物事には流行(はや)り廃(すた)りがある。一世を風靡した流行歌も、やがては廃れ、「懐メロ」と化す。「懐メロ」になるならまだしも、いずれ世間から忘れ去られて、忘却の闇に沈んでいく流行歌も少なくない。
流行作家も同じ運命にある。渡辺淳一や北方謙三はじめ、もう名前も思い出せない多くの作家たちがいる。その中でも五木寛之は別格で、いつまでも異彩を放っている。そう思うのは、私が五木の大のファンだからだろうか。
つい先ごろも、五木は『捨てない生き方』を書いて、独特の存在感を発揮した。世の中はことごとく断捨離ブーム。捨てよ減らせよ、物を持たないシンプルな生き方こそ最高、というわけだが、五木はこの考え方に真っ向から異議を唱えている。
物には、それを手に入れたときの記憶がこびり付いている。物を捨てるのは記憶を捨てるのと同じで、物を一切合切捨て去ったあとのシンプルな生活は、何とも貧弱で味気ない生活にならざるを得ない。だから自分はあえて物を捨てないのだ。ーーこれが五木の主張なのである。
我々は記憶とともに生き、記憶とともに成熟する。記憶は我々の生活を彩りに富んだ豊かなものにしてくれる。
これは、人が年をとるとともに実感する人生の真理だと私は思う。
記憶の大切さ。記憶のかけがえのなさ。とはいえ同時に、記憶ほど厄介なものはない。五木はこんなふうに書いている。
「記憶というものは実にいいかげんなものである。私自身のことをふり返ってみても、そう思う。勝手な思い込みというやつがある。記憶ちがいということもある。時間がたつにつれて、デフォルメされてしまった思い出もある。他人から聞いた話を、自分自身の体験のように信じこんでしまっている例もある。そして一度そうときめこんでしまった誤りは、なかなか直りようがない。」
(『僕はこうして作家になった』)
記憶のデフォルメについては、かのモンテーニュも人並はずれた「巧者」だったようだ。彼はこんなふうに書いている。
「記憶について口出しすることが私ほど似合わない者はない。私は私のうちにほとんど記憶の痕跡を認めないし、世の中に私の記憶ほど異常に欠陥のあるものはないと思うからである。私は他の能力についてはすべて中くらいで、人並みである。だがこの記憶にかけては特異で稀有であるから、この点で名声と評判を得る資格があると考えているほどである。」
(『エセー』第9章)
私が今デイサで読んでいる五木の『僕はこうして作家になった』であるが、これは「デビューのころ」と副題にあるように、彼が作家としてデビューを果たした若いころの記憶に基づいている。
記憶をベースにしているからには、そこに多少のデフォルメが加わっていることは避けがたい。読者としての我々も、この本をそういうものとしてーーつまり、一種のフィクションとして読んだほうがいいのだろう。
流行作家も同じ運命にある。渡辺淳一や北方謙三はじめ、もう名前も思い出せない多くの作家たちがいる。その中でも五木寛之は別格で、いつまでも異彩を放っている。そう思うのは、私が五木の大のファンだからだろうか。
つい先ごろも、五木は『捨てない生き方』を書いて、独特の存在感を発揮した。世の中はことごとく断捨離ブーム。捨てよ減らせよ、物を持たないシンプルな生き方こそ最高、というわけだが、五木はこの考え方に真っ向から異議を唱えている。
物には、それを手に入れたときの記憶がこびり付いている。物を捨てるのは記憶を捨てるのと同じで、物を一切合切捨て去ったあとのシンプルな生活は、何とも貧弱で味気ない生活にならざるを得ない。だから自分はあえて物を捨てないのだ。ーーこれが五木の主張なのである。
我々は記憶とともに生き、記憶とともに成熟する。記憶は我々の生活を彩りに富んだ豊かなものにしてくれる。
これは、人が年をとるとともに実感する人生の真理だと私は思う。
記憶の大切さ。記憶のかけがえのなさ。とはいえ同時に、記憶ほど厄介なものはない。五木はこんなふうに書いている。
「記憶というものは実にいいかげんなものである。私自身のことをふり返ってみても、そう思う。勝手な思い込みというやつがある。記憶ちがいということもある。時間がたつにつれて、デフォルメされてしまった思い出もある。他人から聞いた話を、自分自身の体験のように信じこんでしまっている例もある。そして一度そうときめこんでしまった誤りは、なかなか直りようがない。」
(『僕はこうして作家になった』)
記憶のデフォルメについては、かのモンテーニュも人並はずれた「巧者」だったようだ。彼はこんなふうに書いている。
「記憶について口出しすることが私ほど似合わない者はない。私は私のうちにほとんど記憶の痕跡を認めないし、世の中に私の記憶ほど異常に欠陥のあるものはないと思うからである。私は他の能力についてはすべて中くらいで、人並みである。だがこの記憶にかけては特異で稀有であるから、この点で名声と評判を得る資格があると考えているほどである。」
(『エセー』第9章)
私が今デイサで読んでいる五木の『僕はこうして作家になった』であるが、これは「デビューのころ」と副題にあるように、彼が作家としてデビューを果たした若いころの記憶に基づいている。
記憶をベースにしているからには、そこに多少のデフォルメが加わっていることは避けがたい。読者としての我々も、この本をそういうものとしてーーつまり、一種のフィクションとして読んだほうがいいのだろう。
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