ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

オウム真理教と聖なるもの

2018-07-10 20:08:30 | 日記
先日、オウム真理教の教祖・松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の刑が執行
され、平成の日本社会に、大きな〈なぜ?〉の問いを投げかけた。刑が執行さ
れた翌日、新聞各社は申し合わせたように、社説でこう書いている。

なぜ教団は社会を敵視し、サリンの散布にまで走ったのか。暴走をとめるこ
とはできなかったのか。その根源的な疑問は解けないまま残されている。
(中略)中でもとり組むべきは、教団が若者を吸い寄せ、拡大を続けた理由
解き明かすことだ。」
  (朝日新聞7月7日《オウム死刑執行 根源の疑問解けぬまま》)

「皇室を狙い、国家転覆まで企てた。それぞれの事件の構図や、誰が関わった
かについては、法廷の審理を通じ、かなり明らかになった。
また、信者が教団に傾倒していく経緯や、教団生活の実態についても法廷で語
られた。
だが、このような理不尽な犯罪が、なぜ優秀だった多くの若者を巻きこんで遂
行されたのか。その核心は、いまだ漠としている。」
        (毎日新聞7月7日《松本死刑囚ら7人の刑執行
                   再び闇を生まないために》)

「オウム真理教をめぐっては、長期にわたる裁判などを通して、多くの『なぜ
』を解明する取り組みがなされた。それにもかかわらず、明確な答えや教訓を
十分に得ることができないまま、ここまで来てしまった感が強い。
最大の『なぜ』は、学歴も常識もある、素直で真面目な多くの若者たちが教団
に魅入られ、教祖のもとで無差別殺人に突き進んでいったという事実である。」
        (日本経済新聞7月7日《刑執行で終わらぬオウム事件 》)

私が解らないのは、こうした〈なぜ?〉がなぜ長い間、解明されぬまま放置さ
れてきたかである。我々のほとんどが忘れかけていたこの〈なぜ?〉の存在
を、我々は死刑の執行によって思い出したのだと言ってよい。

それではなぜ、この〈なぜ?〉は長い間、解明されぬまま放置されたのだろう
か。それは、この〈なぜ?〉が合理的=理性的な解明を受けつけないようなタ
イプの問いだったからではないか。

私がそんなふうに思うのは、ルドルフ・オットーーー名著『聖なるもの』の著
者として名高い宗教哲学者・ルドルフ・オットーーーの見解を思い出したから
である。オットーは、宗教体験の本質を、道徳的要素をまったく含まない、純
粋に非合理的なものであるとしている。ここで言う「宗教体験」とは、ある事
柄を「聖なるもの」として感じとり、受け入れる心的体験のことであるが、そ
ういう心的体験はまったくもって非合理的なものだとオットーは言うのである。
その上でオットーは、(道徳的・合理的要素を差し引いた)この「聖なるもの」
を、ヌーメン的なものヌミノーゼと名付けている。

このヌミノーゼを構成する要素としてオットーがあげるのは、デモーニッシュ
なものに対する畏怖の感情、絶対的優越者・力あるもの・巨怪なものに対する
感情、魅惑するものに対するディオニュソス的な狂喜と積極的服従の感情など
である。この見解に基づけば、麻原に心酔した若者たちの心的体験は、宗教体
験の本質に深く根ざすものだということになる。青白き秀才である若い信者た
ちの心に、麻原はおどろおどろしい巨怪な存在として感じられたのである。

これらの若者たちは、麻原というおどろおどろしい巨怪な存在を「聖なるもの」
として感じとり、そのようなものとして受け入れたが、オットーがくり返し強
調するのは、そういうヌーメン的なものに対する価値評価が、道徳的価値評価
とはまったく別のものだということである。オットーによれば、この宗教体験
から生じる拘束の感情、つまり義務感は、しょせん道徳や、道徳的良心とは無
縁のものなのである。

このオットーの見解は、高学歴の青白き秀才たちがなぜ麻原を聖者として崇拝
するようになったのか、という問いに対して、一応の説明を与えるものと言え
るだろう。ーー国家や社会に対して敵意をあらわにし、「力への意志」をむき
出しにするこの脂ぎった説教者を、彼らはなぜ聖者として崇拝するようになっ
たのか、という問いに対して、オットーの見解は、一応の説明を与えるものと
言えるだろう。「一応の」説明と言ったのは、この説明が「宗教体験とは、本
質的に、また一般に、そのようなものーー非合理な、理解できないものーーで
ある」と述べているに過ぎないからである。

非合理な宗教体験の前では、あらゆる問いが無意味なものになる。今後、その
ような信者(=非合理な宗教体験にとらわれる者たち)を生み出さないように
するには、どうすればよいのか、といった問いも、すべて無意味なものにな
る。宗教への〈なぜ?〉にはなぜ答えが出せないのか。我々はまずもってこの
根源の問いに向き合うことからはじめなければならない。
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2 コメント

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Unknown (k)
2018-07-11 13:16:06
宗教体験が、たとえ強要されたものでも、そのように他を無力化するような絶対的なものになるということですよね。オウム真理教は、そのことをよく知っていたのだな、と思います。ただ、おそらくこの教団は、強制的に宗教体験をさせるような、いわゆる「マインドコントロール」を行っていたと思われ、そこに至る道のりには、勧誘の文句に魅力を感じて集会に参加してしまったなどの要素が必要だと思います。ですので、こうした事件が繰り返されないようにするには、宗教体験に導かれる手前で、それを食い止める手立てを考えるしかなさそうですね。
コメントありがとうございました (ささやん)
2018-07-11 14:17:38
kさま
kさまのご意見は、たしかにごもっとも、その通りだと思います。オットーが「宗教体験」ということで思い描いているのは、イザヤ、エレミア、ホセアといった古代ユダヤ教の預言者たちや、苦難に遭った義人ヨブのような人たちですので、私の記述もそういう人物たちのイメージに引きずられてしまいました。
オウム真理教の若い信者たちの場合は、勧誘の甘い言葉によって集められた若者たちですから、kさんがおっしゃるように、今後、同種の事件を未然に防止するには、そういう勧誘の場を作らせないことが有効な手立てになると思います。
他にもお気づきの点があれば、機会を見てご教示ください。

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