私たちは、生きていますと何かをしているとつまらなくなったり、飽きてくることがあります。
しかし、それがいいのです。
つまらないから、飽きるから楽しいのです。
おもしろいのです。
幸せにしてもそうです。
幸せなりたい人は意外に思われるかもしれませんが、幸せになるとあんなになりたかった幸せに飽きて、次の幸せを求め始めます。
つまり、幸せになってもその幸せが当たり前になりつまらなくなるのですね。
そして、今ある幸せに不平不満を言い始めます。
あんなに幸せになりたかったのに。
何を言いたいかというと今、幸せだからつまらない、飽きてくるとも言えるのです。
その事実がありますとつまらないことにも、飽きてくることにも感謝ができます。
つまらない、飽きてくることはありがたいことです。
ところでサッカーという競技があります。
サッカーは、味方と敵に分かれて試合でゴールに入れた点数を競い合います。
しかし、これは、もしお互いゴールキーパーもおらず何点でも入れていいですよ、となったらはたして楽しいでしょうか?
いいえ、つまらないと思います。
敵が邪魔してくれるからあんなに楽しいのです。
試合が盛り上がるのです。
もし。
もし、その敵の邪魔を問題だと考えるとどうなるでしょうか。
敵の邪魔という問題があるから試合が盛り上がり、楽しいことを考えますと問題というのは幸せかもしれません。
問題というのは言い方を変えると幸せのことだ、と私は真剣にそう思います。
高齢者の方が今回の人生で後悔していることはなんですか、という質問にたいしての答えというのがあります。
もっと他人を気にしなければよかった。
もっと幸せを噛み締めておけばよかった。
などの答えがあります。
私には、もっと問題が欲しかったと聞こえます。
いえ、問題があるから人生は楽しいのです。
問題の渦中にいますともう問題はいいよ、問題は起こらなくていいよといいます。
押してダメなら引いてみろ、と昔の人がいったように全体で見てみる視点も必要だと思います。
目の前の問題も明日死ぬことを想像しますと些細なこと、いえ、どうでもいいことのように思えるものです。
問題はいつのまにか生まれて、いつのまにか消えるのです。
問題も数が限れている。
問題という幸せは数が限れているのです。
ならば、避けられない問題ならばありがたくいただくという視点も必要という話でした。