夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

《秋の旅路》『みゆき舞ふ 田沢の森 冬の訪れ』~田沢高原滞在記~ 《下》

2014-10-18 09:10:12 | 旅のあれこれ
      第三章 夕暮れより雪が舞い降りて

私たちグループは、『孫六温泉 』に入浴した後、
宿泊している『プラザホテル山麓』のご厚意で、マイクロバスで『休暇村乳頭温泉』に行き、
館内の内風呂、そして周囲はブナ林の露天風呂に満喫した。

過ぎし10月中旬は、ブナの黄葉を中核にトチ、クリ、ハンノキ、そしてウルシなど紅色、朱紅色も加わり、
錦繍(きんしゅう)に染まった、と常連の方から、私は教えられ、
落葉した今のブナの樹々に語りかけるように、その頃の情景に思いを馳せたりした。


この後、『プラザホテル山麓』に帰還した私たち夫婦は、
家内がホテル内のお土産売り場で買い求めてきた数々の中から、
私は地酒を呑みながら、漬物を友として頂いた。

この中のひとつには『いぶりがっこ』もあり、沢庵(たくあん)を燻製にした歯ごたえのある漬物で、
辛口の純米酒にぴったりねぇ、と私は家内に話しかけたりした。

或いは『三撰きのこ』も波長に合う。
椎茸と舞茸、平茸を手づくりの辛子に和え、風味のある辛めのアンサンブルとなった茸である。

そして『青なんばん みそっこ胡瓜』も欠かせない。
青唐辛子に胡瓜で、独有のみそ漬けである。

以上、家内と比較すると味音痴の私でも、朝食のバイキングの時に、瞬時に魅了されて、
こよなく愛した食べ物であり、決して食通ではない。


辛味の苦手な方であれば、『いぶり たけのこ』が最適であり、
孟宗竹の筍(たけのこ)に、比内地鶏スープで味付けして、シコシコと柔らかく、
婦女子でも愛食されると私は思ったりしたのである。

私の幼年期は農家の児として育ち、生家は孟宗竹の竹林があり、
筍(たけのこ)を出荷していた情景も鮮明に残っているし、
そして何かと今でも好きな筍であるので、
少し甘さが残るが、お酒の相方として食べたりした。

このような食べ物を昼食代わりにして、辛口の純米酒の四合瓶を呑み干すと、
少し酔いが廻り、眠くなり、3時過ぎの昼寝となった。

そして目覚めると、夕暮れとなり、ぼんやりと外を眺めると、
わずかに雪が舞い降りていた・・。
『貴方が待ち焦(こ)がれていた雪・・降りましたわょ』
と家内は微笑みながら私に言った。

そして夜を迎えるので、少しは積もりかしら、
明日の朝は15センチぐらいの積雪が望ましいねぇ、と私は家内に話したりしていた。


     最終章  旅の終りは、雪舞い降る中、人気の秘湯「鶴の湯温泉」も入浴

14日の夕暮れから雪舞い降る『プラザホテル山麓』で、私たち夫婦は部屋の窓辺から見惚(みと)れていた・・。

この田沢湖高原の地域は、10月中旬に殆どブナ、トチ、クリ、ハンノキなどの落葉樹が多い中、
黄色に彩(いろど)ったブナ林を中核に錦繍(きんしゅう)時節を迎え、
そして11月中旬の今は、落葉した葉は吹き寄せになったり、数多くの落ち葉が地表を彩ったした晩秋と情景となり、
早くも雪が舞い降りて、冬の訪れとなった・・。

15日の早朝にロビーの片隅で、雪が舞い降り、ときおり止んだりし、周辺も雪化粧の情景となり、
俳句の素養のない私でも思わず、
       みゆき舞ふ 田沢の森 冬の訪れ
と詠んだりした。


この日は宿泊している『プラザホテル山麓』のご厚意で、
人気の秘湯としてた名高い『鶴の湯温泉』に案内して下さり、
私たちのグループは、マイクロバスに乗り込み、ホテル前を10時半に出発した。

まもなく『鶴の湯温泉』の入口の看板を観て、ブナ林の小路を通り過ぎると、
ハンノキの樹木の中となり、6月頃には水芭蕉(ミズバショウ)の群生地帯と教えられ、
こうした情景を思いを馳せたりすると、まもなく『鶴の湯温泉』の幾重かの館が観えた。

テレビの旅番組、テレビのドラマなどで知られている茅葺き屋根の長屋「本陣」前を通り歩くと、
4種類の泉質の異なる源泉があり、白湯、黒湯、中の湯、滝の湯と称された素朴な建物が観えた・・。

私たちのグループで、60代、70代の3名の男性と私は仲良しになった方と、
『黒湯』の建物の入り口の木戸を開けて、入館した。
そして脱衣籠に衣服とバスタオルを置き、『黒湯』に入浴した。

しばらくすると私は、別館にある野趣あふれる乳白色の『混浴露天風呂』が気になり、
『やはり一端衣服を着た後に・・露天風呂に行き・・また脱ぐのも面倒ですねぇ・・』
と隣にいる仲良しの60代の男性に話しかけたりした。

『先ほど、チラッと見かけたのですが・・丸太の歩道をバスタオルを巻いて・・
歩いて行かれた方もいましたよ』
と私の前にいる仲良しの70代の男性が私に教えてくれた。

この後、私は小雪が舞う中、細い丸太の歩道の小路をバスタオルを巻いて、
15メートル先にある『混浴露天風呂』を目指して歩いた・・。
ときおり微風が吹き、足元の細い丸太は滑りそうで、何よりバスタオルが風でたなびいている。

『風吹くのは勘弁してほしい・・オチンチン見えてしまうのは恥ずかしいし・・』
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

前方の3メートル先にいる仲良しの60代の男性は、タオル一枚巻いただけなので、
殆どお尻が見え隠れするので、
『俺よりも・・元気な60代だよねぇ』
と私は心の中で微苦笑したりした。

無事に私は『混浴露天風呂』にたどり着き、脱衣籠にバスタオルを入れた後、
入浴したが、少しぬるめと感じたので、足元から湧き出る箇所に移動をした。
そして私たちの仲良し4人組は、バラバラになり、私は見知らぬ男性と談笑したりした。

小雪が舞い、ときおり微風が吹いているが、
いつの日にかテレビで視(み)た野趣あふれる乳白色の『混浴露天風呂』に念願していた私は、
登山の山頂に登るつめたと同様に、希望が強かった分だけ、このような所なの、
と満足しながらも複雑な思いでもあった。


帰路、私たちのグループは、ホテルに帰還するマイクロバスの車内で、
良かったわ、もう一度来て見たいわ、と歓声をまじえて、お互いに言ったりしていた。

この夜も雪が舞い降り、ときおり止んだりし、周辺も雪積もる情景となり、
最終日の16日の朝は、積雪20センチぐらいの雪の光景となり、
雪は止んでいた。

淡い陽射しの中、私たちのグループはホテルの送迎マイクロバスで、
盛岡駅に向かった。
短かな田沢高原の旅であったが、雪の舞い降るプレゼントも頂き、
それぞれ深い思いを感じたと思われる。

古来より一期一会のたとえに通り、私たち夫婦は仲良しになった方に、
『もう一度・・旅先でお逢いしたいですねぇ』
と多くの方に言葉を重ねて、言ったりした。

余談であるが、今回は宿泊した館内、そして湯処に案内されたりしたので、
写真撮影は禁止が多かったので、写真掲載はできなかった。                   

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《秋の旅路》『みゆき舞ふ 田沢の森 冬の訪れ』~田沢高原滞在記~ 《上》

2014-10-17 09:55:31 | 旅のあれこれ
      序 章  田沢の森は晩秋から冬の訪れとなり

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
ある有力な通販の旅行会社の雑誌に、
秋田県の田沢湖の高原温泉にある観光ホテルに3連泊する団体滞在型のプランが掲載され、
乳頭温泉郷めぐりもあるので、
私たち夫婦は2011年13日より3泊4日で参加することにした。

私の根底のひとつには、今年の3月の初旬に私たち夫婦は5月中旬頃に、
乳頭温泉郷の各地の温泉めぐりと散策を8泊9日間の予定をしていたが、
3月11日の東日本大震災で東北の各地が甚大な被災となり、やむなく中止したので、
敗者復活戦のような変貌したプランとなった。

東京駅の日本橋口に13日の12時10分に集合し、東北新幹線の『ゆまびこ』で、
12時40分発で盛岡駅に到着した後は、
観光ホテルのご厚意で送迎を受けて、
田沢湖の湖畔より北上した山麓に『プラザホテル山麓』に3連泊する滞在した後は、
16日の盛岡駅発11時10分発で帰京する、
ゆったり出発、早めのお帰り、旅程である。


この田沢湖の湖畔より北上した宿泊の『プラザホテル山麓』の周囲は、
ブナ林を中心とした森の黄色を中核に紅色、朱紅色に染まる錦繍(きんしゅう)は、
今年は10月中旬で迎え、私たちグループが今回訪れたこの時期は、錦繍の時節は終わりを告げて、
落葉樹は冬木立の少し前の状況となり、大枝、小枝も茶褐色に変貌したたわわな葉の情景となり、
地表には落ち葉となり、吹き寄せのようになっていた。

そして到着した翌日の14日は朝の6時は7度、昼下がりは12度、夜の6時は6度、
この地域としては、晩秋の快晴の日中となった。

この後、夕暮れから急激に寒さを増して、雪が舞い降りてきた・・。
そして昨日の15日は、雪が降ったり止んだりし、周辺も雪化粧の情景となり、
俳句の素養のない私でも思わず、
       みゆき舞ふ 田沢の森 冬の訪れ
と詠んだりした。

そして雪の舞い降る中、私たちのグループは、歓声を上げたりしながら、
乳頭温泉郷を訪れ、恵まれた情景のひとときを享受した。


     第一章 初めての乳頭温泉郷は・・。

私たち夫婦が参加した田沢湖の湖畔より北上した山麓にある『プラザホテル山麓』に3連泊し、
滞在する日中の合間に乳頭温泉郷めぐりもあり、
この団体滞在のツアーには、
《 ~人気の秘湯「鶴の湯温泉」も入浴~
 硫黄香る田沢湖高原と
 秘湯「乳頭温泉郷めぐり」4日間 》
と明示されていた。

私は乳頭温泉郷は未知の世界であり、田沢湖から国道341号を北上した先の玉川温泉には、
20数年前に立ち寄り、入浴した体験があったが、
いつの日にか乳頭温泉郷には、と念願していた。

旅立つ前、乳頭温泉郷のひとつ「鶴の湯温泉」の中で、
乳白色の野趣あふれる混浴露天風呂が14日の月曜日は清掃日と知り、
今回の団体滞在のツアーでは、無念ながら機会をなくした、と落胆していた。

私は『プラザホテル山麓』のご厚意で、マイクロバスで乳頭温泉郷めぐりは、
15日の火曜日にして欲しい、と私のいつものような明るい笑顔で懇願してみるのも、
ひとつの方策かしら、と秘かに思い、家内に話したら、
たとえ貴方のお調子者のお願いであっても駄目でしょう、
と家内に笑われてしまったのである。


しかし世の中は、しばし秘かな願いは叶うことがあり、
私たちグループが『プラザホテル山麓』に到着した13日の日曜日の午後5時半過ぎに、
それぞれ一枚の案内書が渡されたのである。

《 14日の月曜日
     乳頭温泉郷『孫六温泉と休暇村乳頭温泉』 ご案内

     当ホテル・出発9時45分 ~ 孫六温泉10時・着 ~ 入浴(滞在時間60分) ~
     孫六温泉11時・発  ~ 休暇村乳頭温泉11時5分・着 ~ 入浴と昼食(滞在時間約100分) ~
     休暇村・出発12時40分 ~当館・着12時55分 》

     
《 15日の火曜日
     乳頭温泉郷『鶴の湯温泉』 ご案内

     当ホテル・出発10時30分 ~ 鶴の湯温泉10時45分・着 ~ 入浴(滞在時間60分) ~
     鶴の湯温泉11時45分・発  ~ 当館・着12時 》

このように明記された案内書であった。

そして、昼食は各自ご自由に、お腹とお財布をご配慮されて、
お好きなほどに、たくさんお召し上がり下さって、
地元も貢献して下さりますに、と私は解釈したりした。


この後、私たち夫婦は指定された部屋に向いながら、
『XXちゃんさぁ・・二日間も案内して下さるなんて・・予想もしていなかったょ・・
格安の旅費なのに・・申し訳ないよねぇ・・
何よりも「鶴の湯温泉」の野趣あふれる露天風呂が入れるので良かったよねぇ・・』
と私は家内に話しかけながら、高揚していた。

この夜、寝付く前に、旅立つ前に自宅でネット調べた『乳頭温泉郷』の情景を思い浮かべたりした・・。
そして缶ビールを呑みながら、果たして初めて訪れる乳頭温泉郷の各地の温泉は・・、
と思い馳せたりしていた。


      第二章 乳頭温泉郷の『孫六温泉』

私たち夫婦が参加した今回の団体滞在のツアーは、
私たちを含めて60代、70代の夫婦が8組、女性の70代のグループの3名、男性独りの60代の2名、
女性独りの60代は1名のメンバーであり、
集合した東京駅では、私は微苦笑したりした。

やはり日曜日の13日から平日の16日まで、田沢湖の高原温泉にある観光ホテルに3連泊し、
乳頭温泉郷めぐりも出来る温泉三昧の旅は、第一線を退かれて、日常生活を過ごされている人たち、
と私も定年退職後は年金生活し、早や8年生を迎えている身なので、
予想通りのメンバーと感じたのである。

到着した翌朝、予定通り宿泊している『プラザホテル山麓』のご厚意で、
マイクロバスで乳頭温泉郷のひとつ『孫六温泉』そして『休暇村乳頭温泉』めぐりに、
朝の9時45分に乗車した。


私は前夜に遅ればせながら、乳頭温泉郷は『休暇村乳頭温泉』を中核に、
『休暇村乳頭温泉』この周辺にそれぞれ独特な個性を持つ温泉宿の『鶴の湯温泉』、『妙乃湯』、『大釜温泉』、
『蟹場温泉』、『孫六温泉 』、『黒湯温泉』が広大なブナ林に点在していることを学んだりしていたが、
ブナ、トチ、クリ、ハンノキなどの落葉樹の中、スギの樹が観られる遥かに広い地域にあると車窓から知った。

まもなく『鶴の湯温泉』の入口を道路の左辺に見たりし、やがて『孫六温泉 』の看板が見えて、
小道を少し入った後、駐車場で私たちグループは下車した。

そしてホテルの方に案内されながら、
私は入浴に必要なタオル、バスタオルを入れたビニール袋を右手に提げて、
私たちのグループは歩き出した。

森の小路を下るような道で、晩秋の柔らかな陽射しを受けながら、
ブナ、トチ、クリ、ハンノキなどの落葉樹のたわわな落ち葉を踏みしめて歩いた。

しかし『孫六温泉 』の建物は観えず、急な坂道を下ったりし、
ご高齢の方たちは大丈夫かしら、と私たち夫婦は言葉を交わしたりしていた。
やがて谷底にあるような『孫六温泉 』のそれぞれの建物が観えてきた・・。

私は混浴の内湯のひとつに入り、同行の男性の60代、70代の4名の方たちと入浴していたが、
女性の4名が入浴してきたので、
やむなく私たち5名は、近くの露天風呂に移動した。

私は程ほどの熱さあれば、温泉の泉質、効能は問わず、
何よりも周辺の情景を優先しなから、解放感を享受するタイプであり、
その上に今回同行した方たちと懇親も兼ねて、談笑を重ねたりした。

そして落葉した幾重かの山脈(やまなみ)に晩秋が過ぎてゆく情景を観たりし、
入浴後は素朴な幾つかの建物に、山里を感じながら心を寄せたりした。


その後、ゆっくり10分ぐらいの坂道を登りながら、駐車場に戻った後は、
私たちのグループはお互いに親近感を増して、
マイクロバスの車内は笑い声をまじえながら言葉を交わしたりした。

尚、余談であるが、今回は宿泊した館内、そして湯処に案内されたりしたので、
写真撮影は禁止が多かったので、写真掲載はできなかった。 
                              《つづく》

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《秋の旅路》北海道の洞爺湖に滞在旅行した私、心に残る深い思いは・・。

2014-10-16 09:41:49 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ときおり家内との共通趣味のひとつである国内旅行に行ったりしている。

過ぎし2012(平成24年)10月22日より、たまたま北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日で滞在した。
この旅路は、ある旅行会社が指定した航空便で往復して、新千歳空港から往復の送迎バスで宿泊滞在している間で、
周辺の観光地を自在に観て下さい、というフリープランのひとつであった。

私たちは夫婦は北海道の旅路は、何かと心身波長に合い、春、夏、秋そして冬に各地を幾たびか訪れてきたが、
たまたま道内の洞爺湖は、通過点のように通り過ぎりばかりであったので、
洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに滞在して、未知の洞爺湖はもとより周辺の観光地を訪れよう、
と私は家内を誘ったりした。

そして10月下旬に道内のこの地域を訪れる場合は、平年ならば晩秋の時節と思い、
落葉樹のたわわな葉が朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍は終わりを告げて、
葉が舞い散り、落ち葉を踏みしめて、この地の観光地を歩くことになるだろう、と私は思いを馳せたりした。

しかしながら、初めて洞爺湖の地を訪れると、平年より数週間遅い秋たけなわの情景であった。
そして私たち夫婦は、あまたの落葉樹の葉が朱紅、紅色、淡い黄色、黄色に染められてゆく錦繍の情景の中で、
私たちは幾たびか散策をしながら、心奥深く情感を重ねた。

誰しも旅行を終えて帰宅後、何かと旅先の思いを話し合ったりされると思われるが、
私たち夫婦も旅を終えた後に、あの時は・・と談笑しているのが昨今でもある。


宿泊した観光ホテルは洞爺湖の湖畔に建つ『湖畔亭』であり、
私たち夫婦は5階のある指定された和室は10畳であり、その前に3畳ばかり広さで椅子とテーブルが置かれ、
そして湖面に面したベランダの3畳ぐらいであった。

そして私たちは椅子に座ったりして、ベランダ越しに、
円形のような洞爺湖の中核には、中島と総称されている大島、観音島、弁天島、饅頭島の4つの島が浮かび、
左方の遠景にときおり蝦夷富士と称されている羊蹄山(ようていざん)が雄大に聳え立ち、
左岸、右岸にも湖岸から山里の情景が観え
洞爺湖の湖水の色合いは早朝、午前のひととき、昼下り、そして夕暮れは、
陽射し、雲の流れと共に蒼色、青色、淡き青色に変貌し、幾たびか私は長らく眺めも見飽(みあき)ることのない美景であった・・。
     
     《画面をクリックしますと、拡大されます》

こうした滞在をしている中で27日には、快晴の中、『西山火口散策路』を訪れた。
前方の彼方に火山ヘの路が視え、その後はゆるやかな石段を登ると、
隆起したアファルト道路が隆起し、廃道となった道を見ながら、私たちは歩いた。

この道も2000年3月に噴火した際、地殻変動により盛り上がった地面であり、
まもなく展望台の第一、第二からは、火口を間近でみられ、
地熱、噴煙など、噴火の甚大さを感じることができる所であり、
第二展望台から下山のように長く整備された散策路も歩いたりした。

そして2000年3月に噴火した時、1977年の噴火時、昭和新山の噴火時、そして明治期の噴火の跡も
学んだりした、2時間ぐらい歩き廻ったりした。
この後、下山した散策路の途中、群生した薄(ススキ)は白い穂をなやびかせ、
落葉樹は黄色、朱紅色に染めらる中、赤トンボが悠然と飛び回っていた。

前方には洞爺湖の左岸の山里、遥か彼方の遠方には蝦夷富士と称されている羊蹄山が雄大に聳え立ち、
圧倒的な展望に私は絶賛したりした。
     

散策路を歩いているのは家内であり、平素は私が2メートルぐらい後方でいて、
ボディガート兼お供で買物などに行ったりしているが、風景写真を撮りたくて、このような情景となった。

29日は晴れ渡った朝を迎え、私たちは湖畔の左岸の幾つかの公園を歩くことにした・・。
噴火記念公園を始め、幾つかの公園を歩くと、
シラカンバ、ミズナラ、カツラ、ナナカマド、モミジなどが色合いを染め、
私たちは錦繍の世界を享受した。
その後、公園は途切れたので、やむなく道の歩道を歩いている一葉を情景である。
     

このような情景写真を三葉を掲載したが、もとより旅先の魅力のひとつは未知の人との出会いである。
今回のフリープラン滞在旅行で、たまたま私たちと同行となったのは、11名であった。

私たち夫婦を含めて男性が5名で、女性6名で、60、70歳代の方ばかりの上、
何よりも私たちだけが夫婦で、いずれも《おひとりさま》であり、
私たち夫婦はグループ参加の旅としては初めてであった。

この同行した方たちと、滞在している観光ホテルのロービー、食事処、
帰路の送迎車の車内などで幾たびか談笑したりした。

そして私は観光ホテルのロービー、喫煙室などで、見知らぬ札幌の35歳前後のご夫婦と15分ばかり、
別の日にもやはり20分ばかり60歳ぐらいの小樽市にお住いのご婦人と談笑したりした。

或いは26日に『登別 洞爺 楽しみ探検号』と特別企画のバス観光地周遊コースに於いて、
洞爺湖温泉ターミナル ~ 昭和新山 ~ オロフレ峠 ~ 登別ターミナル ~ 白老ポロトコタン、
このようなコースを運行する経路で、
30人乗りぐらいの中型バスであったが、乗客は私たち夫婦と25歳前後の青年だけあった。

そして温和な60代のドライバーさんの解説を聞いたりし、
やがて登別ターミナルで青年は下車すると、
私たち夫婦は貸切専用バスとなり、ドライバーさんとお互いに談笑を重ね、
互いに日常の生活状況まで語り合ったりした。

そして鮮烈なのは、『西山火口散策路』の入口に近い処で、
廃材を活用した小屋風の前で、卵、皮ごとに焼いたトウモロコシ、そしてジャガイモなどを
石焼きをしている賄(まかない)して下さる中年のご婦人と、
そして経営者の70代の男性と私たち夫婦は、二度ばかり訪れて談笑したりした。

私たち夫婦は、四季折々の情景に魅せられて旅を重ねてきたが、
見知らぬ人と偶然に語り合うことも、旅の思いが深まるのである。

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《秋の旅路》過ぎ去りし年、秋山郷に往還した時の錦繍の情景を思い馳せれば・・。

2014-10-15 09:21:23 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
一昨日、本棚をぼんやりと見ていて一冊を取りだした・・。
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)の単行本であるが、再読してしまった。

そして深夜、私は2008年(平成20年)10月下旬に『秋山郷』を往還した旅路を思い馳せたりした・・。


私が秋山郷の名を知ったのは、遅ればせながら30年前の頃であるが、
新潟県の大河の信濃川に注(そそ)ぐ中津川の奥まった処であり、
新潟県と長野県にまたがった渓谷沿いにあるので、
自動車を所有しない我が家は、はなはだ遠方すぎ、未知の地となっていた。

たまたま2008年の10月下旬に志賀高原の発哺温泉滞在に2泊3日の団体観光バスツアーの旅で、
秋山郷を周遊するコースがあったので、
私たち達夫婦は魅了させられて、ツアーに参加の理由のひとつとなった。

そして私は、江戸後期の商人、随筆家として、『北越雪譜』などを遺(のこ)された鈴木牧之に関しては、
若き日の二十歳過ぎに読んだりしていたので興味を増し、
この時の旅の前には磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を初めて読んだりし、『秋山紀行』も学び、
そしてネットで秋山郷に関してそれなりに調べたりした・・。

このような思いで、私は中型バスに乗車して、宿泊先の発哺温泉から旅立った。

奥志賀高原までの上る道程、そして緩(ゆる)やかな下り道、
いずれも狭くカーブの多い奥志賀林道、そして雑魚川林道から、秋山郷の最上流の切明までは、
1時間半ばかりの車窓からの情景は、まさに錦繍の世界であった。

道路沿いに薄(ススキ)の群生は穂先が白さを増し、
落葉樹の圧倒的に多い黄色に染められた色合いの中、
所々(ところどころ)に散見できる朱色の色模様は、鮮やかな色合いとなっていた。

このような中で、陽射しを受けたり、枝葉の木漏れ陽は地上や周辺をゆらめき、
そして、ときおり微風が吹くと、黄色に染められた葉が空を舞いながら、地上に落下していた。

私は思わず、
『夢のような情景だね・・林道ではなく・・夢街道だね・・』
と隣席の家内に言ったりしていた・・。


私達は、中津川を下るように秋山郷の集落の『切明温泉』、山源木工の付近に
ある『蛇淵の滝』を観たり、
そして『前倉』は渓谷となり、対岸に聳える岩は錦繍に染められ、一幅の絵画となっていた。
この景観を眺めながら、昼食となった。

     
     《画面をクリックしますと、拡大されます》

自由食であったが、地元の食材を加味した食事処で、お握(にぎ)りと茸(きのこ)汁などを
私たちと同行した人が多かった。
呑兵衛の私は、食事処の片隅で地酒のワンカップを見つけて、
そして炉辺で焼かれている岩魚(イワナ)を私たち夫婦はそれぞれ2匹づづ頂き、
私はワンカップの地酒を2本吞みながら、家内は煎茶で岩魚を誉(ほ)めたりした。

その後、秋山郷の入り口に当たる『見玉不動尊』で、
眼病に良いと称せられて折、私は近眼で老眼を感じているので、丁重に参拝した後、
清流があふれるように流れていたので、小岸で記念として私は顔を洗ったりしたのである。

このような戯(たわむ)れも多かったのであるが、
江戸時代の後期に鈴木牧之・著の『秋山紀行』のような過酷な環境と違い、
現在は豊かな田畑や里山の情景となっている。

『結束』集落にある石垣の田圃(たんぼ)は、
津南町観光協会の発刊した『秘境 秋山郷 ~人が抱く本来の故郷~』に寄れば、
《・・
江戸時代、秋山郷では、穀物をはじめ、農作物の収穫が極めて少なく、
天明・天保の飢餓では多くの村が滅びてしまった。

そんな背景の中、明治時代の始め、「石垣田」の開田が始まった。
それまでは粟(あわ)や稗(ひえ)が主食だったが、「米を食べたい」その一心で、
石だらけの急斜面地を村人たちは競うように開拓したようだ。

重機などない時代、作業は難航した。
中には、5人がかりで3日間もかけて動かした巨石もあると言われている。
その石垣は積み方も工夫が施され、現在でも殆ど当時のまま残されている。
・・》

そして、樹木はブナ、トチノキ、白樺(シラカバ)、片栗粉の原料となる片栗(カタクリ)の花は大切にされている、
と記載されたりしている。

最近の民宿に於いては、
白米のご飯、黍(きび)ご飯、鹿(シカ)肉、岩魚(イワナ)があり、
山菜としては、行者大蒜(ギョウジャ・ニンニク)、ゼンマイ、蕨(ワラビ)、コゴミ、ウド、ミョウガ、
茸(きのこ)としては、舞茸(マイタケ)、ナメコ、椎茸(シイタケ)
そして、里芋(サトイモ)、山芋(ヤマイモ)、筍(タケノコ)、豆腐(トウフ)などが、
食膳として頂けると聞いたりした。

このような山里の食材であったならば、都心の高級食事処より、
遙かに健全で確かな美味に頂ける、と私は確信を深めた。


宿泊地への帰路、ふたたび雑魚川林道を通った時、
バスのドライバーさんのご好意で、臨時停車となり、錦繍の美麗な情景を私達は鑑賞できたのである。
数多くの人も私もカメラで写し撮ったが、
その人なりの心に残る思いに、勝(まさ)るものはない、と私は実感したりした。

     
     《画面をクリックしますと、拡大されます》

     

     

     

秋晴れの中、日中の大半に於いて、錦繍の世界に心酔した私は、
私たちと同行した多くの方は、日頃の行いの良い人ばかり、
或いは強運の人ばかり、と私は微笑んだりし、帰館した。

このような『秋山郷』を往還した旅路を深夜のひととき思い馳せたりしたのである。

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まもなく訪問者数(IP)は100万を迎え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝を重ねて・・。

2014-10-13 10:58:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であり、
午前のひとときパソコンを開き、やがて私の【gooブログ】のサイト『夢愛人かりそめ草紙』を見ると、
『ブログの開設から3,554日』と明示され、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は4、812、217』、
『訪問者数(IP)は999,390』と表示されて、まもなく100万を迎えることができ、
何かとノロマで亀(かめ)のような歩みの私でも、堅実に継続すれば、と微笑んだりした・・。

私は閲覧数(PV)に関しては、数多くの方が周知の通り、
ここ7年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索が、
懸命に数多いブログ投稿文を追跡するように活動しているので、
大幅に加算されている実態であり、無念ながら実質数は不明であり、参考する程度である。

しかしながら『訪問者数(IP)』は、つたない私の投稿文を読んで下さったお方か、
或いは開いて下さったお方か不明あるが、私は大切な指針としているひとりである。
                                                  
私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

そして2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
                                       
                   
私はブログを投稿する際、筆力が乏しいながら
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
まるで海岸の広い砂浜にある一粒の砂粒のような存在であった。

         
このように私は、やがて埋もれてしまうか、海に押し流されて消えてしまうか、
誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
                    

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                   
そしてブログ・ランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログ・ランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安できるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行し、
昨今は私は古希と称される70歳となり、迷いながら『シニア』としている。
                                              
こうした中で、『にほんブログ村』に加入している50代から70代の多いシニア層のお方を中核に、
多くのお方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

こうした中で日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
このようなお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
          

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら、年金生活を10年を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

                                           

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも2年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの2年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                                      
         
こうした理由の一つとして、私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

こうした事情により時間が要するので、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響し、
原則としてコメントの交信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ3年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして諸兄諸姉のサイトを明記した以外にも、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも20名のお方もいる。

          
               
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。

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★台風が本日の深夜に襲来が予測される上、私たち夫婦の記念旅行の準備に伴い、
異例であるがコメント欄を閉鎖させて頂きます。


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台風、日本列島縦断が予測される中、私たち夫婦の記念旅行は果たして、と困惑し・・。

2014-10-12 11:46:56 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は過ぎし9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、
家内は12月下旬に高齢者入門の65歳となり、
お互いに介護保険を有する夫婦となる。

そして何かしら記念品をお互いに思案したりしたが、
結果的には私たち夫婦の共通趣味の国内旅行をしょうと、7月下旬に決意した。
           

やがて多々旅行プランを思案したりしたが、
やはり源泉かけ流しの温泉宿に宿泊するのが、私たちの身も心もやすらぐことができると、
いつの日にか訪れ、宿泊したい地域を選定した。

岩手県と秋田県の県境にある八幡平の周辺には、
藤七(とうしち)温泉、後生掛(ごしょがけ)温泉、ふけの湯温泉、玉川温泉など多彩にある。

これまでの私たち夫婦は観光バスで通り過ぎてしまった処が多かったが、
こうした地域の幾つかの温泉宿に宿泊して、
落葉樹が朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景を見ながら、
周辺の遊歩道、自然研究路などを散策しょう、と7泊8日で立案した。

そして8月初旬に、幾たびか利用している最寄駅の近くにある旅行代理店に旅程を提示して、
宿泊所、新幹線、路線バスの手配を依頼したが、
この地域は錦繍の時節は更に最盛期となるので、希望したある宿は3連泊を希望したが、
満室で結果的には一日削り、旅程は決定した。

やがて一週間前に、新幹線の座席指定も確定して、
私は旅行代理店に旅費の残金を支払ったりしてきた。
          

私たちのこうした記念旅行は、14日から6泊7日であるが、
何かしら数日前から日本列島の最南端に大型で強い台風19号が猛威となり、
今朝の12日午前5時現在、沖縄本島地方を通過し、
東シナ海を北北西に進んでいる、とテレビのニュースで報じられていた。

そして沖縄地方と奄美地方では猛烈な風が吹き、海上では猛烈なしけとなっている。
台風は強い勢力を維持したまま次第に進路を東寄りに変え、
13日は九州南部に接近し、14日にかけて速度を上げ、
西日本と東日本、東北地方に接近し、上陸する恐れがある、と報じられていた。

こうしたニュースを私たち夫婦は視聴して、14日の旅行出発日は家を出る時、
東京駅からの北上する東北新幹線の状況は・・運休になったら、
やむなく記念旅行は中止だよなぁ、とお互いに思いめぐらしたりした。

こうした身勝手な思いで、日本列島縦断が予測される台風19号の進路を、
ハラハラドキドキしながら注視したりしている。

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平成26年の今、平成の時代に私がささやかに思い馳せることは・・。

2014-10-11 14:21:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
1944年〈昭和19年)初秋に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育った。

そして昭和天皇に関しては、私の40代かばまで『昭和』の時代で過ごしたので、
何かと自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。

1988年(昭和63年)晩秋、私はこの頃、音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
こうした中で、昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

こうした中で、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名なロックバンドの『ボン・ジョヴィ』が、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。

そして1989年(昭和64年)1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。
          

この後の私はいつものように出社し、社内の恒例の朝礼の時、
専務取締役の指示で、フロアーを共にした各部署の一同は、
皇居の方面に向かい、黙祷をささげた。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989年(昭和64年)1月7日により、
平成元年は1月8日から初まり、早くも本年は平成26年となっている。
          

私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年(平成元年)11月9日から東ドイツが
市民に寄る『ベルリンの壁』を実質的に撤去の出来事と重ねてしまう事が多い。

この後、米ソの冷戦構造が終結され、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、
やがて社会が一変したからである。

世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。

こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

そして民間会社の多くは、社員に家族を養う分の給与を支払う余裕もなりなり、
やがて『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく20年近い実態となっている・・。
          

このした中で、私たち日本の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと、
そして水をペットボトルなどで購入したことなどを思い馳せたりした・・。

音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってまもなくDVDに変貌し、ここ3年前の頃からはブルー・ディスクも普及している。

そして音楽配信が携帯電話が主流で普及し、昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

こうしたことは国民全体からは、音楽愛好者に限られて実感度は薄いと思われるが、
圧倒的に社会を変貌させたことはパソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。


1995年(平成7年)秋に『ウインドウズ95』が発売され、それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、
大衆化したことである。

そして、これに連動して、インターネットが急激に普及し、今やネット通販の隆盛となっている。
          

もうひとつの変貌は、モバイル情報の発生であり、携帯電話の急激に普及であり、
そして昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は、
1987年(昭和62年)にアメリカで公開された作品であるが、
冷酷で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃は大きめのラジカセのような形の携帯電話であり、破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で1億台突破となり、
殆どの日本人が愛用し、ここ数年は高性能のスマートフォンの急速に普及となっている。

私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットとモバイルの代表の携帯電話とスマートフォン、と断言したくなる。
          

こうした中で、何よりも変貌の実感をさせられたことは、
一部の専門のマスコミ、著名人などから発信できる時代から、
誰でも簡易に発信できる時代となり、こうしたことは文明史上初めてのことである。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
          

もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多い。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。


そして私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
少し前の当時は、喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。

或いは飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)いたり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。

私がギックリ腰が酷く入院生活を28日過ごした1991年(平成3年)の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒したりしていた。
          

私は定年退職した2004年〈平成16年〉後は、
多々の理由で年金生活をしているので社会状況に疎(うと)く、
もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。

こうしたことを思いつくまま馳せたりし、
昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

そして平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた70歳の私は限りなく関心がある・・。

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敗戦後の昭和の時代に、私は何かと愛惜を深めて・・。

2014-10-10 22:12:12 | ささやかな古稀からの思い
私は1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
東京オリンピックが開催されて1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
ある民間会社に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。

職場で共にした多くは、新卒の団塊の世代であり、妹のふたり、そして家内もこの世代の人である。

そして私たちの先輩たちは、1960年(昭和35年)の前後から、日本の高度成長と共に、
猛烈に社内外で奮戦して、一家の収入の責務を負っていた。

そして多くの妻は専業主婦となり、子供の育児などを含めて、家庭内の専守防衛に徹して、
夫の後方支援を果たしてきた。

このような先輩たちを学びながら、私達の世代、そして団塊の世代も邁進した・・。
          


敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、
誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。

私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の主要国の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を
努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、やがて団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
         
その上、経済地域の大都市と地方の格差はあるが、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
          


こうした中で1960年(昭和35年)の頃から、日本の高度成長と共に、
一家の主(あるじ)が懸命に働ければ、年収は確実に上昇し、
専守防衛の専業主婦に収入を渡すことができ、そして共に喜びが共有てきた時代であった。

何よりも明日に希望を託すことの出来た時代であった・・。

こうした中で、ささやかながら電話を家に、そして白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機など、
その後は自動車、クーラー、カラーテレビなどの耐久商品を少しつづ購入してきた。

そして住宅を一生の高い買物と思いながら、ローン返済に奮闘したり、
子供の教育にも自分たちの夫婦より、少しでも高いレベルと思いながら、捻出して、
家族それぞれが悦びを共に享受できた時代であった。

         
やがて1989年(平成元年)11月初旬に東ドイツが市民に寄る『ベルリンの壁』が崩壊した後、
やがて米ソの冷戦構造が終結され、
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済そして社会が一変した・・。

世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。

こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

そして民間会社の多くは、社員に家族を養う分の給与を支払う余裕もなりなり、
やがて『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく20年近い実態となっている・・。
         

私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは困苦の時期を過ごした体験もある。

この間、数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困惑した時期を送られた、
と私は確信を深めたりした。

          
そして周知の通り、失われた20年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、安住できない時代となってきた・・。

こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。

このように無力な年金生活の私は、時代に翻弄され、明日に希望を託せない閉塞の現世に、
ときおり思い馳せたりすると、涙を浮かべたりする時もある。

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東京オリンピックが開催された前後、私の拙(つたな)い青年期の彷徨を思い馳せて・・。、

2014-10-10 14:00:21 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳を迎える身であるが、
今朝、いつものように居間で家内と共に朝食を頂いている時、
NHK総合テレビのニュースから、
《本日は昭和39年のこの日に、アジアで初めての東京オリンピックが開催された日で、
早や50年を迎えて・・》
このようなことが若き女性のキャスターから聞こえたりした。

私は家内に、『大学2年の時、中退を決意した頃だったょ・・』
と私は苦笑しながら言ったりした。

『あたしは中学3年生だったわょ』
と家内は応(こた)えたりした。

『5つ違いは、若い時は大きく違うよねぇ・・』
と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。


やがて私はいつものように平素の買物専任者に伴い、家内から依頼された品を求めて、
独りで最寄りのスーパーに行き、帰宅後に独りで自宅周辺を散策したりした。

そして木のベンチに腰掛けて休息している時、
脳裏から東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
この前後の私の拙(つたな)い青年期の時代の彷徨したことが浮かび、独り苦笑したりした。

          

私が住んでいる所は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域で、
生家に近くにあり、この地域には早や65年が過ぎている。

私は1944年(昭和19年)9月に農家の三男坊として生を受けて、
やがて地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960年(昭和35年)4月だった。

私の小・中学校時代は長兄、次兄は学業の成績が良く、
私は何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、劣等生のグループに属していた。

そして兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で、交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
クラブとしては写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、生まれて初めて本気で勉強に励んだりすると、
高校2年生まで優等生のグールプのひとりとなったりした。

しかしながら安堵したせいか、小学高学年から幾たびか独りで通った映画館に寄ったり、
女子部のひとり生徒に魅了されて、新宿御苑などの木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下してしまった。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
この当時にこの分野で名高い日大の芸術学部には、
ストレートで入学できる自信がなかったのは本音であった。

担任の先生に、進学の相談事を話した時、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけどねぇ、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は言われたりした。
          

結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963年(昭和38年)4月であった。

そして次兄は高校時代は山岳部、大学時代はワンター・フォーゲル部に所属し、
何かと山の魅力を私は聞いたりした影響もあり、
私は余り考えずに漠然とワンダー・フォーゲル部に入部し、山歩きをしたりしたが、
やはり映画館には相変わらず通っていた・・。

そして秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

翌年になると、都心は東京オリンピックの開催される年で、
都心はもとより、周辺の街並みの情景も日増しに大きく景観が変貌していた・・。

そして私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したりした。

東京オリンピックの開催中、何かと単細胞の私は映画に熱中して、
殆どオリンピック競技のテレビ中継を観ることなく、
京橋の近代美術館に於いて、昭和の初期から戦前までの邦画の名作が連日上映されていたので、
通い続けて観たしていた。

こうした日のある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
《・・日本女子のバレーボール、金メダル・・》と聴こえてきた。
          

東京オリンピックが終り、翌年の1965年(昭和40年)1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉学院長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私はシナリオの含む演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
アメリカの白人の美麗な30歳前後の女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、
著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりした。

しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事は、テスト試験も失敗し、
当然ながら採用もされなかった。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
今から思い馳せれば、夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅き交流をしたりしていた。

こうしたアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、監督、そして撮影、照明などのスタッフの方たちはもとより、
ましてシナリオ・ライターの世界も先々食べて行くのは大変であると、改めて教示させられた。

そして同じ創作するならば、小説を書きなさい、と新劇の長老のひとりが薦(すす)めて下さった。
         

私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、
視(み)まわり時間以外は、警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムであった。

もとより私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめた。

こうした生活を過ごしながら、
私は純文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりした。
そして 私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりした。

学生時代の友人達は、この間に社会の第一線で出て、私としては社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。

そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになったりしていた。
          

このような時、親戚の叔父さんから、
『今はよいとしても・・30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたりした。

私は30代の時、妻子を養い家庭生活を想像した時、
ため息を重ねながら、いずれ小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。

その直後、やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。

そして家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。
          

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家の長兄宅に幾たびか来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は、理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業はコンピューター活用が伸長する、
と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。

そしてソフトコースを同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
私は遅れた24歳の青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
この当時のコンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。
          

この秘かな根底には、作家・丸山健二さんが、デビュー前に商事会社に勤められて、
テレックスの業務の合間に、創作をされていた、
と雑誌のインタビュー記事で読んだりしていたので、
こうした思いにならって、勝手に思い込んでいた。

やがて近所の家電販売店の店主より、
近くにこの当時としてある大手の音響・映像メーカーの会社の首脳陣のお方がいると知り、
たまたま私の祖父方の親戚から、宅地を購入されたお方で、
私は祖父方の親戚の紹介の上、この会社の首脳陣のお方にめぐり逢えた。

その後、このお方のご尽力もあり、
この会社に1970年(昭和45年)4月、私は何とか中途入社が出来たのは25歳の時であった。

この間、入社試験、やがて幾たびか面接する中で、テレビ・ステレオ・ラジオ関係の事業本部より、
音楽事業本部に配属して頂きたい、と懇願するように私は言ったりした。

そして念願叶(かな)って音楽事業本部で、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。
          

この頃は、休日になると他社のCBSソニー(現・ソニー・ミュージック)から
サイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。
♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine
☆【サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』 作詞、作曲・ポール・サイモン 】☆

私はガーファンクルの声で、この部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむこともあった・・。

こうした私の心の奥底には、映画の脚本、小説の創作にも、あえなく敗れ、私の彷徨した時代に終わり、
遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。
          

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこの新設された外資のレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫さんが自裁され、私の青年期の終わりを実感させられた・・。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、
甘くないと悟ったりした。
もとより一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなった・・。

そして、私は遅れた社会人なので、業務の熟練と年収に、
早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたりした・・。
          

このように拙(つたな)い青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない身も心も黄金時代だった、と深く感じたりする時もある。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは誰しも叶(かな)わぬ夢であるので、
私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。

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ときには昼前より、私は布団にもぐり込んでしまい、やがて・・。

2014-10-09 16:18:25 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
午前のひととき、いつものように平素の買物専任者の責務を果たした後、
居間のソファーに座り、疲れが残っているのか、風邪気味なのか、解からないが、
何んとなくは覇気がなく、ダルいのである。

やむえなく異例であるが、午前11時過ぎに何よりの年金生活の特典を活用して、、
『布団の中で寝てくるょ・・』
と私は家内に言ったりした。

そして2階の寝室に行き、淡き陽射しが障子越しに射す中、
家内が敷いてくれた布団に私はもぐり込んで、横たわりながら文庫本を読んだりした・・。

やがて寝付いてしまい、目覚めたのは午後2時過ぎであった。

まどろみながら、そしてぼんやりと疲れていた上、寝不足だったのかしら、と微苦笑したりした。
          

昨日、朝の8時過ぎから庭の手入れをして、何かと単細胞の私は昼食抜きで、
午後3時まで奮闘した。

そして夜の9時過ぎに寝室に行き、文庫本を開いてまもなく寝てしまい、
目覚めたのは早朝の午前3時半過ぎであった。

やがて洗面して着替えた後、居間で昨日の夕刊を読んだりした後、
パソコンを立ち上げて、ネットのニュースを見たりし、
その後は私が愛読しいる数多くの方のブログを読ませて頂いたりした。

やがて朝刊が配達されて、いつものような平坦の時を過ごしたりした・・。
          

こうして綴っている今、何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
年金生活の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。

そしてこれまで歩んできた人生の中で、ときには熱病のように無我夢中となったりする時があった。
            
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったよねぇ、と微苦笑したりしてきた。
          

    
      
私は若き20代、30代の時は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら齢を重ねた年金生活の中でも、ときたま無我夢中となり、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることもある。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの、と思ったりすることがある。

このようなことをぼんやりと思い浮かべたりして、独り微苦笑したりしている。


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ときには私たち夫婦は、おとぎ話の桃太郎のように過ごして・・。

2014-10-08 17:54:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると『寒露(かんろ)』、と明記されて、
私は微笑んだりした。

もとより古来より、草花に冷たい露が宿ると伝えられているが、旧暦時代の名残りであり、
現世の新暦に於いては、秋の長雨をまじえながら台風が過ぎ去り、
朝夕は肌寒くなるが、日中は秋晴れ、そして秋日和に恵まれ、さわやかな日が多くなる。

そして山里から里、やがて街へと落葉樹の色合いが朱色、黄色に染められる錦繍(きんしゅう)の季節となり、
この間、農作物の収穫も終えて、果実も実り、
こうした情景をテレビで視聴したり、スーパーの店内で見かけたりすると、
齢ばかり重ねた私でも、何よりの心の励みとなり、私は毎年みつめて微笑む時節であった。

そして私の住む地域は、朝夕は17度前後、昼下がりは23度前後の秋日和の日々が多く、
暖冷房のエアコン、ガスファンヒーターのお世話になることもなく、
移ろう秋の情景に心を寄せながら、散策、ウォーキングもでき、
もとより読書も良し、夜のひとときには月を愛(め)でることもできるので、
私にとっては快適な日々を毎年過ごしてきた。
          

家内と共に朝食を頂いている時、
『今日、簾(すだれ)を下ろしますから・・』
と家内は私に言った。

我が家は、6月の梅雨入りの前の頃から秋のお彼岸の頃まで、
簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
そして夏になると朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾(すだれ)にして、庭越しの風を通し、その後は居間のエアコンを稼働させてきた。


この後、私は庭の手入れをする為に、8時過ぎに庭に下り立った。
過ぎし日の4日に手入れをしたが、大半は終わっていたが残りの部分が私は気になっていたので、
昨夜、私は独りでするから、と私は家内に伝えていた。

そしていつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をした上て、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしたりした。

そして私は剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、樹木の枝葉を切り落としはじめた。

青空の中で雲がぽっかりと浮かび、20度前後の中で、私は専念した。
やがて切り落とした枝葉を散乱しているので、
市の指定された45リットル入りの『燃えるゴミ袋』(有料)の大きな袋に破れないように入れる為、
枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりした。

この間、疲れを感じたらテラスに置いている簡易椅子に座り、休息としたりした。

家内は簾〈すだれ〉を各部屋から取り外したり、やがてエアコンを清めたり、
ガスファンヒーターを書庫から居間に運び入れたり、
やがて押入れにある衣料ケースを整理して、私の長袖の肌着などを入れ替えしたりしていた。

この後、私は草むしりに専念している時、おとぎ話にある桃太郎の一部を思い出してしまった・・。
          

《・・山里にお爺さんとお婆さんが仲よく住んでおりました。
まことに情ぶかい正直ものでありましたから村人からも慕われておりましたが
淋しい事に子供がありませんので、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って一生懸命働きながら・・》

たまたま私は庭の手入れ、家内は秋から晩秋に向けて準備していたので、
何かと単細胞の私は《・・お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って・・》を想い重ねで、
草むしりをしながら、独り微苦笑したりした。

やがて私は庭の手入れを終えた後、お風呂で身を清め、身体を温めた後、
居間に行き、『疲れ切ったょ・・』と私は家内に言ったりは3時半過ぎであった。

家内も午前4時過ぎから洗濯をしたりしていたので、疲れた表情で、
『あたしも・・』と家内は私に言ったりして、お互いに微苦笑したりした。

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この世で無知なほど怖いものは無し、と我ながら反省して・・。

2014-10-07 22:57:11 | ささやかな古稀からの思い
私は本日の7日の午後2時少し前に、
『御嶽山の大惨事の教訓、火山噴火予知の専門センターの創設が肝要、と思いを深めて』
と題して投稿したが、
先ほどネットで偶然にある週刊誌の記事を読んでいたら、
私が提案した『火山噴火予知の専門センター』に近い組織は、すでにあると知り、
この世で無知なほど怖いものは無し、と我ながら反省している次第である。
          

偶然に私が読んだのは、『週刊ポスト』の2014年10月17日号の記事のひとつに、
『噴火予知連会長「予知のレベルそんなもの」発言に税金返せの声』
と題された記事が、ネットで10月6日に公開配信されていた。

無断ながら転載させて頂く。
《・・9月27日、長野・岐阜県境の御嶽山(おんたけさん)が噴火し、
登山客ら51人が死亡した(10月5日現在)。

噴火の約2週間前となる9月10日昼頃から火山性地震が増加し、同11日には85回発生していた。
1日の発生回数が80回を超えるのは2007年に小規模な噴火が起きた時以来だった。
気象庁はこうした情報をリアルタイムで地方自治体に伝えているが、
自治体任せで登山者のほとんどが知らなかった。

ここではっきりさせておくべきなのは、いくら「お上」を頼りにしてみたところで、
「予知」などほとんど不可能ということだ。

今回の噴火に際して、国民をあ然とさせたのは
気象庁の諮問機関である火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣・会長(東京大学名誉教授)の会見だった。

「予知に失敗したというかもしれないが、ある意味では仕方のない状態。
われわれの火山噴火予知に関するレベルというのはまだそんなもの」

世界屈指の火山国である日本では1974年に火山噴火予知連絡会が設置され、
国土地理院に事務局を置く地震予知連絡会(1968年設置)と並んで国策としてカネがつぎ込まれてきた。

火山と地震を合わせた研究関連予算は年間約217億円(2013年度)にのぼり、
とくに東日本大震災が発生した2011年度は約459億円と大盤振る舞いされている。
この20年間の総額は4000億円を超える。

噴火予知連は学識者や関係機関の専門家31人の委員で構成され、
全国の火山活動について総合的に検討を行なうほか、
火山噴火などの異常時には臨時に会議を開いて統一見解「火山の状況に関する解説情報」を発表する役割だ。

会長の藤井氏は東大地震研究所所長や日本火山学会会長を歴任し、
政府の「中央防災会議」「富士山ハザードマップ検討委員会」「三宅島火山活動検討委員会」などの委員を務めて
防災計画の立案に関わってきた。

その火山予知の第一人者であるはずの藤井氏に、
「われわれの予知のレベルはそんなもの」といわれれば、「税金返せ」といいたくもなる。・・》
          

こうした記事を偶然に私は先ほど読み、私が提案した『火山噴火予知の専門センター』に近い組織は、
すでにあると知り、反省している。

しかし英智のある火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣・会長(東京大学名誉教授)が、
こうした会見の発言には、
火山に詳しくない多くの国民は、どうしたらよいの、と無学の私は問いたい。

いずれにしても私の午後2時少し前に、
『御嶽山の大惨事の教訓、火山噴火予知の専門センターの創設が肝要、と思いを深めて』
と題して投稿文は、火山にも無学で無知なことを露呈し、反省している。

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御嶽山の大惨事の教訓、火山噴火予知の専門センターの創設が肝要、と思いを深めて

2014-10-07 13:57:13 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
過ぎし日の9月27日に長野県と岐阜県の県境に聳え立つ御嶽山(3067メートル)が突然に噴火し、
活火山といえ火山学にも無知な私は動顛させられた。

連日に報じられる大惨事を時折、テレビのニュース、特集を視聴したり、新聞の記事など読んで来たりした。
結果的には、戦後最悪の火山災害となり、これまでに51人の死亡が確認され、12人の行方が分からないのが、
現時点となっている。

こうした中で、長野県の対策本部は消防、警察、山岳救助の専門家、自衛隊などの捜査、救助に関し、
それぞれの奮戦の状況をテレビのニュースなどで視聴したりしてきたが、
たとえ職務上の責務といえ、大変ですねぇ、とただ敬服の念さえ感じ深めている。


この間、テレビの特集番組の中で、今回の御嶽山の噴火は予知はできなかったのか、
警報はもっと早く出せなかったのか、そして現在の科学レベルでは完全な予知は困難、
と各専門家、コメンティターの中で論議されたりしてきた。

或いは行政サイドは、ここまでの大被害が出るような土石流や洪水や噴火が起きると思わなかった、
と自己保身のように発言を吐露したりしてきた。

そして具体的な今後の対策は、希望的な観測の意見が多く、
火山学、地震学さえも無知で素人の私は、日本列島に有する火山を具現的に、
国民の共有財産の火山を、国がどのように人と火山が共有してしていけばよいか、
と漠然と思案したりした・・。
          

こうした中で、多彩なメディアの中で私が知る限り、教示させられ、共感して喚起させられたのは、
たまたまネットに寄稿された『Japan In-depth』安倍宏行・編集長の提議であった。

『火山噴火予知は不可能なのか? ~有珠山噴火予知に学ぶ。日本の「減災力」を高めよ~』
と題された寄稿文で、 10月6日に公開配信され、私は精読したひとりである。
無断ながら記事の大半を転載させて頂く。

《・・今回の噴火で、これだけ多くの火山がありながら、
火山の観測を一元的に行う国の専門機関がないことを初めて知った人も多いだろう。
6日付の日本経済新聞は、火山の研究者が40人程度しかいない現実を報じている。

こうした状況下で、御嶽山の噴火は本当に予知できなかったのか。
実際は、噴火の2週間以上前から数10回の火山性地震が地震計により観測されていたという。

しかし、気象庁は噴火警戒レベルを1(平常)のままに据え置き、
レベル2(火口周辺規制)に引き上げず、突発的な噴火活動の予知までには至らなかった、という。

こうした報道に触れ、いくら計測技術が発達しても予知は不可能なのか、と思っていたら、
実際に火山の噴火を予知した科学者がいる、との報道が、遅れてあった。

それが、2000年の北海道・有珠山噴火を予知し、
住民避難につなげて災害を最小限に食い止めた北海道大名誉教授・岡田弘氏(地球科学)である。

岡田氏は、有珠山周辺を20年以上観察して来た実績がある。
徹底的に地域に密着し、現場に足を運んでいれば予知は可能だった、と述べているという。
火山を抱える各地域にある大学や研究機関と行政が連携を取り、
継続的に観察する体制を作る必要性を説いている。

有珠山は2万年前に洞爺湖の脇に出来、20~30年に1度は噴火する火山である。
この有珠山には「洞爺湖有珠山ジオパーク」(壮瞥町・伊達市・洞爺湖町・豊浦町)があるという。
2009年にユネスコが支援する世界ジオパークネットワークに、日本で初めて認定されたものだ。

そのテーマが「変動する大地との共生」。
2012年には遺構となっていた「旧とうやこ幼稚園」を住民たちの手で復旧させ、
現在は、噴石の跡などを目の当たりにできる、生きた学びの場として重要な役割を果たしているという。

地域で防災を行う。予知の精度を上げると共に、住民が行政と一体となり、
災害時どう行動したら被害を最小限に止めることが出来るのか。
「減災教育」がいかに大事かを、私達はまた学んだ。

東日本大震災、広島の土砂災害、そして御嶽山の噴火。
自然災害の猛威に打ち勝つために、日本の「減災力」をさらに高める努力を怠ってはならない。》
          
.
国はもとより国民の命と財産の保全を図る命題があり、台風、地震対策などは防災の確固たる管轄の省があるが、
これと連動させた火山噴火予知の専門センターの創設が必要、と強く念願する。

日本の内閣府のひとつには内閣府特命担当大臣が存在している。
主な任務として防災行政を所管する国務大臣であり
具体的には、災害予防、災害応急対策、災害復旧、災害からの復興などにかかわる政策を所管したり、
或いは大規模災害が発生した場合や、発生の虞がある場合には、その災害への対処する責務を所管している。

こうした横に連動させた『火山噴火予知の専門センター』の創設させることが望ましい。
          

火山に関した英知のある火山学者を長として、各治体の地域にある大学の火山学者と逐次連絡可能として、
各自治体の地域にある大学の火山学者の中で、選定された方がその地域の火山を監視する特別任務・・
こうした組織の中で、内閣府はもとより、都道府県、市町村の自治体が有機的に連動できる形態・・、
何かと無知な私は、このように夢想している。

余談であるが、私は活火山、死火山などの登山は、体力が衰えた今は無理となっているが、
せめて源泉のある温泉地に家内と共に宿泊滞在して、ときおり湯船に入り、身も心もやすらぎ、
そして周辺のある山里、街外れを歩き廻り、遊学したりして、享受してきた身である。

或いは、今後に於いて、富士山の噴火した時は首都圏まで、巨大な大災害となる、
と学んだりしてきた私は、今回の御嶽山の大惨事は、とても他人事と思えず、
遅ればせながら今回の御嶽山の大惨事を教訓として、英知ある火山噴火予知の専門の学者が
集結して頂だきたいの念願したりしている。

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台風が接近に伴い、買物と散策を中止し、読書の日となり・・。

2014-10-06 12:30:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、ぼんやりとテレビのニュースを視聴していたら、
台風18号が昼前後に首都圏に接近され、私の住む地域でも雨は激しく降る中、
風速30メートル前後の激しい風が吹き荒れる、と報じていた。

やがて東海道新幹線も一部区間で運行を見合わせ、在来線も遅れるなど、各地で交通が混乱し、
航空関係の便も羽田空港・発が一部に於いて欠航している状況が報じられていた。
          
                  ☆我が家の近くに流れる野川、過ぎし日の雨が降る情景☆

こうした中で、私の住む地域も小中学校が休校となり、学童の登下校の安全が第一だよなぁ、
と私は深く同意していた。
          
私も本日は外出禁止として、平素の午前中の買物と散策を中止し、
本でも読もうかと本棚の前で、うろついたりしていた・・。

我が家は幸いにも住宅地の外れの高台にあるので、土砂災害は皆無の地域で、
大雨の被害は少ないと思われるが、
古ぼけた一軒屋であるので、風速30メートル前後の激しい風には、憂慮したりしていた。


やがて本を一時間ばかり読んでいる中、雨は本降りとなったりし、
風は時折激しく吹く程度であったりしたが、
こうして投稿文を書き込んでいると、空が明るくなり、我が家の周辺は被害もないと思われ、
遠ざかったのかしら、と感じたりした。


この後、今回の台風で日本の各地で多大な被害などに伴い、各地で避難指示、避難勧告の状況を知り、
無力な私はお気の毒にと憂いたりした。

そして漁業、農業、果樹園、運送などに携わる方たちはもとより、
対策される道路、鉄道、消防、警察などの関係者は労苦が多く、
特に災害救助に対応される自衛隊の諸兄諸姉も職務といえ大変だ、と私は深く思いを重ねたりしている。


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70歳を歩き始めた私は、昨今は健康寿命に意識を深めて・・。

2014-10-05 13:26:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
過ぎし9月27日に古希(こき)と称される満70歳を迎えることが出来、
いよいよ70代入門が許された身かょ、と微苦笑したりしてきた・・。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活を始めたので、早や年金生活は10年過ぎている。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

私も定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、ささやかに過ごしたいと思ったりした。

そして過ぎ去った60代の10年間の日々は、予期した以上に安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて、
私たち夫婦はささやかな願いを叶えたりしてきた・・。

もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、私たち夫婦は幸いに大病せずに、
今日に至っている。

こうした中で、私が会社時代の懇親会などに列席すれば、
早くも60代で亡くなった方を知ったりして、哀悼を深めたり、
或いは先輩の75歳前後にお逢いし、体力の衰えが明確となりヨボヨボした方に、
私は唖然として、70代のなかばになると、あのような容姿になるのか、と悲嘆したりした。

しかしながら一部の75歳前後の方たちは、心身溌剌とし、私は勇気づけられたりしてきた。
          
     

やがて70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、これからの70代の日々の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。

健康寿命と称される心身ともに自立し健康的に生活できる期間を保った後に、
悩ましい介護・要か大病などを得て、平均寿命まで長い困苦する時期が、数多くの方が体験されている。

最近の厚生労働省から、あくまで平均であるが、下記のように公表されている。
男性・・健康寿命(70。42歳)・・・平均寿命(79。55歳)・・・この間の期間(9。13歳)
女性・・健康寿命(73。62歳)・・・平均寿命(86.30歳)・・・この間の期間(12。68歳)

そして、この悩ましい期間はそれぞれの方は、どのように過ごされるか、
中には稀に心身ともに自立し、溌剌と長寿をされる方もいる。

或いは人生設計が大幅に変貌して、想定外の不幸にも『3B』と称せられる『ぼっち(孤独)』、『貧乏』、
そして『ボケ(認知症)』に苦難されるかも知れない。


こうして学んできた私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。
          

こうした中で、私が定年後から愛読している【ダイヤモンド・オンライン】から、
『今話題の「健康寿命」ってナニ?世界一の長寿国・日本の意外と長い“不健康寿命”』
ど題して、10月3日(金)に公開した配信記事を精読した。

寄稿文を綴られたのは、ダイヤモンド編集長・原英次郎さんであり、無断ながら転載させて頂く。
《・・
●日本人の平均的な「不健康な期間」 男性9.13年、女性12.68年

最近「健康寿命」という言葉を、よく耳にするようになりました。
よく知られている「平均寿命」とは、どう違うのでしょうか。

平均寿命はその時の0歳の人が、その後どれくらい生きるのかを示しています。
これに対して健康寿命は、2000年にWHO(世界保健機構)が提唱した概念です。

厚生労働省の定義によれば、
「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」のことを言います。
要は、日常的に介護などのお世話にならず、自立した健康な生活ができる期間のことです。

ということで、当たり前のことながら、平均寿命と健康寿命には差があります。
厚労省の調査によれば、我が国の場合、男性の平均寿命が79.55歳、健康寿命が70.42歳、
女性が86.30歳と73.62歳となっています(2010年)。

平均寿命と健康寿命の差が、日常生活に制限のある「不健康な期間」で、
男性は9.13年、女性は12.68年となっています。

みなさんの実感と比べてどうでしょうか。案外、長いと思いませんか。
この両者の差を縮めることは、国の目標にもなっています。
          

●「幸せな老後」と「持続可能な社会」のため 健康寿命を延ばすことが必須

では、なぜ健康寿命を延ばし、平均寿命との差を縮めることが重要なのでしょうか。
もちろん第一は、個人が幸せに老後の生活を送るためです。
多くの人は自らの最後の姿として、「ピンピンころり」を望みますが、
そのような最期を迎える人は多くありません。

ですから、いくら平均寿命が延びても、不健康な期間が延びるだけでは、
本人はもとよりお世話をする家族の心身両面の負担が重くなってしまいます。

ましてや少子化と相まって、家族の形がすっかり変わったいま、
家族の負担はますます大きなものとなっています。

加えて、社会全体で考えても、急速な高齢化が進む日本にあっては、
不健康な期間が延びると、介護費用、医療費用が膨大なものになってしまいます。

ご承知のように、現在、年金、介護、医療などの社会保障は
現役世代(20歳~64歳)2.4人で一人の老齢者(65歳以上)を支える「騎馬戦型」となっています。

これが2050年に、現役世代1.2人で1人を支える「肩車型」になると予想されているのです。
ごく大雑把にいって、現役世代の5割を保証しようとすると、
現役世代はお給料の半分50%を社会保障に回さないといけなくなります。
このような社会は持続可能とは思えません。

だからこそ一人一人が自立した幸せな老後を送るためにも、日本の社会を維持していくためにも、
健康寿命を延ばして平均寿命との差を縮めることはとても重要なことなのです。

厚労省が対策に重点的に取り組むべきとして指定している疾患は、
「ガン」「脳卒中」「急性心筋梗塞」「糖尿病」「精神疾患」の5種類で、5大疾病と呼ばれます。
健康寿命を延ばすには、治療も大事ですが、食生活やエクササイズなど、
若いころからの生活習慣の改善がとても大切です。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          
          

私たち夫婦は、過ぎし4年前の頃から、大病やケガで多額の医療費が要した時は、
「高額療養費制度」を活用させて頂く、と話し合ったりしてきた。

何かしら手術や治療で、月に100万円かかることになったとしても「高額療養費制度」を利用すれば、
実際の負担額は月9万円を超えることはない。
100万円の医療費のうち、70才未満なら、まず3割が自己負担なので、窓口で支払うのは30万円。

さらに「高額療養費制度」を利用すると、1か月の医療費が約9万円を超えた分については、
加入する健康保険に申請すると、払い戻してもらえる。つまり、約21万円が後から戻ってくる。
                    
こうした「高額療養費制度」を学び、何よりも高齢者に頼りになる制度、と私は信愛している。
         

私は66歳の時に健康診断の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅の周辺3キロ範囲の公園、遊歩道などをひたすら歩くことが多くなっている。
          
 
こうした中で、私は定年退職するまで何かと悪戦苦闘することが多かった為か、
これ以上は悪化しないと、年金生活を10年間過ごす中で、プラス思考を深めたりしてきた。

そして良き人生の知恵も学び、或いは悪しき知恵も学び、
定年退職するまでの半生は敗残者のような人生航路を歩んできた私でも、
人生体験は私なりに豊富と思ったりしている。
           

    
こうした経験から70歳以降の人生は、体力の衰え実感させられる中、
もとより健康も大切であるが、
『生きがい』、『気力』あるいは『意欲』があれば、晩年期は、その人なりに充実した人生になる、
と思いながら、70代の初めて日々を過ごし始めている。

 
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