蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

カミサンと芝居

2005年07月02日 | つれづれに

 7月、雨が来た。ようやく梅雨らしい雨が、雷を伴って足を速め始めた。芝居小屋の太鼓が打ち出す雨の音が耳に蘇る。3月と5月東京に飛び、歌舞伎座で勘三郎襲名の舞台に昼夜通った。6月には博多座で海老蔵襲名の「口上」と「助六」に酔った。
 いつの間にか大向こうから声を掛け、人の3倍楽しむのが恒例になった。まだ拙い声だが、師は家内である。芝居好きの曾祖父が道楽昂じて興行の道に踏み込み、(お陰で家族は大迷惑を蒙ったらしいが、芝居を観る目は確かでも、現実的金銭面の感覚は皆無の人だったらしい)それを継いだ祖父が博多に芝居小屋「大博劇場」を建て、その奈落や楽屋を駆け回って育った家内は、幼い頃から芝居の世界にドップリ浸かって数々の役者達の名舞台を観てきた。
 博多財界がチャリティーとして定着させていた名士劇の名女形だった叔父や、芝居の台本を書いていた叔母達に囲まれて、家内も造詣を深めていった。その知識見識は既に素人の域を越えている。その背中を見て育った上の娘も、いつの間にかいっぱしの歌舞伎通になっていた。(叔母は膨大なノートを遺した。「大博劇場」をめぐる家族の歴史であると同時に、博多の演劇史を語る後世に残すべき貴重な文献であり、目下家内も手伝いながら福岡女学院や久留米大学の教授達と出版の準備が進んでいる。)
 戦後「大博劇場」が姿を消して長い年月が過ぎた。「芝居どころ・博多」の見巧者も少なくなり、先年ようやく念願の劇場「博多座」が誕生したが、声も少なく拍手もまばらな反応の薄い団体客中心の小屋は淋しかった。家内にそそのかされ、おだてられながら、見よう聴き真似で声を掛けるようになった。一瞬の間(マ)に声が決まったときの快感は喩えようがない。その微妙な間(マ)を家内が肘でそっと教えてくれる。独り立ちして声をかけられるようになるには、まだまだ道は遠い。
 少年の頃、近く坂田藤十郎の大名跡を継ぐ鴈治郎はまだ初々しい扇雀だった。そのあまりに美しい姿に息を呑んだことはあったけれども、私はむしろ新劇の世界にハマっていた。自身の初舞台は小学校6年生。(因みに、ミツバチの扮装で手を繋いで舞台を駆け回った幼い初恋の人は、今では医大教授夫人。冷徹な目線と乾いた小気味よい文体を駆使するエッセイストとして名を成している。)中学時代は菊池寛の「恩讐の彼方に」や倉田百三の「俊寛」、宮崎某の「乞食と夢」、高校では文芸部に籍を置いて小説を書く傍ら、芥川龍之介の短編を脚色して「羅生門」、大学ではアルベール・カミュの「正義の人々」を演じてきた。(その仲間の一人は先年のJ航空の羽田沖逆噴射事故で亡くなり、二人は癌で既に他界している。)
 育児や介護で長く芝居の世界に距離を置いていた家内は、今憑かれたように歌舞伎に浸っている。ご近所で「ときには歌舞伎を楽しもう会」を作って呼びかけ、海老蔵襲名に23名、9月の玉三郎には既に40名近い仲間が集いつつある。生活の中で芝居の世界を断った家内の母も、きっと草葉の陰でそんな娘を暖かく嬉しく見守っていることだろう。
 ひとしきり激しくなった雨音の中で、優しく穏やかだった義母の笑顔を偲んだ。
           ( 2005年7月;:写真:歌舞伎座芝居提灯)