その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

蛙の面には…

2022-07-18 08:29:12 | 転職

カエルだって嫌がると思うけれど…

非難されたり、罵倒されても平気で、反応のないことを例えて『蛙の面に小便』などと申しますが、「蛙の面に水」が本来の言葉らしい。明治以降、俗に『小便』が多用されることとなったとの解説もある。ご丁寧に《蛙の顔に水をかけても平気なところから》…と状況の解説もあるから、一度、「蛙の面(頭)」に水滴を落とす『実験』をしてみたのだけれど、水滴を前足で払ったり、体の向きを変える行動を取ったから、決して『平気』ではないと思うのだけれど…。(何らかの反射、反応は示すのであります^^;)
さて、『おやじぃ』が住む集落の神社の「例大祭」もつつがなく執り行われ、後はサッサと後片付け…人間の変わり身の早いこと早いこと^^; そして、毎年気になるのが、「修祓(しゅうばつ)の儀」(参列者を祓い清める儀式でありますなぁ。)の文言なんですけれど…「掛けまくも畏き 伊邪那岐の大神…恐み恐みも白す。(かしこみかしこみ もまをす。)」という祓詞(はらえのことば)、本来なら、「ご低頭ください。」と言われて、素直に頭を下げて祓い清めていただく身でありますが、頭の中ではグルグルと宮司の文言を追っかけている。こうしてネットで文面を検索して、目で確認しているから書けますけれど、耳から入って来る音だけで拾い集めると、最初と最後の文言しか頭に残らない^^; こうしてみると、中抜きされても、途中文言を間違えても、参列者は一切気が付かないわなぁなんて、またバチ当たりなことを考えてしまう訳であります。お経も祝詞も『意味不明』な方がありがたい?宗教と言うよりも、イベント(催事)を執り行っているだけの関係性…お寺や神社と次第に疎遠になっていくのでありますよ。


時代の流れか…

『自然への畏敬の念』や『死への恐怖』、『己の生き様』に至るまで、「宗教」が人々の心を救済するという面があったのだろうけれど、いつの間にか『人様』の方が偉くなってしまったのかなぁ?
今では『伊邪那岐の大神』が、日本列島を創ったなどと信じる方はいない(多少は居るか…自分がそうだからと言って全否定はいけないなぁ^^;)と思うのだけれど、事ここに至って「神さま、仏さま」と手を合わせるのだから、多少は神仏の救済を信じているのかも知れない。午後からは、雷、そして大雨…人の力では何とも避けられない災難の時だけ、神仏に頼るのも如何なものかと思うのだけれど、改めて「人智の及ばない世界」があり、「人間とは弱い存在である」と感じられるのも、身に沁みついている『宗教観』のお陰かも知れないなぁ…。
はてさて、「蛙の面に水」…己の身に降りかかった「災難」は自らの手で何とか振り払わなければいけない。(その場から「逃げる」というのも妙手かも知れない。)そうやって、『おやじぃ』は何とか今まで生きて来られたと思うのだけれど、不幸が不幸を呼んで、『宗教』に救いを求めてまた不幸を呼んで…とまぁ、嫌な事件が続き過ぎる。カエルにも「脳」はあるけれど、余計なことを考えるための『脳』ではないと思う。余計なことを考える『脳』を持っているから、人間は救済を求めるのかも知れないなぁ。「あるがままに」と平然と生きるには、もう少々、修行が必要なのかも知れないなぁ…。

#戦争反対 「蛙の面に水」…カエルも水を払うなら、力のない『呪文』もいつかは届くかも…。

コメント
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