もとの姿を一度見せておくれ」
 趙は家へ帰っても銀杏の下へ往って、これと同じようなことを言ったが、これはその日ばかりでなしに、翌日もその翌日も、毎日のように白苧村の墓と銀杏の下へ往ってそれを言った。
 十日近くにもなった頃であった。その晩は家のまわりに暗い闇が垂れさがって、四辺(あたり)がひっそりしていた。趙は一人中堂にいたが、退屈でしようがないので、いっそ寝ようかと思ったが、どうも寝就(ねつ)かれそうもないので、そのまましかたなしにじっとしていた。と、どこからか泣声のような物声が聞えてきた。趙は不思議に思うてその方へ耳をやった。それは確かに咽(むせ)び泣く泣声であった。
 泣声はすぐ近くに聞えた。趙は何者の泣声だろうと思って、起って声のした方へ眼をやったが何も見えなかった。趙はこの時ふと思いだしたことがあった。
「だれ、愛愛じゃないのか、愛愛なら何故すぐきてくれない、愛愛じゃないのか」
 趙はこう言ってまた透して見た。
「愛愛でございます、あなたのお言葉に従いましてまいりました」
 それは耳の底にこびりついている愛卿の声であった。趙はその方へ眼をやった。人の歩いてくるような気配がして物の影がひらひらとしたが、やがて五足か六足かの前へ白い服を著た人の姿がぼんやりと浮んだ。面長な白い顔も見えた。それは生前そのままの愛卿の姿であったが、ただ首のまわりに黒い巾(きれ)を巻いているだけが違っていた。
 愛卿の霊は趙の方を見て拝(おじぎ)をしたが、それが終ると悲しそうな声を出して歌いだした。それは沁園春(しんえんしゅん)の調にならってこしらえた自作の歌であった。

愛卿

2006-02-18 16:10:28 | Weblog
 家は依然として立っていたが、入口の扉はとれて生え茂った雑草の中に横たわっており、調度のこわれなどが一面に散らかって、それに埃(ほこり)がうず高くつもっていた。脚下(あしもと)で黒い小さなものがちょろちょろと動くので、よく見るとそれは鼠であった。
 荒廃した家の内からは、返事をする者もなければ、出てくる者もいなかった。趙は驚いて家の中を駈け廻ったが、母親の影も愛卿の影も、その他にも人の影という影は見えなかった。
 趙は茫然として中堂の中に立っていた。庭の方で鳥の声がした。それは夕陽の射した庭の樹に一羽の(ふくろう)がきて啼いているところであった。
 淋しい夕暮がきた。趙は母親と愛卿は、楊参政の麾下の掠奪に逢って、どこかへ避難しているだろうと思いだした。彼は翌日知人を訪うて精(くわ)しい容子を聞くことにして、そのあたりを掃除して一夜をそこで明かした。
 朝になって趙は、嘉興の東門となった春波門を出て往った。そこには紅橋があった。趙はその側へ往ったところで見覚えのある老人に往き逢った。
「おい、爺じゃないか」
 それはもと使っていた僕(げなん)であった。
「だ、旦那様じゃございませんか」
 老人は飛びかかってきそうな容(ふう)をして言った。
「ああ、俺だよ」
 趙は一刻も早く母親と愛卿のことが聞きたかった。
「爺や、お前に聞きたいが、家のお母さんと家内は、どこにいるだろう、お前は知らないのか」
「旦那様は、まだ御存じがないのですか」
「知らない、どうした、お母さんと家内は、どうしたというのだ」
 趙はせき込んで言った。
「旦那様、えらいことが出来ております」
 老人の眼に涙が湧いて見えた。
「どうした、早く言ってくれ」
「旦那様、びっくりなされちゃいけません、大奥様は御病気でお亡くなりになりますし、若奥様は苗軍(びょうぐん)の盗人(ぬすびと)のために、迫られて亡くなられました、なんとも申しあげようがございません」
 趙は青い顔をして立ったままで何も言えなかった。
「旦那様、しっかりなすってくださいませ、大奥様が御病気になりますと、若奥様が夜も睡らないで御介抱なさいました、お亡くなりになってからも、若奥様がほとんどお一人で、お墓までおこしらえになりましたが、苗軍がやってきて、劉万戸という盗人が、若奥様を見染めて、迫りましたので、若奥様は閤(こざしき)へ入ってお亡くなりなさいました」
「そうか、俺が旅に出たばかりに、こんなことになった、俺が悪い、爺や俺は馬鹿者だ」