特に深い意味はないけど。。。無くはない。

2009-09-07 22:55:37 | Weblog
 昨日、僕の祖母がなくなりました。



 僕は、母親が公文の先生ということもあって、小学校時代はおばあちゃんとの日々しか記憶にありません。夕食が精進料理のようにおいしくないとか、公園に一緒に遊びに行ってくれたとか。。。(もう泣きそう)今でもその情景が浮かびます。柳崎の公園にいったね。手をつないで。蕨の皮膚科にバスで酔っちゃう僕を連れて行ってくれたり。。。あの時も手をつないでくれたね。僕が夜眠れないときはいっつも手をつないで寝てくれたね。布団三回たたいたら手を伸ばしてくれたね。いつも安心して寝れたよ。おばちゃん。ありがとう。小学校高学年とかになって少し反抗したり。家を建てかえるまではいつも一緒の部屋だったね。おばあちゃんの作った、マリの刺繍とか広告を細長くして編んだ植木鉢とか今でも僕の心に残ってます。

 家を建て替えてからはなんとなく3階と1階で離れちゃったし、そのころから足腰も弱くなったり、ちょっとぼけてきちゃってしまいには部屋で一人の食事や老人ホームとかに入れちゃって、そのことに対して仕方ないと思っちゃた僕はダメな人です。ごめんね。寂しかったでしょ?ごめんさい。しかもそれから5年くらいして入院したとお母さんからの話で初めてお見舞いにいったときは僕の名前は覚えてなくてやっぱりしょうがないかなと思ってしまった僕は諦めが早い子です。

 9/1突然お母さんから、おばあちゃんの体調がよくないと聞いてその日に行かず。最初の日曜にまで伸ばした僕はやっぱり締めるとこ締められない僕です。でもね、でもね、丹波のお墓が病院のそばにあって、おばあちゃんが入院していた病院がウチの系列病院だったこと、当直明けに初めて患者さんの死亡確認した後に、おばあちゃんがなくなったのは、なんかの関係があるって思ってもいいよね?おばあちゃんに僕の白衣姿見せてあげられなかったけど、ちゃんとそれなりに仕事していることを天から見ていてね。

 先日、患者という立場でカルテを見させてもらいました。看護師の記載のほうがより日常を浮かべられて涙が出てきました。今病棟にやっぱりボケて大声を四六時中出している人、おなかがパンパンでそう長くはない人、吐血してしまいやはそう長くない人その一人ひとり同じ感情を寄せられるかといえば、それは残念ながらNoだけど、僕にとっておばあちゃんという人の存在を生かせる方法はそういった人とできるだけ向かい合うことではないかと考えちゃいます。17歳でなくなった丹波。僕にとって大切なおばあちゃん。どちらも死に際には立ち会えず。悔しいけど、この経験を風化させないために今の生活と絡めようと僕は考えます。


 今日、病棟で偉い先生に入院患者の病状説明(いわゆる上申)というものをしました。相変わらずできない僕で死んでしまいたかったけど、堀君は明るくていいねとほめてもらいました。それだけが取り柄ですから。。。とおどけてみましたが、その先生の眼が馬鹿にしている眼ではなかったのでおどけることができました。僕の根底に流れているものは、同じことをやるなら楽しく、前向きにだと思います。そのためにはちょっとのバカと愛嬌とちょっと多めの努力だと思います。



 おばあちゃんが亡くなりました。98まで生きました。最後は老衰でした。合計15年近く施設に預け、顔も一度くらいしか合わせていないくそみたいな僕が葬儀に参加する資格はないと思いつつ、明日参加して来ます。そういった恥じらいを捨てるちょっとバカになる努力をして、おばあちゃんにちゃんとありがとうをいってきます。


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