人は夢が叶うと喜びます。
すると喜びますが、やがて夢が日常になります。
日常が続き、また夢ができます。
そして、夢が叶い喜びます。
喜びますが、やがて夢は日常になります。
もしかしたら、この流れすら日常かもしれません。
何を言いたいかというと真理とは、日常だったと言いたいのです。
無料で、時間がかからず、誰にでもあって、いたるところにある。
それが日常であり、日常に真理があると思います。
風にあり。
川の流れに、川の作りにあり。
山にあり。
海にあり。
大地にあり。
太陽にあり。
地球にあり。
大自然にあり。
それらにあります。
ただ、あるだけ。
何かしようとか、こうしようというのは「私たち」だけ。
あるとは生きるだけのことです。
生きると言い出すと、お金が、仕事が、家族が、人間関係が、と言いたくなる。
けど、それらもあるだけ。
自分に関係があるように思うと関係があるように思うけど関係はない。
いえ、関係はあるんだけど、関係はない。
関係があるように考えるから関係があるように錯覚するだけ。
私たちは人類皆、関係妄想の病気なのかもしれません。
どこかで誰かがあれとそれとこれは「私に」「関係がある」と言い出した。
だから「私に」関係があるように「感じている」だけ。
錯覚しているだけ。
関係のあるそれには実体はないのです。
あるのは形と名前。
ロープが蛇に見えるように錯覚しているだけ。
以外とロープが蛇に見えているのは「私」だけだったりするかもしれません。
とは言ってもお腹は空くし、あれは欲しいし、怖いものは怖いし、痛いものは痛いですね。
それが私の日常なんです。
私たちの日常にあるのはロープでしょうか?蛇でしょうか?
あれれ?おかしいな。
ロープも蛇もふたつあるように見えますね。