<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

己を主とせず、主をわが主とできるように

2010-09-01 19:45:42 | デボーション(瞑想)。
おのれ(己)を主とせず、主を私の主とできるようにーー・・

と思ったのです、。今ふと。

自己高慢心、自己過信、自己顕示欲。。あげたらキリがありませんが

暴露しますと、私はこれらを併せ持つこと、最多の部類の人に入ります、元々・。自覚はしてました。すでに小学生くらいから。お勉強はできてよく目立って(ごめんなさい、”自”慢ですね、その後見事に挫折してますから。。)、自慢しがたりで 自分でもわかってた。いい時はいいけれど、それでも人と比べてみて、”ちょっと自分、いやしいな みっともなくないか?”ってうすら薄ら知ってたりして。

それで悩みつづけて 結局、自分は持って生まれたパーソナリティを変化させることなどできず、
”あの人(のように、つつましくおとなしやかな)のようになりたい”と思ってはみても無理って。

あ・・ちょっとそれてきましたね

創り主なる神がわかって それで 自分を主とせず ・・ 神を自分の人生の在り方、方向性の”主”とすることで、自己を慢心させず、自分が必ずしも花形になってなくても、じんわり満足できるんでしょう・・ たとえ、人からそしられても、自分が自分自身の”主”になってなくて 主に”主”となってもらう人生に生きてると、もしかして、他人のそしり、とかにも鈍感になれるのだろうな。

人に批判されたり悪評、悪口なんか言われて、”カッ”~としたり”何さ、あんな人に、自分のよさを、わかるわけ、ないさ!”とか思ったりなんかするのは・・自信のなさ、の裏付けなんじゃないか?(私に言ってる)・・・ 人に何を言われようが 私が私のことをだめなやつだなあ、と感じようが 威風堂々 主にしたがう人になりたいのだが・・・

<考察・かえって、(私のように)クリスチャンで、私は神にしがたって歩いています、って自覚のあるような人より・・最近、神の”か”の字も言わなくても、黙って 主のいうところに従って歩んでいる人もいるような気がして、その方がもっとすばらしい、と思ったりして>

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<イザヤ書 50章から>

主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、
疲れた者を言葉をもって助ける事を知らせ、
また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、
教をうけた者のように聞かせられる。


(中略-しかし、ここはイエス・キリストの受難の部分の描写です、ex.わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ・・・恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。)

しかし、主なる神はわたしを助けられる。
それゆえ、わたしは恥じることがなかった。
それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。
わたしは決してはずかしめられないことを知る。
わたしを義とする者が近くおられる。
だれがわたしと争うだろうか、・・(略)


・・・人にわたしを言い訳しなくても、神がわたしを弁護してくれます (主に従うものに)

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もういっちょ!EG White著作の「艱難から栄光へ」から抜粋です、

~なぜ、人は苦難を受けるのか?(よい人が、こともあろうに・・)
  という、理解を超える出来事をどう考えていいかわからない時に 助けになる 答えだと思います

「試練は、神の子らをこの世の不純なものからきよめるために、神(キリスト)の学校において与えられる教育の一部である。試みの経験がやってくるのは、神がその子らを導いておられるからである。試練や障害は、神がお選びになった訓練方法であり、神が指定された成功の条件である。人々の心を読み取られる神は、彼ら自身が知る以上に彼らの弱さをよく知っておられる。神は、ある者たちが、正しく指導されれば、みわざの進展に用いられることのできる資質を持っているのを見られる」