夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

思わず微苦笑させられた政治・経済のひとつのコラムは・・。

2009-11-22 16:44:18 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、何気なしに読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】をみていたら、
『政治・経済コラム 』というのがあって、
たまたま私は読んだのであるが、微苦笑させられたのである。

《 一字一句に込めた思い 》

と題されたエッセイであり、読売新聞の政治部 池辺英俊氏の寄稿文である。

無断であるが、政治・経済そして川柳にご興味のあるお方に紹介したくなり、
転載をさせて頂く。

《・・
11月14日付本紙朝刊の「よみうり時事川柳」で、
秀作に選ばれた句を読み、思わず「くすっ」と笑ってしまった。

 政治家の裸を撮ってくれ紀信

写真家の篠山紀信さんに、公衆の場でヌード撮影をした疑いで捜査が及んだことを「ネタ」に、
それなら、偽装献金問題などを抱える政治家の「裸」、ありのままの姿を公衆の場にさらして欲しいといったところか。
風刺がワサビのようにぴりっと利いている。

日頃、無数の字句を組み合わせて新聞の記事を作っているが、
「五七五」に凝縮した言葉はかえって胸に響き、心に残るものだと改めて感じた。

川柳は政治家を風刺するものが多いが、逆に政治家の側が俳句で発信することがあってもいい。
そんな思いをもったのは、最近、「参院のドン」と呼ばれた村上正邦・元自民党参院議員会長と会ったのが契機だ。
村上氏は、自ら詠んだ2つの句を紹介してくれた。

 仮釈の日燦然(さんぜん)としてもみぢかな

 まつりごと遠くになりて秋の空

最初の句は10月28日、村上氏が栃木県内の刑務所から仮釈放された際に詠んだものだ。

村上氏はKSD(中小企業経営者福祉事業団、現・中小企業災害補償共済福祉財団)事件で、
受託収賄容疑で逮捕され、その後、実刑が確定。
2008年5月に収監された。
句は、朝の日差しに輝く紅葉を見つけ、1年半ぶりに出所した喜びを重ね合わせた。

後の句は、仮釈放を言い渡された10月中旬に刑務所内で詠んだもの。
うれしさの一方、「塀の中」にいる間に政権交代が実現。

自民党政権ならば、参院の実力者として君臨した頃の人脈を使い、
政界に一定の影響力を及ぼすこともできるが、民主党政権ではそれも難しい。
「自分の出番はさらに遠のいたか」という複雑な心境を秋の空になぞらえた。


政界第一の俳人としては、「孝堂」の俳号を持ち、
2007年に亡くなった藤波孝生・元官房長官を挙げる人が多いだろう。
村上氏と同様、受託収賄罪の汚名を着せられ、裁判の争いの中で揺れる心境を詠んだ。

1994年、東京地裁で無罪判決を受けた時は、
「爽(さわ)やかに天の声聞く朝(あした)かな」
と安堵(あんど)感を表した。

だが、その後、有罪判決を受けると、
「春疾風どこ迄つづくぬかるみぞ」
と無念さをにじませた。

政治家としては悲運だったが、
代表作「控へ目に生くる幸せ根深汁」は、
地元の三重県伊勢市で句碑に刻まれ、謙虚で温厚な人柄あふれる数々の句は、
今も藤波氏を慕うベテランの政治家や記者たちの語り草だ。


藤波、村上両氏の政治の師である中曽根元首相も、句歴70年以上を誇る。
昨年、卒寿記念の句集を出版した。

この中にある「暮れてなお命の限り蝉しぐれ」は、
03年に小泉首相から引退勧告された際、思わず口にした句。
実際に詠んだのはこれより前だが、「生涯政治家」として生きていく執念が伝わってくる。

翻って、今の政界。

鳩山首相や閣僚は多弁だが、もう一つ心に響いてこない。
ブレも目立ち、発言の軽さが指摘されている。

俳句にならい、自ら発する一字一句に、
もっと政治家としての熱い思いや理念をぎゅっと詰めこんでもらいたい。

(2009年11月20日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/column/politics/20091120-OYT8T00407.htm?from=navlc
読売新聞の政治部 池辺英俊氏の『一字一句に込めた思い』


このような名エッセイのお手本のような寄稿文である。

私は無力な年金生活の身であるが、読売新聞の政治・経済記事を毎朝読んだりしているが、
ときおり心の節度を欠いた政治、官僚、財界の諸兄姉の言動を感じると、
たとえ無力の身といえ『かいわれ大根(カイワレ)』と同じような味わいで、
ときおり、このサイトに投稿したりしている。

このような心情があるので、この『一字一句に込めた思い』の寄稿文を深く読むと、
思わず微苦笑をさせられるのである。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真摯な文学青年に薦める本のひとつは、浅田次郎・著の『つばさよつばさ』

2009-11-22 14:31:11 | 読書、小説・随筆
ここ10数年、トップランナーのベストセラー作家である浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)を読んだ。

http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784094084375
浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)

氏の《あとがきにかえて》に於いて、明示されているが、
JALの機内誌『SKYWARD』に連載されたエッセイを単行本に刊行された後、
著者が加筆・訂正と文庫化した本である。

もとよりJALの機内誌のことであるので、各国の旅先の情景、食べ物、人との出会い、
そして日本人の若者の海外でのはがゆさ等が、
著者の思いが満天の星のように綴られている。

この間に、著者は小説家として流行作家の先頭グループで精力的に数多くの作品を発表されるお方であるが、
これまでの創作者として途上、やがて流行作家となった時の戸惑い、そして現在の心境までが、
散見であるが発露されている。

このことは文学青年の方たちに大いなる教訓となるのが、数多く見られる。
著者の貴重な体験から明示していることであり、特に小説家をめざす諸兄姉に学び取ることも多いと思われ、
あえて紡ぎ糸を紬(つむぎ)のような形で再編集してみようと、私は思ったのである・・。

《・・
(略)
私はかって、新人賞に三十回くらい落選した経験があるので、
この仕事(引用者・文学賞の選考委員)には気合が入る。
一行もおろそかにしてはならぬと思う。
三十回も落ちたのは何かのまちがいだったと、今でも信じているからである。

(略)

当時私は雑誌のライター稼業に精を出していた。
小説家になりたいのだが、小説を書かせてもらえないのだから仕方がない。

(略)

さる出版社からケンもほろろにつき返された小説のボツの原稿が、
机の上に置いてあった。

(略)

私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
心の赴(おもむ)くままぶらりと旅に出て、鄙(ひな)びた温泉宿やリゾート地のホテルで、
甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。

(略)

不遇の時代には生活と格闘せねばならず、
やがて冬を一気に抜け出すと、
たちまち膨大な仕事がのしかかって身動きもできぬようになる。

むろん中には羨(うらや)むべきマイペース作家がいるが、
それは一種の才能であって、羨んだところで真似のできるところではない。

いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
夜も眠らず原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標などは、
いかに無計画な作家でも受けるはずがないからである。
これは経験上、たしかになんとかなる。

この際の問題は肉体でなく、精神力である。
たとえば五本の連載小説を抱えてしまうと、
そこには五つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが構成する五つの世界がある。
多くの読者を得心させるエンターティンメントに、日常の退屈な些事(さじ)を書き綴ることなどは許されない。
すなわち、書くべき物語は血湧き肉躍る五つの嘘である。

合理的に考えれば、似たような作品を並べるという手はある。
しかしこれも一種の才能で、ひとつのジャンルを書きつないで恒久的な読者を維持するのは生易しい話でない。

私の場合は、(略)
少なくとも登場人物の人格が相互に侵食せぬだけの、
まったく異なった小説を同時に書くことになる。

(略)

小説家には小説を書くという本業のほか、さまざまな仕事が要求されるのである。
サイン会や対談、文学賞の選考委員やら授賞式の列席、
所属する日本ペンクラブや日本文藝家協会の活動、
テレビやラジオ出演、映像化や翻訳にまつわる打ち合わせ、
いやはやそのほかの雑事を挙げればきりがない。
・・》
注)原文の一部に、あえて改行を多くした。

このように著者の浅田次郎氏は、小説家としての心構えなどを発露しているのである。

私は単なる小説、随筆をこよなく愛する読者のひとりであり、
浅田次郎氏の作品は余り読んでいない。

このサイトで浅田次郎氏に関して投稿しているのは、
【 小説家・浅田次郎さんの一面・・♪ 】
と題して、2006年3月11日に於いて、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、春の陽射しの一日である。

この4日間、私はⅠ冊の文庫本を読んだりしている。

小説家の浅田次郎・著の『待つ女~浅田次郎読本~』と題された朝日文庫のⅠ冊である。

作者が自作を語るのが載っていたので、購入した訳である。

私はこの作者の著作本を15冊保有しており、ごく普通の愛読者である。

最初に読んだ本は、『蒼穹の昴』であった。
偶然、本屋で見かけ、タイトルが素晴らしく、本を取り出した。
本の帯に書かれた内容を見て、購入した。平成8年の5月の頃だった。

私はこの作者に魅了して、その後は店頭で見かけるたびに、購入した。

それからしばらくして、短編集の『鉄道員』が発売され、
この中の『ラブ・レター』には、しばらくため息をした。

現在、作者の全てを読了してはいないが、15冊の本の中では、
長編は『蒼穹の昴』、短編では『ラブ・レター』が最も好きな小説である。

今回の文庫本は、作者を知る上で最も適した本である。

この中で、評論として、三島由紀夫・氏の文学について書かれている。
『寂寞(じゃくまく)の庭にて~三島由紀夫の戦場~』《初出『文学界』平成12年11月号》
と題され書かれているが、
昭和45年秋に作家・三島由紀夫氏が自裁された後、この後に数多くの作家、評論家が綴られていた。

今回の浅田次郎氏は、歳月が流れた後の有利さを配慮しても、
三島由紀夫氏にこれ程に明晰した評論は、私の知る限りない。

三島由紀夫氏に関心のある方は、ぜひご一読をお願いしたい、と思っている。
・・】


このように投稿していたが、この後2007年4月3日に於いて、
【 浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪】
と題して、投稿もあった。

【・・
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎氏のロング・インタビューを読んでいた。

この中で浅田次郎氏は、最後に、

《・・・
仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。

安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。
私は定年退職後の3年生の身であるが、日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。

家内と共通の趣味は国内旅行なので、ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。

家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。

こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。

日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげていることが多い・・。

このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎氏の発言された言葉に、思わず苦笑させられたりしたのである。


私は浅田次郎氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。

尚、浅田次郎氏の文学に対する真摯な思い、
そして小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知り、多々教示されたので、
推薦できる本かしら、と感じたのである。

この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。
・・】

私は作家・浅田次郎氏には、この程度しか解からない浅学のひとりである。


ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金青年の私は、若い人の聴く音楽テストに敗退・・!?

2009-11-21 21:44:33 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
若き頃の東京オリンピックが開催された年、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした後、
民間企業に何とか中途入社できたのは、1970年の春であった。
まもなく外資系の新設されたレコード専門会社に転籍させられ、
音楽制作に直接関係のない管理系の商品、情報、経理、営業、物流などを体験して、
2004年の秋に定年退職した身である。

文学、映画に続いて音楽は興味があったが、
入社当時は殆ど音楽の曲も無知なグループに属していた。
もとより管理系の分野を勤めていたが、この中には多少の音楽知識とセンスが問われることが多く、
私なりに入社後、給料を頂くたびに自社、他社を問わず、毎月少なくとも3枚のアルバムを購入したりしていると、
魅了されるアーティストに熱中し、買い揃え、夢中になって聴いたりしてきた。

定年退職後、音楽棚を整理したら、レコード、カセット、CD、DVDは、
この間に知人に程々に差し上げたりしたが、概算3000枚となっている。

最近、年金生活の6年生となり、定年退職後は年に数枚のCDを購入したり、
ここ数年は、ときおりパソコンで【YouTube】で、
まぎれなくレコード業界はパンドラの箱が開けられた、と驚きながらため息まじりで聴いたりしている。

音楽を聴くのは居間で、かってはプリアンプ、メインアンプ別のオーディオなどの装置で聴いていたが、
恥ずかしながら昨今は、CDラジカセとなっている。
ときおり外出で音楽を聴きたい時は、無念ながら携帯電話も使えず保有していないので、
CDウォークマンで聴きたいCDアルバムを5、6枚持ち歩いている。

そして、定年退職後、魅了させられたアーティトの曲は、
たまたまラジオを聴いて、綾香ちゃんの発売日前の『三日月』であったり、
テレビで観たコブクロの『赤い糸』、
旅行先のドライブインで偶然に聴いたいきものがかり『帰りたくなったよ』の吉岡聖恵ちゃんの唄声であったりした。
こうした曲にめぐり逢うと、その後しばらくの間は毎日聴いたりし、
少なくとも百回以上は聴くことになり、私の物狂いシーズンとなっている。

こうした年金生活をしているが、昨日のひととき、
音楽業界のサイトのひとつとして【MUSICMAN】があるが、
ある記事をたまたま読み、昨今の若い人が聴いている曲を少しばかり私自身をテストしょう、
と戯(たわむ)れたのである。

 《 レコチョク、着うたフル5年間総ランキング発表 》

と題された見出しであった。


無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
[ビジネスニュース]
2009年11月19日 Musicman編集部

株式会社レコチョクは、「着うたフル」サービスが始まって6年目に入る11月19日(木)、
自社が運営する月額基本料無料の「レコチョク フル」にて「着うたフル」5年間総ランキングを発表した。

1位は、「着うたフル」のダウンロード数でギネス・ワールド・レコーズに
「Best selling download single in Japan」(日本で最も多くダウンロード販売されたシングル)として正式認定された、
GReeeeN「キセキ」(2008年6月4日配信開始)が獲得。

GReeeeNは、ブレイクのきっかけになった代表曲「愛唄」(2007年5月16日配信開始)も2位と、
1・2位を独占する形となった。

3位には、レコチョク史上最速43日で「着うたフル」100万ダウンロードを達成した、
青山テルマ「そばにいるね」(2008年1月23日配信開始)がランクインした。

20位までのランキングは以下の通り。

●「着うたフル」の歴史を振り返る、5年間総ランキング
1位「キセキ」GReeeeN
2位「愛唄」GReeeeN
3位「そばにいるね」青山テルマ feat.SoulJa
4位:「Lovers Again」EXILE
5位:「三日月」絢香
6位:「蕾(つぼみ)」コブクロ
7位:「Ti Amo」EXILE
8位:「ここにいるよ feat.青山テルマ」SoulJa
9位:「Prisoner Of Love」宇多田ヒカル
10位:「桜」コブクロ
11位:「マタアイマショウ」SEAMO
12位:「プラネタリウム」大塚 愛
13位:「君のすべてに」Spontania feat.JUJU
14位:「Flavor Of Life」宇多田ヒカル
15位:「遥か」GReeeeN
16位:「崖の上のポニョ」藤岡藤巻と大橋のぞみ
17位:「千の夜をこえて」Aqua Timez
18位:「永遠にともに」コブクロ
19位:「明日がくるなら」JUJU with JAY'ED
20位:「LIFE」キマグレン

●レコチョク フル (http://recochoku.jp/f/)
・i モード:i Menu⇒メニューリスト⇒着うたフル
・EZweb:au oneトップ⇒カテゴリ検索⇒着うたフル・ビデオクリップ
・Yahoo!ケータイ:メニューリスト⇒着うたフル
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私はこのベスト20位を眺めて、八割は聴いたことがあるが、
魅了された曲は五曲ばかりであった。
もとより携帯電話から選定された曲で、圧倒的に多い若い世代からと思われ、
40代以上のお方たちは音楽を聴き、魅了されたならばCDを購入して聴く世代、と私は思っている。

従って、若い世代の人たちから、ここ5年間に最も愛聴された曲とも明言できる、と思ったりしたのである。

私は素直に振り返ると、若い人々の10代の後半から30代の多くの人たち・・
私は齢ばかり重ねた65歳の私であり、
少しばかり若い感性と感覚があると自負していたのであるが、
無念ながら敗退かしら、と苦笑したのである。

そして、悔(くや)し紛(まぎ)れに、1950年代から2004年までの少しばかりの名曲は、
その当時に実感して聴いてきたよ、心の中で呟(つぶや)いたりしたりしている。



にほんブログ村 音楽ブログへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島みゆき女史の『歌姫』を心の中で唄えば・・。

2009-11-21 15:14:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、待ち焦(こ)がれた NHKのBS2で『BS熱中夜話「中島みゆき」(前編)』を視聴した。

一週間前頃、NHK総合の何かの番組を見終わった後、
中島みゆきさんの熱心なファンの方たちの集(つど)い語りあい、2回に及び放映する、と報じていたので、
私は知ったのである。

私は一時時期、中島みゆき女史の歌に5年間ぐらいは熱愛者となり、
殆ど毎日少なくとも数時間は聴いていたひとりで、
今は平熱となっているが、ときおり聴いたりしているが、
相変わらず敬愛し、昨今は深めている。

このような思いがあるので、番組に出演され熱心なファンの方たちの
中島みゆき女史の数々の歌に対する思いを聞いてみたかったのである。

番組の解説として、
《国民的女性アーティスト「中島みゆき」を語る。
 第1夜は、恋歌から応援歌まで数々のヒット曲、名曲でつづられる中島みゆきの歌の世界、
 その魅力を歌詞を中心に語りつくす。》
と紹介され、
熱心なファンの方たちの30名のお方を招待し、音楽評論家のまぎれない第一線の田家秀樹氏、
ゲストとしエド・はるみ,安達祐実のお2人、
そのような形式で、その人なりの中島みゆき女史の歌の思いを真摯に発言されていた。

私は、中島みゆき女史の歌をそれぞれの方が、その人なりに解釈をされていたので、
多々教示されながら微苦笑したりした。

この番組の間に、中島みゆき女史の歌のライブが紹介されていたのであるが、
ライブの数々の情景を視聴されていたのであるが、
歌詞に秘められた表現と説得力が圧倒的な存在として発露され、
改めて私は中島みゆき女史の歌から感銘を深めたり、ときには涙さえ浮かべたのである。

この45分ばかりの前編の番組を視聴した後、
ネットでこの番組の詳細を検索したりした。

http://www.nhk.or.jp/nettyu/
『BS熱中夜話』

「中島みゆき ナイト開催」の中に於いて、
《 中島みゆきを語りつくそう 投稿大募集 》
 と明示された下段に、
《 中島みゆき 熱いメッセージを大募集 》
と表示されていたので、思わずクイックしたのであった。

投稿文は200文字以内と規定されていたので、苦笑したのである。

たった200文字以内で、私の中島みゆき女史を思いは、
私は伝えるだけの能力がなく、断念したのである。


この後、私は音楽棚から中島みゆき女史のCDアルバムの一連を取り出しながら、
『アザミのララバイ』、『時代』、『ホームにて』、『時はながれて』、『おまえの家』、『世情』、
『根雪』、『夜曲』、『肩に降る雨』 、『HALF』、『あした』、『with』、『永久欠番』などを聴いたりすると、
深夜の一時半となったので布団にもぐりこんだせのである。

今朝、8時に目覚め、9時過ぎに『ヘッドライト・テールライト』などを聴いたりした。

その後、11時過ぎに散策と買物に出かけ、
少し遠回りの川沿いの遊歩道を歩きだした。
風もなく秋日和につつまれた中、水の流れに気をとめ、立ち止まったのである。
わずかに残っている薄(ススキ)の白い穂、枯れた草花が水辺にあり、
柔らかな晩秋の陽射しを受けた清流は、ゆるやかな流れ、おだやかな情景となっていた。

♪淋しいなんて 口に出したら
 誰もみんな うとましくて逃げだしてゆく
 淋しくなんかないと笑えば
 淋しい荷物 肩の上でなお重くなる

【『歌姫』 作詞、作曲・中島みゆき、唄・中島みゆき】

私は突然に、この歌を心の中で歌いだしたのである。

この後、そうだよなぁ・・この世の人生は・・
と心の中で呟(つぶや)いたのである。

そして再び歩き出し、小公園の数々の大きな落葉樹が観え、
紅色、朱色、黄色、淡い黄色に染まった錦繍(きんしゅう)の情景に私は向かい、

♪握りこぶしの中にあるように見せた夢を
 もう二年 もう十年 忘れすてるまで

【『歌姫』 作詞、作曲・中島みゆき、唄・中島みゆき】

心の中で唄いながら、私は歩いたのである。

尚、私の中島みゆき女史に思考、或いは中島みゆきさんにご興味のあるお方は、
私なりに数多く綴っているが、みじかな最近としては、
【私なりの中島みゆき女史の『夜会』の想いで・・。】
と題して、このサイトに11月14日に投稿している。


http://www.youtube.com/watch?v=iV1iFWUBtb4
☆【『歌姫』 作詞、作曲・中島みゆき、唄・中島みゆき】☆




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京郊外の昨日は、この時節17年ぶりの寒さとなり・・。

2009-11-20 04:40:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、どんよりとした曇り空で、ときおり小雨が降る12月中旬のような寒い日となった。
朝の6時は7度、昼下がりは9度で、夜の6時に8度となり、
日中の最高気温が一桁の9度は、この時節としては17年ぶりの寒さと、と報じていた。

ここ数日の私は風邪気味であり、あわてて長袖シャツの下着を着たり、
風邪薬を3年ぶりに飲んだりして、居間のガスファンヒーターの暖房のぬくもりに頼ったりした。
家内と旅行の話し合いをした後、音楽を聴いたり、
このサイトに2通ばかり投稿文を綴ったりした。

そして午後の3時過ぎから布団にもぐり電気敷き毛布の暖かさの中、
本を読んだりして昼寝を1時間ばかり甘受したりした。

このようなぐうだらな日中の生活を突然に過ごせるのは、
年金生活の怠(なま)け者だけに許される特典かしら、と苦笑しながら過ごしたのである。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京郊外の田舎者、私なりの『札幌クリスマス&イルミネーション』の想いで・・。 《下》

2009-11-19 14:29:51 | 旅のあれこれ
この後の私は、このサイトに於いて、
【 冬の札幌のひとときは、時のゆりかご・・。【2008.12.21~.12.25.】 】
と題して、投稿したりしていた。


        序 章

私は東京郊外の調布市に住み、年金生活の5年生の64歳の身であり、
冬の時節、札幌に4泊5日で訪れた。

三度目の冬であるが、初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
市内の各地をゆっくり散策したりした・・。

平年より雪が少ないと報じられて折、
小雪が降ったり、止(や)んだりした中で過ごした期間でもあった。

私には、雪が舞う中を家内と散策したりしていると、
この北国の春、夏、そして晩秋の過ぎた日々に思いを重ねたりすると、
舞う雪の情景は、時のゆりかごのように感じられたのである。


        第一章 暮れなずむ中、雪が舞い降りて

新千歳空港に午後3時半過ぎに、私達夫婦は札幌行きに乗車した。
車窓から里辺を観ると、5センチ前後の雪化粧の景観であった。
そして、雪が舞い降(お)りて、ひとひら、ふたひらと雪の精が空中をさまよいながら、
地上を降り立った・・。

『思ったより・・雪・・少ないねぇ・・』
と私は家内に云いながら、以前に年始の時、そして2月の雪祭りの時の積雪を思い浮かべながら、
住宅街の情景を眺めたりした。


札幌駅から地下鉄に乗り換え、『ススキノ駅』から5分前後歩いた場所に、
滞在するホテルがあった。
今回の旅は、ある旅行会社の企画プランで、
航空料金と宿泊代、そして旭山動物園バス・ツアーも付加された
驚くべ格安な旅費であったので、多少の不安があった。

事前に宿泊するビジネス・ホテル風を調べて、
『こんなに安くて・・ホテルも旅行会社も大丈夫なのかしら・・』
と私は家内に云ったりしたのである。

http://www.susukino-greenhotels.com/gh2/index.html
『ススキノグリーンホテル2』

チェック・イン後、入室したのであるが、
このホテルの浴室は洗い場があり、単なる洋バスより遙かに利便性がある。

この後、簡易の滑り止めを靴にセットし、
夜の6時過ぎに、小雪舞い降る中、賑わう街中を歩き、
目的地の大通(おおどおり)にある『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たりした。

http://www.sweb.co.jp/kanko/white/
『さっぽろホワイト・イルミネーション』

私はクリスマスに向けた大規模なイルミネーションの光景は、
生まれて初めて観たが、やはり婦女子の観るものかしら、と思ったが、
こうした市民や私達のような観光客の中に身を置くと、
素直に美麗な装飾も情感があると感じたのである。

そして、市民たちの幼子たちの歓声を聞いたりしていた。


        第二章 幻のペンギンのヨチヨチ歩き、そして・・。

今回の旅で、家内が旭山動物園に於いて、
冬季の大半がペンギンの散歩の際にヨチヨチ歩きが観られるので、
家内が愉しみにしていたひとつであった。

私達は北海道には四季折々訪ね、
少なくとも旭山動物園には春と秋の頃に、観たりしているが、
冬季の雪のある時は未知であった。

http://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/
      旭山動物園

私達は防寒用の登山靴で防寒フィールド・ジャケット、帽子で、
たとえマイナス15度前後の寒さになっても万全の対策の様相で、
バス・ツアー『旭山動物園1日』の集合場所に8時前に到着した。

道央自動車道の高速道路をバスは走ったが、
途中の休憩地の『砂川SA』でも積雪10センチ前後であった。

この後、雪が降り出し、ときおり風が吹いたりし、
動物園に11時15分過ぎに到着したが、ペンギンの散歩は中止と知り、
やむえず昼食として、東口にあるレストランに入った。

私はもとより動物は苦手であるが、
家内は動物好きで、この日は家内の誕生日であり、
プレゼントの代わりに今回の旅に思い立ったひとつでもある。

レストランの料理は創意工夫があり、
私はビールを呑みながら、誉(ほ)めたりしながら頂いた。
そして、いつものように家内の選定した料理と、少しづつ交換しながら、食味したりした。

この後、積雪15センチ前後で、再び雪が降りはじめ、微風が吹く中、
園内を観て廻った・・。
掲示の気温はマイナス4度と表示されていたが、私は寒さを感じることなかったのである。

そして、アムールの虎、アムールの豹は精悍で凛々しく見えたが、
やはり冬のライオンは哀れである。
私はこのようにしか、動物を観るしかできない身である。

家内は『ペンギン館』はもとより、『アザラシ館』、『北極熊館』を観ている間、
私は休憩所、出入り口にある喫煙所で煙草を喫いながら、
老若男女のしぐさを観ている方に興味があったりしたので、
眺めて微苦笑させられたりしていた。
そして、下方の旭川市の郊外の景観を眺めたりした。

集合の午後3時にバスに乗り込み、旭山動物園にさよならを告げ、
賑わう札幌市に戻ったのは、午後6時過ぎであった。


宿泊先のホテルに戻る時、家内が雪で足を滑らせて、後ろに転倒し、
私は瞬時に助けようとして、私も引きずられるように転んでしまった。
家内が起き上がる時に、後頭部を打ち、めまいをした、と告げたので、
最寄の病院の小児科であったが、診察して貰ったりした。

この後、万一の状況のことを配慮し、24時間体制の脳外科病院も
教えて頂いたりしたのである。

そしてホテルに戻り、30分前後安静した後、今朝からの予定通り、
『ミュンヘン・クリスマス』に行きましょう、
と家内は云い出したので、
私はほっとしながら、身支度を整えたりした。


ススキノの繁華街の賑わう街並みを通り、
大通(おおどおり)の一角にある『ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo』に設置され、
クリスマスの装飾品の土産売り場、飲食店が並んでいた。

http://www.city.sapporo.jp/christmas-market/
『ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo』

そして、飲食店で温めているワインを呑みながら、
ドイツ文化に相応しい田舎料理を立食で頂ただいたりした。
若いカップルが数多くいる中、家内のささやかな誕生日祝いとなったのである。

この後、家内はクリスタルの小さなサンタの装飾品を記念品として選定した後、
帰路としたが、ススキノにある展望観覧車が観えたのである。
そして、ススキノから、市内の夜景が一望できるので、乗り込んだりしたのである。


       第三章 街並みを呑み食べ歩きをすれば・・。

昨夜は深夜にホテルに戻ったので、今朝は9時の目覚めとなった。
ホテルを10時半過ぎに出て、
『お腹がすいたから・・何か食べよう・・』
と私は云いながら、家内と共に飲食街を歩いたりした。

街通りを歩き、回転寿司の清潔感ありそうな一軒に入ったのであるが、
味が良いのに好感し、地酒も良質で、値段も程々である。
私は昼前なので不謹慎と思いながら参合ばかり呑みながら、寿司を10ばかり頂き、
家内も、美味しいわ、と久々に云ったりした。

http://r.gnavi.co.jp/h080902/
回転すし『 活一鮮 南三条店 』

この後、秘かに意識していた南三条の街並みを歩いた後、
地酒の『千歳鶴』で知られている即売店、醸造所見学に寄った。
5種類ばかり試飲し、4合瓶を1本と300mi1本を買い求めたりした。

http://www.nipponseishu.co.jp/
地酒の『千歳鶴』


そして、家内が買物をしたい、と云うので、
近くの『サッポロファクトリー』に入店したのであるが、
大規模な造りに私は驚いたりし、疲れ果て、レンガ館が観える前の喫茶店で家内を待つことにした。

喫茶店の外庭のテーブルに座って、煙草を喫っていると、
レンガの煙突にサンタの飾りがあり、空から雪が舞い降り、
偶然にクリスマスらしい光景に私は見惚(みと)れてしまったのである。


この後、ホテルに戻る途中で、ラーメン屋に寄ったのであるが、
私としては油ぎっていて、美味しくないのである。
最初の夜も別のラーメン屋で頂いたのであるが、
私としては、札幌のラーメンは相性が良くない、と思えたのである。

こうした時、私は自分で選定したのであるが、
コンビニの『ローソン』の少し高めのおにぎりを思い浮べ、
あの方が遙かに美味しい、と後悔するケチな男である。


しかし、翌晩に炉辺焼で地魚を食べたいと、
偶然に入った大衆的な居酒屋は、私は魅了させられたのである。

http://www.hotpepper.jp/A_20100/strJ000027463.html
『やん衆炉ばた北斗』


地魚を焼いても、刺身でも美味しいし、地酒の美味だし、何よりお値段は手頃である。

私は札幌の最後の夜と感じたせいか、私は地酒を5合ばかり呑みながら、
家内はビールの小ジョキーで、
貝類も加えて、十二分に頂いたのである。

こうして食べ物、飲み物は、それぞれのお方の好みであるので、
女性はもとより別格であるが、この世で一番難しい選定なのかも知れない、
と私は微苦笑したりした。


           第四章 北海道の文学を訪ねて・・。

『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。

http://www.h-bungaku.or.jp/
『北海道文学館』

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信したのである。

そして、私は館内にあった同人雑誌で、
数多くのお方たちが文学をめざして、何とか筆1本で生計を夢みた人に、思いを馳せたりした・・。

私はこのサイトに於いて、
【遅ればせながら、『七本杉』という略称を学び・・♪】
と題して、11月18日に投稿した綴りを甦(よみがえ)ってきた・・。

【・・
昼下りのひととき、私は総合月刊雑誌の『中央公論』の今月号を読んだりしていた。

特集のひとつである『これであなたも作家になれる』があり、
この中で75歳となる平成17年に作家デビューされた加藤 廣さんが、
愛情をこめて物書き志望者にアドバイスを送る、と解説された

『物書きの夢と現実を語ろう』

と題された加藤 廣・氏の綴られた随筆を拝読したのである。


この中で、私は驚いて、こうした略称があったのか、と齢ばかり重ねた私は学んだのである。

《・・
「按ずるに筆は一本也。箸は二本也。
衆寡敵せずと知るべし」

明治の作家兼評論家・齋藤緑雨の残した一代の名句である。
物書きたらんとする者、これだけは肝に銘じたい。

これまで、どれほど多くの作家が、この警句の禁を犯し、
七本杉(身過ぎ、世過ぎ)のために筆を曲げ、
エロ作家や通俗大衆作家などに堕ちていったかを知ってほしい。
・・》
注)原文にあえて改行など多くした。

・・】


私は若き一時時期、文学青年の真似事をしたことあったので、
こうしたことは痛いほど理解しているひとりである。

この後、近くに『渡辺淳一文学館』があるのは知っていたが、私は興味がなかったのである。

私の拙(つたな)い読書歴からして、小説家・渡辺淳一氏の作品は、
初期から『ひとひらの雪』の前までは賞賛したが、これ以降の作品に失望している。
亡くなわれた小説家・立原正秋の遺された作品を読めば、
男女の世界を描いても歴然と明確になる。

このような思いで、『北海道文学館』を名残惜しく後にした。



          最終章 旅の終りは、『朝市食堂』・・♪

25日の旅の最終日、9時半過ぎにホテルをチェック・アウトし、
荷物が増えたので、やむえず札幌駅までタクシーを利用した。

私は旅先に於いては、原則として公共の交通機関を利用し、
その地にお住まいの人々の特徴を知る最もすぐれた手掛かりとなるので、
今回の滞在中、地下鉄、バスなど乗ったり、或いは徒歩で市内の街並みを散策したのである。
そして、言葉のアクセント、何気ないしぐさ等を学んだりしたのである。

札幌駅より電車で新千歳空港に行き、
何かしら昼食代わりにと食事処を探したのである。
1階の到着&サービス施設のフロアで食事処の中で、『朝市食堂』と明示された所を入り、頂いたのであるが、
想像以上に魚介類は新鮮で、程々のお値段で、美味しかったのである。

http://www.bfh.jp/theme/theme_searchdetail.html/80000570
新千歳空港『朝市食堂』


従来、この新千歳空港内は、洋風の食事処を利用してきたが、
今後、空港内の食事時の場合は、この『朝市食堂』は心身の波長が合うので利用しょう、
と私は家内に明言したりした。


私達の乗る航空便は予定より20分遅れで、新千歳空港を離陸した。

                            (終り)

このように私たちの旅行を綴った翌日、
【 冬の札幌の旅から帰宅し、歳末に向けて私は・・。】
と題して、投稿している。

【・・
東京郊外の調布市に住む私達夫婦は、札幌に21日~25日まで4泊5日で滞在し、
市内を散策したりしたが、積雪が5センチ前後で、
郊外の中島公園付近でも15センチ前後であり、
雪の少なさと予測していたほど寒くなく、驚いたりしていた。
25日の昼下り、新千歳空港の航空便も20分遅れ程度であった。

26日の東京郊外の自宅付近は、
朝の6時過ぎは1度前後、昼時は7度前後となり、
曇り空の中、ときおり風が強く吹く、寒い日中となった。

私はこのサイトに綴ったりし、家内は掃除、洗濯などしていたが、
テレビのニュースで、新千歳空港が朝より風雪で、午後の4時ごろまで欠航となり、
利用客も大幅に予定が変更され混乱をし、道内の各地も激しい風雪となり、
と報じていたのである。

私達の当初の旅程は、22日~26日まで滞在し、
クリスマスの時節を札幌で満喫する予定であったが、
28日から家内の母を自宅に来て貰い、年始まで共に過ごすので、
慌しい期間となることもあり、21日~25日としたのである。

このようなこともあり、北海道の道民のお方たちには不謹慎ながら、
日程を早めたのが良かった、と私達は感じたのである。

翌日のニュース等で、急激な寒波による風雪の激しさを報じていた。

昨日の27日の東京郊外は、朝の6時過ぎはマイナス4度、
昼下りも8度前後の寒さであったが、
風もなく穏(おだ)やかな冬晴れるの日中となった。
(略)
・・】


このように私たち夫婦の札幌のクリスマスの時、
初めて訪れた街に思いを馳せながら、私は読んだりしたのである。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京郊外の田舎者、私なりの『札幌クリスマス&イルミネーション』の想いで・・。 《上》

2009-11-19 13:12:57 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
どんよりとした曇り空の朝を迎え、日中のひととき小雨が予測され、
12月中旬のような寒い日となっている。

午前中のひととき、私は家内との共通趣味は国内旅行であり、
これからの旅行のことで話し合ったりしたのである。

現在予定しているのは、来年の二月頃に小笠原諸島で鯨(クジラ)を観に行く予約をしている。
家内が海上で鯨(クジラ)を遊泳しているのが観てみたいわ、と云ったのがはじまりで、
私達夫婦は海外旅行は苦手であるので、小笠原諸島にしょうとした上で、
鯨(クジラ)を最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思案したのである。
そして小笠原諸島に定期船の程ほどのクラスの船室で往復して、
ホテルのように宿泊設備のある場所に一週間滞在するプランを作成し、予約しているのである。

しかし、その間、雪景色の情景も恋しく、
温泉のある観光ホテルに3泊4日前後で滞在するプランを話し合ったりしているのである。

東北の八幡平、北海道の阿寒湖、屈斜路湖の付近の川湯温泉などを旅行会社から送付されてくる雑誌で、
温泉滞在のフリー・プランを見たりして、検討したのであったが、
一長一短で決まらなかったのである。

この後、私は独りでCDラジカセで音楽棚より一枚のCDを取りだして聴いたりしたのである。
中島みゆき女史の『歌でしか言えない』と題されたアルバムで、
1991(平成3)年10月23日に発売され、当時の私は平成元年から平成5年の頃までは、
中島みゆき女史の名曲に熱愛し、殆ど毎日聴いていた時代であった。

この後は平熱となったが、平常心で聴いたりしているが相変わらず思いは深く、
心に秘めた曲は少なくとも百曲ばかりはある。

このようなことを思いながら、9曲目の『サッポロSNOWY』も聴いたりした・・。

http://www.youtube.com/watch?v=thJOEwMUtdI

☆【『サッポロSNOWY』作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき 】☆


そして聴き終ると、
昨年のクリスマスの頃に札幌の情景が蘇ってきたのである・・。

私はこのサイトにも、この頃の思いをつづっているので、読みだしたのである。



【 東京の田舎者、冬の札幌を訪れる時・・♪  】
と題して、昨年の2008年12月20に投稿していた。

【・・
(略)
家内との共通の趣味は、国内旅行なので、若き現役時代の頃から、四季折々各地を訪れている。

北海道に関しては、私は高校時代の修学旅行で5月の時、
上野駅から夜行列車で青森駅に着いた後、青函連絡船に乗船し、函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

私は結婚してからは、家内と共に、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
会社の夏季休暇で利用し、夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。
札幌に宿泊し、大沼、函館の宿泊であった。

その後の道内は、晩秋に知床のウトロ、屈斜路湖の付近の川湯温泉に宿泊し、
道東地方を周遊した。
この時に、やはり北海道は冬に限る、と互いに感じたりしたのであった。


その後、東北の温泉がある地域の雪のある時節、冬の旅を2泊3日前後で幾たびも旅行をしていたが、
勤続記念で特別休暇を頂いた時、流氷と雪まつりを兼ねて、冬の北海道を初めて訪れたのであった。

2月の初旬、網走の郊外の能取岬の途中にある海岸に接したホテルに2泊し、
流氷の接岸を待ちわびたが、残念ながら遠のき、やむえず知床のウトロまで流氷を求めて行ったりした。
念願叶(かな)ってウトロの直前で、流氷の荘厳な光景が観られたのである。
そして、網走から札幌まで日中、特急で移動した後、小樽に宿泊した。

この後は札幌に2泊したが、
網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきたせいか、
札幌駅、周辺の広大さには驚いたのである。
そして、雪祭りを観たり、郊外の自衛隊の基地にイベントを観たり、市内を散策したのであった。

このことは、このサイトにも幾度も綴っているので、省略する。

その後の道内は、私の定年退職前、
日本のてっぺんで元旦を迎えよう、と称した団体観光ツアーに参加した。
年末に釧路空港に着陸した後、バスで釧路湿原を通り過ぎ、
屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊した。

蟹(カニ)食べ放題の夕食後、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆき女史が『地上の星』を唄っていた・・。

翌日、元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。

そして、市内のホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下したのである。

旅の終わりの寸前、郊外の根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の情景を観ながら、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。


この後の道内は、定年退職後となり、
5月頃に観光船に乗船し、知床岬の先端まで航路する魅力に誘われ、道内を観たり、
晩秋の頃に新潟港からフェリーで小樽港に行き、その後は晩秋の道内の情景を観るツアーに参加した。

この後は、家内の母が生きているうちに北海道を観てみたい、
と要望により私達3人は7泊8日で道北、道東を観たりしたが、
このサイトにも綴っているので省略する。


道内の冬の旅は、たった2度ばかりであるが、それなりに深い思い出として、心に残っている。

私達夫婦は、マイナス20度前後に耐えられる軽登山靴、冬ズボン、
セーター、冬用のフィールド・ジャケット、
そして私は登山用の冬帽子、家内はロシア婦人用の帽子・・このような姿で道内、東北の雪のある時節を旅行している。

今回は、札幌の『第28回 さっぽろホワイト・イルミネーション』とかを、
生まれて初めて、 観たりするので、
まさに田舎者が都心でウロウロする状況と似ているかしら、と苦笑したりしている。


私は過日、このサイトで、
【遅ればせながら、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観ることに・・♪】
と題して、12月15日で投稿している。

こうした思いは変わらないので、あえて再掲載をする。

【・・
私達夫婦は21日から4泊5日で札幌市内に宿泊するのであり、
家内の誕生日のプレゼントを要望を訊(き)いた時、
家内は動物好きであり、旭山動物園で雪の上でヨチヨチ歩きをするペンギンの群れを観たい 、
と云われたのである。

私達は北海道には四季折々訪ね、
少なくとも旭山動物園には春と秋の頃に、観たりしているが、冬季の雪のある時は未知であった。

http://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/
旭山動物園

私は家内の要望を叶える為に、ネットで色々と検索し、
家内に選定して貰ったのが、市内の格安ホテルに滞在するプランであった。
そして、このプランは1日だけ旭山動物園に往復し、3時間ばかり観ることのできるサービスがあった。

その上、家内は本格的なクリスマス用のイルミネーションの情景を観たことがないし、
私にしても、イルミネーションなどは婦女子の観るものだ、と思っていたので、
私達にとっては未知の世界であった。

そして雪の降る『さっぽろホワイト・イルミネーション』の街並みの情景も良いかしら、
と私達は話したりしたのである。

http://www.sweb.co.jp/kanko/white/

http://www.city.sapporo.jp/christmas-market/

そして私はイルミネーションのイベントが期待以下であったならば、
居酒屋で地酒を呑みながら、地魚を誉(ほめ)るのも良し、と思ったりしたのである。

或いは、秘かに20年熱愛している中島みゆき女史の歌にあるように、
『南三条』を心の中で唄いながら、散策するのも良し、と思ったりした。
・・】

このように勝手な思いを重ねたりしているが、
私達夫婦は田舎者のような容姿と心情で行くので、迷子にならなければ良し、
と東京の郊外からすれば異国のような札幌市内を浮べ、少し心配したりしている。



                             《つづく》


a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活の我が家、耐久商品と称される品は・・。

2009-11-18 21:14:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の6年生で、
齢ばかり重ねた65歳の拙(つたな)い身である。

築後32年が過ぎようとしている古びた一軒屋に住み、
百坪足らずの敷地で、小庭にある雑木の多い樹木、草花の四季折々の移ろいを眺め、
子供に恵まれなかった私達夫婦は2人だけで過ごしている。

我家は自動車を所有することなく、私の定年後の免許書の更新を見送ったので、
自動車に関しては家内はトヨペットが自動車のトヨタのメーカーのことさえ知らない。
このような状況なので、私達夫婦は昨今のガソリンの価格も知らないでいる。
その上、携帯電話に関しては使えないので保有していないので、
社会からの時流から取り残されている、と時折思いながら苦笑している・・。

家内は中学生の頃から茶事を学んでいたので、
私は一軒屋を建てた時、気負って茶室も付け足したりした。

私は民間会社の中小業に35年ばかり勤めたサラリーマンであったので、
程々の年収の中、住宅に関してのローンは重く家計を占めたのである。

このように状況であったので、
スーパー・マーケットさえも、ディスカント風の低価格店から高級店まで、
その時に応じて利用してきた。

私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした時期もあったので、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
ビデオ・DVDの映画作品は1000本前後あり、
勤めた会社がレコード会社の影響でカセット、CD、DVDも3000枚前後あり、
少し多いかな、と思ったりしている。

日常の私は、買物と散策をする以外は、殆ど読書をすることが多く、
ときには居間で映画を鑑賞したり、音楽を聴いたりしている。
そして日々感じたりしていることを心の発露として、文章に綴り、
このサイト等にほぼ毎日投稿している。

そして、ときたま庭の手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行で、四季折々各地を訪れたりしている。


我家の生計は原則として、年金を頂いた範囲で生活を営んでおり、
冠婚葬祭、思いがけない出来事、そして国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して過ごしているのである。


このような年金生活を過ごしているが、家庭の耐久商品については、
私達が結婚してまもない時、テレビ、洗濯機、冷蔵庫などは半永久商品ね、
と何かの折に家内が私に云った時、
私は驚きながら、この先のことを思うと、ため息をついたのである。

先程、夕食が終わり、家内は居間の17畳でテレビ番組をコーヒーを飲みながら視聴しているが、
10年数年前に購入した32インチのワイド型で商品である。
そして、2階の寝室の6畳には21インチを7年前頃に購入したものである。

10年数前、テレビ、ビデオテープ・レコーダーを新たに新調した時、
『貴方の満足するのに・・選んだら・・』
と家内は快諾してくれたので、この当時としては満足のいく製品であった。

家内は日頃から、電気関連の製品で耐久商品は半永久商品、と確信しているので、
洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、クーラー、ガス・ファンヒーターの買い替えの時は、
だいぶためらっている。
『日常生活に欠かせない物だから・・寿命だよ・・』
と私は笑いながら家内に云ったりして、買い換えてきた。

そして、これらの商品は、家内が常日頃使うので、私はあるメーカーを指定し、
製品選定は家内にまかせている。

音響、映像に関しては、家計のバランスを崩さない程度に、私の独断で選定してきた。

映画、ドキュメンタリーが好きな私は、BS放送、そしてWOWOWに加入し、
以前保有していたビデオテープに加え、録画した映画作品が増えて、
ビデオケース棚が2本を越えて、今は3ケースとなっている。

この間、DVDレコーダも購入し、DVDソフトも定年退職前に、
定年退職後の楽しみとして、積極的に購入した。

こうした中で一番の問題は、パソコンに関してである。
私はレコード会社の情報畑を1971年~1992年まで、ほぼ20年ばかり勤めたので、
汎用、オフィスなどのコンピュータに関しては専業であり、ある程度は詳しかったのである。
1980年代の初めの頃に、NECがパソコンを発売された折、私は興味を示して購入したのであるが、
本体のほかにプリンター、フロッピー・ディスク、漢字対応させるロムなど一式を揃えると、
この当時の私の年収の20%前後であり、あの当時はパソコン本体にしても高価な品であったのである。

この当時も住宅ローン、親戚が多少は多く何かと冠婚葬祭費の出入りが多く、
我が家の貯蓄率を低下したので、
私はこのパソコンの購入時に大いに家内に感謝したのであった。

その後のワー・プロ旋風の時は2台買い換えた後、
1998年にノート・パソコンを購入したり、
定年退職の三年前の2001年にディスクトップ・パソコンに買い換えて、
机,脇机、椅子も新調して、定年後の生活に備えたのである。
そして、家内は私の定年後のパソコン環境は、半永久商品ね、と家内に呟(つぶや)いていたのである。

しかし、定年退職後の2年後に肝要のディスクトップ・パソコンが壊れ、
やむえず買い改めたのが今使用しているパソコンなのである。

最近、OSの『ウィンドウズ 7』発売のニュースを見たりすると、
確かに進化をしているが、パソコンも洗濯機などと同様に半永久商品と思っている家内には、
私はためらい独り苦笑しているのである。


そして、薄型テレビであるが、私はここ数年に及び新聞の折込の広告を見たりしているが、
貯金を崩して、心が揺れ動いた薄型テレビの40万円前後の製品を購入することを秘かに思ったりしているが、
ソフトの中味が最優先としている私は、現在のテレビより大きな画面でも果たしてと思ったりし、
決断がつかず中々家内には切り出せないでいる。

しかしながら2010年の地上波のデジタル化の問題もあるが、
旅行先の観光ホテルのロビーとか空港の待合室などにあるプラズマ・テレビの大型画面を観て、
『XXちゃん・・最近のプラズマも綺麗になったよね・・』
と私は家内に云ったりしている。


このように年金生活を過ごしていると、
特に耐久商品と称される品の購入には、気弱になり、
私は、吾唯足知、と心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑しているのである・・。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私なりの理想の睡眠時間は・・。

2009-11-18 10:52:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、10時過ぎに布団にもぐり、いつものように本を読み、寝付いたのは12時頃と思われたが、
目覚めたのは7時半過ぎであった。

『意気を抜いて眠ったら・・この時間になってしまったょ・・』
と私はいつもの日の出の起床時間から大幅に寝坊したので、
照れ笑いをしながら、家内に云ったりしていた。

しばらくした後、私は主庭のテラスに下り立ち、
晩秋の情景になった雑木を眺め、煙草を喫ながら、ぼんやりと私の過ぎ去った日々の睡眠のことを思い返したりした・・。


東京オリンピックが開催された頃、私は映画青年の真似事をしていて、
小林正樹・監督の『人間の條件(全六部作)』は9時間半の大作であり、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に確か土曜日の夜にオールナイトで上映されたりしていた。
私は見逃した作品であったので、一週間ごとに二回ばかり観賞したので、
徹夜明けの池袋の朝、小林正樹監督の執念は凄かった、感動しながら駅に向ったりした。

その後の私は民間会社に中途入社し、あるレコード会社の情報畑に20年ぐらい職務としていた。
システムの改定に伴い、開発・運用などに携わる業務であったので、
徹夜などは少なくとも百日ぐらいはしたと思う。

会社の勤務時間は朝の9時半に始業し、夜の6時が終業となっていたが、
システムの改定後の半年過ぎれば部分改定などがあり、定例時間内で退社できたのは、
殆どなかったのである。
徹夜となれば、朝の9時半に始業時に出社し、夜を徹して、翌日の昼下がりに退社していたので、
30時間ぐらいの勤務となり、若さと気力で業務に従事できたが、
さすが40代の半(なか)ばとなった頃は、
『中年のおじさんに・・体力テストは勘弁してほしい・・』
と非常階段の踊り場で六本木の朝焼けの前の情景を眺め、
煙草を喫いながら呟(つぶや)いたりしていた。

このように新婚の特別休暇、夏季休暇、年末年始も会社の規定通りの期間に休めたことはなく、
いつも数日は欠けたが、システムの安定した間に代休が取得できた時は、
家内と小旅行をしたりしていた。

その後、経理畑、営業畑に異動した時、初めて規定の業務時間が大半となり、
ときおり夜の9時過ぎとなったりした。

そして55歳の直前に出向となり、少し遠い物流会社に勤務し、
朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜の9時以降であったので、
当然として睡眠時間は削り、日曜日の午後に昼寝をして何とか保っていた。

このような私のサラリーマンの35年を振り返ると、数多くの方と同様に多忙で合ったので、
睡眠時間を削り勤務していたことが圧倒的に多かったのである。

私の現役時代としては、朝9時半に出社し、退社が夜の7時前後で、
帰宅するのは8時前後が理想であったが、夢の中の出来事が多かったのである。


定年退職して年金生活に入った時は、夜の10時に布団にもぐり本を読みながら寝つき、
起床は日の出と共に起きだし、昼下がりのひとときに昼寝をするのが理想であるが、
5年間過ぎた今、週一度ぐらいは体験し、天上の神々からの何よりの贈り物として、甘受している。

ときおり私は睡眠に関して妄想することがある。
睡眠時間の代わりに何かの錠剤を飲めば、あたかも充分に睡眠したかの状態を考案された人は、
ノーベル賞は確実に受賞されると思ったりする。

しかし、夜のひととき、布団の中にもぐり、ほっとひと息つき、安らぎを得ながら寝付く、
そして目覚めた時、ぼんやりとぬくもりの感触を味わえるひととき、
こればかりは何事にも変えがたいのである。

尚、ナポレオンが睡眠時間は3時間であれば充分、と伝説があるが、
多くのヨーロッパはもとより周辺の人々への虚勢と思い、
私はきっと秘かに昼寝をしていた、と確信を深めたりしている。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我がパソコンの愛機『XP』 は、2014年4月8日まで使用可能と知り、何よりの朗報・・!?

2009-11-17 13:01:17 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、何気なしに読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】をみていて、
【ネット&デジタル】の『トラブル解決Q&A』に於いて、

《 XPはあと何年使える? 

  「新OS(基本ソフト)、ウィンドウズ7が発売されましたが、
  XPやビスタはいつまで使い続けられますか?」 》

こうした質問が掲載されていて、私は思わず回答を精読したのである。
テクニカルライターの原 如宏氏が回答されていて、
私のようなパソコンの若葉マークの初心者にも優しく表現されているので、
無断であるが転載させて頂く。

《・・
利用の目安となるのは、マイクロソフトのサポート期間です。
XPが2014年4月8日まで。
ビスタ ホームプレミアムは2012年4月10日までです。
ビスタはXPより“短命”なのです。


XPをいつまでも使い続けたい――。
長年XPを愛用し、操作方法に習熟した人ほど、このように願っていることでしょう。
でも、ビスタが2007年1月に登場。
ウィンドウズ7も先月発売され、XPは2世代も前のバージョンになってしまいました。

そろそろXPを使うのも限界?と考えている方も多いのではないでしょうか。
しかし、ご安心を。
XPが利用できるのは、ビスタよりも長く、ウィンドウズ7と比べても9か月しか違いがありません。


なぜ、XPは長い間利用できるのか?
これにはマイクロソフトが決めた「サポート期間」が大きく関係しています。
このサポート期間というのは、ウィンドウズにとっての“寿命”です。
マイクロソフトでは、家庭向けのエディションを最低5年間、企業向けのエディションは最低10年間サポートするとしています。


決められたサポート期間を超えてOSを使い続けると安全面に問題が出てきます。
サポート対象外になると、更新プログラムが配布されないためです。
マイクロソフトでは、更新プログラムを月1回配布しています。
主にソフトウエア上の問題点(セキュリティーホール)を修正して、外部からの攻撃を防ぐためのものです。
セキュリティーホールは、毎月のように確認され、
その度に更新プログラムがマイクロソフトから提供されています。
サポートが終了すれば、新しい問題点が見つかっても修正プログラムの配布されなくなり、
攻撃相手に対して無防備になります。
安全性が保たれないOSを使うことはできません。
他メーカーのソフトウエアからも動作対象外になります。


発売されたばかりのウィンドウズ7。
XPやビスタから今すぐ乗り換えるべきか否か。
OSとしての寿命という視点から考えてみましょう。


☆乗り換えを考えるべきは「ビスタ」ユーザー

マイクロソフトが提供するサポートには、
「メインストームサポート」「延長サポート」の二つがあります。
「メインストームサポート」は、セキュリティーを含むウィンドウズ関連の更新プログラムと、
サービスパックなど新しい機能を配布する期間です。
操作に関する無償サポートも利用できます。

これに対して「延長サポート」は、
配布するのはセキュリティー関連の更新プログラムのみ。
サポートは有償です。
延長サポートに切り替わると、OSとして進化は止まります。


XP、ビスタ、ウィンドウズ7でそれぞれのサポート期間をみてみましょう。
まず一番利用されているXPです。
2001年に発売されたXPは現在、延長サポートが提供されています。
特例でメインストームサポートの延長処置がとられたものの、
2009年4月14日にメインストームサポートを終了しました。
今後は2014年4月8日まで、セキュリティー更新のみの提供となります。

ビスタ ホームプレミアムの場合は、2012年4月10日でサポート終了です。
XPよりサポート期間が2年も短い理由は、
ビスタ ホームプレミアムが、延長サポートの対象外になっているからです。
もともと延長サポートは、企業向けエディション用のサービス。

XPの場合は特例として、家庭向けである「XP ホームエディション」に適用されているため、
サポート期間が逆転しています。

いち早く、パソコンの乗り換えを考えないといけないのは、XPユーザーよりもビスタユーザーなのです。


☆XPは“長命”、ネットやメールなら十分

では、最新のウィンドウズ7ではどうか。
家庭向けのホームプレミアムとアルティメット、ネットブック専用のスターターともに、
2015年1月13日までがサポート期間となります。
ウィンドウズ7の場合も、家庭向けエディションにはメインストームサポートのみで、
延長サポートはありません。

このためXPとのサポート期間は9か月しか変わりません。
少しでも長くウィンドウズ7を利用したい場合は、プロフェッショナル版搭載のパソコンを買うか、
購入後に「ウィンドウズ エニイタイム アップグレード」でプロフェッショナル版への変更をお勧めします。
企業向けのプロフェッショナル版なら延長サポートが対象となり、2020年1月14日まで利用できます。


このようにサポート期間でみると、XPは延長サポートが適用されたおかげで大変に優位なOSといえます。
新しい機能は追加されませんが、インターネットやメールがメーン用途なら、
基本性能の低いXPパソコンでも問題はありません。
新しいものが発売されると、ついつい目移りしてしまうものです。
まずは、現状をしっかり見定めることが大切。

大きな不満がないなら、サポート期間を迎えかるか、ハードウエアが壊れるまで使い続けてみる……
というのも選択肢の一つでしょう。


ただし、XPは、使えば使うほど動作が遅くなる傾向があります。
知らないうちにファイルがハードディスク内にたまり、動作の障害になるからです。

長くXPを使いたいなら、不要なファイルやソフトを削除したり、
デフラグ機能を使ってハードディスクを最適化することが不可欠です。
部屋の中と同じように、定期的にパソコン内を片付けることが快適さを維持するコツです。
小まめに手入れしながら、使い慣れたXPを延命する方法を考えてみてはいかがでしょうか。
(テクニカルライター・原 如宏)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/net/qanda/20091113-OYT8T00903.htm?from=navlk
【ネット&デジタル】の『トラブル解決Q&A』 《XPはあと何年使える?》 


このように『XP』を愛用されている方に当面使用し続ける方の注意点も丁重に解説されていて、
私は読み終わり、2014年4月8日まで、マイクロソフトがセキュリティー更新提供と知り、
あと4年ぐらいは愛用している『XP』が使えると、
何よりの朗報と知り、思わず微笑したのであった。


私のこうした思いの根底には、このサイトの10月22日に於いて、
【 『ウィンドウズ 7』の発売に際し、年金生活の私のパソコンの思惑は・・。】
と題して投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
(略)
今朝のNHKのニュース、読売新聞の広告などで、
マイクロソフトのパソコン用基本ソフト(OS)の新製品「ウィンドウズ7(セブン)」が本日、世界同時発売された、
と報じられていた。

《・・
セブンは、2007年1月に発売されたビスタの後継OSであり、
情報の処理速度を上げ、起動時間をビスタの40秒から29秒へ短縮したほか、
画面に触れて操作するタッチパネル機能を盛り込むなど、
使いやすさを向上させたのが特徴だ。
・・》
と読売新聞の記事にも掲載されていた。

私の現在使用しているパソコンのOSは、『ウィンドウズ XP』であり、
ネットで地元の天気情報、【読売新聞】、【日本経済新聞】の基幹ネットのニュースを見たり、
ブログのサイトに加入し、文章を綴ることを生きがいとしているので、ほぼ毎日投稿したりしている。、
そして音楽も好きなので、ときたま【YouTube】で聴いたりしている。

電子メールの活用は、月に10数通程度で、
国内旅行は私達夫婦の共通趣味であるので、ときおり出かけた時にデジカメで撮り、
これをバソコンにファイル名を付けて、ハード・ディスクに収納している。
そして、表計算のソフトを使用して、独自の家計簿なども作成している程度である。
その上、パソコンでテレビ番組を視聴することもないのである。

このような活用しかパソコンを利用していないが、
新たなる基本ソフトの『ウィンドウズ7(セブン)』は気になるので、
一昨日、プリンターのインクを購入にパソコン量販店に寄った時、
新たなる『ウィンドウズ7(セブン)』が搭載されたバソコンを観たりしたのである。

そしてCPU、メインメモリ、ハード・ディスクも増加強化されて、
ブルーレイ・デイスクも付加されている機種もあり、画面なども美麗となり、
パソコンの色合いも各色があり、思わず私は微苦笑させられたのである。


私が現在使用しているのは、『ウィンドウズ XP』が搭載された富士通のディスクトップであり、
2006(平成18)年の9月下旬に買い改めた機種である。

ディスプレイはこの当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、ドライブはスーパーマルチ等で、
この当時としてはある程度最強版となっている。

これ以前に愛用していた機種は、やはり富士通のディスクトップ(『ウィンドウズ XP』)のタワー型であった。
2001(平成13)年の秋、定年退職時が2004(平成16)年の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

この頃の時代は、液晶ディスプレイが普及し始めたであったが、
迷ったりしたが安定性を配慮し、19型のフルフラットCRTとした。
ドライブもCD-R/RWとDVD-RAM/Rの2ドライブ、そしてフロッピー・ディスクも備えたタワー型であったので、
ある程度10年前後は大丈夫かしら、と思ったりしていた。
そしてプリンターも新調し、机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

このディスクトップの自宅専用の前に使用していたのは、富士通のノートパソコン(『ウィンドウズ 98』)を使用していた。
1998(平成10)年の夏に会社と自宅で使うので購入し、それ相応に使い込んでいたが、
下取りとしてこのノートパソコンを手放した。

そして定年後の生活に備えたバソコンは、2006(平成18)9月中旬に、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、部品の交換すると10万円を超えるので、
やむ得ず新製品の購入としたのが、現行機種なのである。

この間に、インターネットの回線は、地元のケーブルテレビ会社のネットから、
NTT東日本の光ファイバーに改定して、現行となっている。


このようなパソコンに関し10年を得てきた私としては、
程ほど安定したOSの基本ソフト、CPU、メインメモリの処理時間、ある程度の記憶容量のハード・ディスク、
そしてネットの送受信の光ファイバーの回線であれば、
現状で良いかしら、と思ったりしたのである。

しかし、つたない私は、思案している。
①Webの世界はたえず進化しているので、
 この中のひとつブログの世界でも、文字情報だけの時代から写真添付の時代、
 そして動画添付の時代と進化している。
 全般のWebのネット環境で、処理負担と処理速度がどこまで要求されるか。

②肝要のOSの基本ソフトの『ウィンドウズ XP』に関して、
 ウィンドウズ社がこの先いつまでセキュリティの保障して下さる期間なのか。

③そして個人的な範囲として、私のパソコンが故障もせずに、いつまで安定しているか。
 現行の私の使用しているパソコンで、今年の6月に画面が消えてしまい、
 修理に依頼したら、液晶画面の寿命と知り、交換して頂いた体験がある。


私は①から③までひとつでも該当があった時、やむえず国内旅行費を削減して、
新たに『ウィンドウズ 7』が搭載されたパソコンに買い換える決意をしたのである。

このような決断は、1969(昭和44)年にコンピュター専門学校に一年間学び、
これを梃子にして民間会社に中途入社し、その後20年間ばかり情報畑に勤めた体験かしら、
と年金生活の私は、言い訳をしている。
・・】

このような思いで過ごしてきたので、今回『XP』のセキュリティー更新が提供される期限日を知り、
安堵したのであった。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早寝早起きしても、二度寝をすれば・・。

2009-11-17 09:25:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ10日間ぐらい深夜族なり、朝の7時半頃に目覚めることが多いのである。

私は年金生活を初めてからは日の出と共に起床をモットーにし、殆ど実行され、
夜は10時過ぎに布団にもぐり本を読みながら寝付く習性なので、
早寝早起き元気な児、と秘かに誇ったりしていたのである。

昨夜、深夜族さよなら、と心に誓い、夜の9時半に布団にもぐった後、
本を閉じたのは11時半過ぎであった。


早朝、近所の若き40代の奥様と楽しげに立ち話をした夢をみていたが、
無念ながら目覚めてしまったのである。

私はどうしてなの、とぼんやりと時計を見たら4時過ぎであり、
厚手のナイトガウンを着て、玄関の軒下に下り立ち、煙草を喫いながらぼんやりとしていた。
東京の郊外は、この時節の日の出は6時15分過ぎであるので、まだ薄暗いのである。
そしてどんよりとして曇り空のようであり、寒さも感じてきたので、
退散して、布団に再びもぐりこみ、しばらくしたら寝付いてしまったのである。

目覚めたら、7時半過ぎ、せっかく早寝をしても二度寝をすれば、
と微苦笑したりしたのである。

東京郊外の私の住む地域では、9時より雨が降りはじめ、
日中も10度ぐらいの12月中旬のような寒い日、と予測されている。

私は主庭のテラスで白梅のたわわな淡い黄色に染められた葉を眺めたり、
地上に落葉した黄色に染められた葉が
花茣蓙(はなござ)のように彩(いろど)っている情景に心を寄せたりしていると、
なぜかしら小雨が降りだしてきたのである。

少し降るのは早いじゃないの、と心に呟(つぶや)きにながら、
居間に戻り、小雨が降る主庭を眺めたりし、ひとつの風情ある情景に見惚(みと)れていたのは8時すぎであった。




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《洗濯物、外干しに脚光=乾燥機からエコ重視へ-米》、私は思わず微苦笑して・・。

2009-11-16 16:27:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
散策、買物を終えて帰宅し、ネットでニュースを見ていた時、
ひとつのニュースで思わず、微苦笑させられたりである。

時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】の配信記事で、

《 洗濯物、外干しに脚光=乾燥機からエコ重視へ-米 》

と見出しされていた。

無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
【ニューヨーク時事】
洗濯乾燥機の利用が一般的な米国で、
環境意識の高まりとともに洗濯物の外干しが見直されている。

複数の州で、一部地域に残る外干し規制を撤廃する動きが相次いでおり、
身近なエコの取り組みに道が開かれつつある。

米国では屋外の洗濯物は「景観を阻害」、「貧しさの象徴」といった意識が根強く、
目にすることはまれだ。
洗濯物が干してある地区では家屋の不動産価値が下がるとの声すらあり、
米民間団体「プロジェクト・ランドリー・リスト」によれば、外干しに罰金が科される例もある。

しかし、乾燥機が家庭の電力消費量の少なくとも6%を占めるとの試算もある中、
コロラド、ハワイ、メーン、バーモント各州が今春までに規制の緩和・撤廃法案を可決。
同団体の調査ではメリーランド、バージニアなど8州でも追随する動きがあり、
環境保護や節約を促す流れが強まっている。 

11月16日6時16分配信 時事通信
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は記事を読み終わって、アメリカと日本の文化、風習の違いかしら、
と微苦笑しながら、感じたのである。

私は農家の児として育ち、生家の洗濯物の干し場は宅地の外れの高台で、
陽当りの良い場所にあった。

私が結婚した後、実家の近くに一軒屋を建てた後、
家内は陽当りの良い小庭の一箇所に干し場と決めたのである。

家内に云わせると、乾燥機などよりも遥かに外干しの太陽の陽射しで干した方が、
殺菌はもとより干し上がった後の陽射しの匂い、感触感、肌触りが良い、と明言したりしている。

私達の新婚時代は、賃貸マンションを借用していたが、
ベランダに干し場として、やはり外干しとしていた。

外干しで一番困るのは、天気情報にない急に雨が降りだして、濡れる程度である。

そして、私が現役の55歳から出向となり、少しばかり遠方の勤務地となった時、
私は6時過ぎに家を出て、会社に向ったのである。
家内はせっかく早く起きたのだから、料理、掃除、洗濯などのサイクルを早めたのである。
冬の時節、日の出は6時半過ぎであり、暗い中をいつものように私は6時に出た。
家内は洗濯が終わり、干し場に干したらしい。

私が帰宅するのは早くて夜の9時半であったが、
夜食のひととき、家内は、
『あなたが出かけた後、洗濯物・・いつものように干したの・・
しばらくした後、見に行ったら、バリバリに凍っていたの・・』
と苦笑しながら家内は私に云った。

『エスキモーの人たちと同じだねぇ』
と私は笑いながら家内に云ったりしていた。

『明日からは、日の出が過ぎたら干すわ・・』
と家内は私に微笑みながら云った。

このような体験もあるが、東京の都心の外れで乾燥機が必要なのは、
周辺が自動車などで空気の汚れが酷いか、高齢者で洗濯物が外に干す体力のない人か、
或いは高級マンションでベランダで干すのが禁止されているぐらいと思ったりしている。

しかし、お子様が多いご家庭で梅雨の季節の洗濯物を考えたり、
独身の方で睡眠時間を削り、業務に精務する多忙な人たち、
やはり乾燥機があって、早く洗濯物を乾かすのも必要かしら、と思ったりした。

このような思いで記事を読み終わった後、思ったりしたのであるが、
ともあれアメリカの中流家庭以上の方たちは、一軒屋にある庭は日本より遥かに広く、
外干しの陽射しの中で干した方が良いのに決まっているのに、
変な価値観に囚(とら)われて、お気の毒な方たちと感じたのである。

そして、遅ればせながらアメリカ国民の一部の人たち、
お気づきになったのは、喜ばしい限りだ、と無力な年金生活の私は微笑んだりしている。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の幼年期の錦繍(きんしゅう)の想いで・・♪

2009-11-16 10:20:01 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この時節、朱紅色、黄色に染められた錦繍を迎えているが、
何かしら住宅街の昨今のありふれた樹木の情景で、何かしら物足りないのが本音である。

私はこの調布市の外れに、結婚した5年間を除き、60年ばかり住んでいることになる。
昭和19年に農家の三男坊として生を受け、
地元の小学校に入学したのは昭和26年であった。

この当時の情景は、京王腺の各駅の商店街はあったが、5分ぐらい過ぎると、
畑の状景が広がり、そして田んぼも広く、それぞれ雑木林に囲まれた広い宅地の中に家があった。

晩秋になるこの時節は、サクラ、モミジ、ドウタンツツジ、柿などが朱色に染められ、
ケヤキ、イチョウ、ウメ、コナラ、クヌギ、ユズ等が黄色の色合いとなっていた。
小学生の私は、祖父、父の交流のあった旧家の10数軒のお宅を寄ったりしたが、
殆どこのような樹木が圧倒的に多くあったのである。
私の生まれた家の庭先でも、サクラ以外はこのような情景であった。

特に私は幼心に、コナラ、クヌギの樹木の四季のうつろいが好きで、
そしてサクラよりウメが好きであるので、
親戚の叔父さんから、変わった子だよねぇ、と父に話していたのを微(かす)かに覚えている。
確か昭和27年の頃であったと思われる。

この後、昭和30年の頃になると、都心のベットタウンに変貌しはじめて、
数年後には住宅街となり、旧家の狭くなった宅地にわずか残される状景となった。

ここ10年ぐらい、私は散策したりすると、
遊歩道の小公園、少しばかり離れた都立公園などコナラ、クヌギの樹を見かけと、
私は思わず足を止めて、しばらくたたずみ眺めてたりいる・・。
そして、旅行先で偶然にめぐり逢うと、やはり足を止めて、見つめたりしている。
この後、ときおり私は調布市の外れの農家の児として育ったことは、
まぎれなく確かなことである、と微苦笑を浮かべたりすることもある。

尚、ナナカマドの朱色、そしてダテカンバの黄色に染め上げられるのは、
限りなく美しい日本の光景のひとつであるが、
無念ながら私のふるさとにはなかったのである。

私は北国を旅する時、ため息をして、これ等の樹木のうつろいを眺めたりしている。


a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

60歳前後の知人たちの死・・。

2009-11-15 15:25:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この一週間前頃から、喪中の通知の葉書が来る。
私ぐらいの齢になれば、かって現役時代のサラリーマンの時の先輩、同僚などの親である
ご尊父(そんぷ)、お母様(かあさま)が、ご高齢でお亡くなりなったことの通知が多く、
人生まっとうされて、と思いがある。


ここ数日、家内の友人であった人から、夫XXが62歳で永眠、
などの通知を私は見たりすると、しばらく呆然となる。

昨年の今頃は、ご主人が定年退職の一年前に病死されたと家内宛の通知を受け、
私たち夫婦は30数年前に我が家にご夫婦で来宅したことを思い馳せたりし、
私は悲嘆にくれたのである。

私の現役時代の50代になった頃、同僚が病死して、
お通夜に駆けつけた時、奥様はもとより成人前のお子さんを見た時、
私は思わず涙を流してしまったのである。

その後、私の定年退職の一年前には、先輩のひとりが定年退職後の二年の62歳の若さで病死され、
余りにも早すぎる死に呆然としてお通夜に向ったりした。

昨今、新聞などで平均寿命は男性は78歳、女性は85歳ぐらい、と知ったりすると、
60歳前後でお亡くなりなるのは、余りにも痛ましいのである。


私は55歳を迎える直前に出向となった時、
家内と老後の生活設計をした時に、漠然と定年退職後の10年間だけは五体満足で生かしてくれ、
その後の70歳からは余生である、と深く思ったりした。

そして、私がこの世を去る時のことを、ここ数年思ったりすることがある。

このサイトに於いても、
【 朱紅色、黄色に彩(いろど)れた錦繍の中を散策すれば・・♪ 】
と題して投稿したりしていた。

【・・
私は昼の12時過ぎに、川沿いの遊歩道を歩き、駅前に向った。
秋日和の陽射しの中、落葉樹のたわわな葉はそれぞれに朱紅色、紅色、黄色に染めはじめ、
秋の陽射しを受けて、光輝いている。
そして、枝葉から木漏れ陽を受け、路上を揺らいでいる。

遊歩道は早くも、落葉した朱紅色と黄色のたわわな葉が散り、
わずかに重なり合ったりした中、私は踏みしめながら、
こうした情景を観たりしたが、夢幻の世界にも感じられたのである。

駅前に出た後は、いつものように本屋に寄った。

新刊本コーナーで、
佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル)を見て、
購入することとした。
私はここ数年、著作者の佐野眞一氏の作品を熱愛しながら読んでいたが、
今回の作品の発刊日はうっかりして過ぎてしまったのである。

私は沖縄に関しては、このサイトに数多く綴ってきたが、
日本人のひとりとして、沖縄は誰しも避けて通れない課題と確信しているので、
私なりに深く思いの命題のひとつとなっている。

果たして、敬愛する佐野眞一氏は、どのように沖縄を表現するか、
私にとつては待ち焦がれた本の一冊である。

この後は、買いそびれた総合月刊雑誌『中央公論』である。
『世界史的転換点と日本政治』と題され、
山内昌之・東京大学教授、橋本五郎・読売新聞・特別編集委員の両氏による対談であるので、
政治に疎(うと)く少しボケた私は、いつものように専門家から謙虚に学ぶこととしているのである。

残りの一冊は、中間小説の月刊雑誌の『小説新潮』を目次を見て、
思わず購入してしまったのである。
亡き紀行作家・宮脇俊三氏が美坂哲男氏と対談が再録対談として掲載されて折、
私は未読であったので、愛読者のひとりとして購入した。


このような思いで、3冊を購入して、帰路は再び錦繍に彩られた遊歩道を歩いたのである。

道沿いに所々に木のベンチがあり、私は陽射しを受けたベンチに座り、
携帯灰皿を取り出し、煙草を喫いながら、
朱紅色、紅色、黄色に染めはじめ情景に見惚(みと)れていたのである。

しばらくすると、数ヶ月前、確かこのベンチに座り、少し感じたことが甦ってきたのである・・。

この思いは、【 いつの日にか、命(いのち)果てる時は・・。】と題して、
このサイトに9月10日に於いて掲載しているが、あえて再掲載する。

【・・
総合月刊雑誌の10月号『文藝春秋』、『中央公論』が発売日なので、
私は駅前に散策がてら川沿いの遊歩道を歩き、11時過ぎに出かけたのである。

秋晴れの中、空気も乾燥し、川風が吹いていたので、
少し汗ばむ程度で、心身心地良かったのである・・。


駅前の本屋で、2冊の総合月刊誌を見つめていた時、
特集としては、遙かに今月号も『中央公論』に、私個人としては関心が優(まさ)っていたのである。

ここ数ヶ月の特集のひとつで、
8月号は『高齢者は本当に弱者なのか』、先月の9月号は『満州国と戦後日本の光と影』、
そして今月の10月号として、『大不況時代到来』と題し、副題に『あなたは生き残れるのか』と明示してあった。

この後、季刊秋号として『文藝春秋 SPECIAL』があり、
『素晴らしき日本語の世界』と明記されていたので、心の中は小躍(こおど)りし、購入したのである。


こうして、好きに雑誌を3冊買い求めた後、
スーパーで買物をし、帰路として、再び川沿いの遊歩道を歩いた。

この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。


木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、
といった状況を願ったのである。


10年先か数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであるが、亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。

・・】


このような思いであったが、こうして 錦繍に彩られた情景を眺めると、
せめて70歳まで五体満足で生かしてくれれば、
あとは余生という思いが、改めて深めたのである。

・・】

このような心情を綴っているが、私の根底としては、
退職後の1年を過ぎた頃、作家・城山三郎氏の『無所属の時間に生きる』の随筆集を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を教訓としている。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、
肝要となろう。
・・》

私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を今後の指針として、日々過ごしている。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私なりの中島みゆき女史の『夜会』の想いで・・。

2009-11-14 21:59:22 | 定年後の思い
     序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、思わず微笑んだのである。

読売新聞の週間として、『Youmiuri Entertanment News』と特集の1ページ記事があるが、

《 円熟のステージが、
       いよいよ幕を開ける。》

と大きな文字が明記されて、この下段に、

《 中島みゆき「夜会」VOL.16 ~夜物語~ 本家・今晩屋 》

と表示されていた。

私は中島みゆき女史のファンのひとりなので、取材と文を綴られた藤井徹貫氏の記事を精読した。

無断であるが、転記させて頂く。

《・・
夜会。その試みは、1989年に始まった。
コンセプトは言葉の実験劇場。
コンサートでも、演劇でも、ミージュカルでもない舞台。

あれから20年。
それは試みの域を抜け、円熟へ。
音楽劇のようでも、オペラのようでも、シアトリカルなコンサートのようでもある。

今回で16回目となるが、
常に中島みゆき自身が構成・演出・作詞作曲・主演を務める。
「でも、いまだに演技は素人ですから、
演出の中島が主演の中島に言っております、余計な芝居をするなと(笑)。
だから、今回の台詞はすべて七五調にしました。
そうすると、台詞をしゃべるのではなく、詠うことができるから」


今年は、昨年の再演。
森鴎外の「山椒大夫」に端を発する物語。
つまり、安寿と厨子王、その悲しき姉弟の物語が原作。

「忘れるんです、私。
千秋楽が終わると、歌詞もすべて、きれいさっぱり。
だから、再演が決まり、台本や歌詞を読み直すと、
ここはもっとわかりやすいほうがいいなとか、客観的に見られます。

で、中島は今ここで原作に対して何が言いたいのかってところを、
前回より明確にお見せできる内容となっています。

逆に、初演のときは、わかりやすさを考え、
極力一番だけを歌うようにしていた歌詞も、
せっかくの再演なので、二番も三番も歌う場面が出てくると思います」

それが『本家・今晩屋』。
昨年は『元祖・今晩屋』。
本家と元祖の差を味にたとえるなら、
口に含んだ瞬間の印象と飲み込んでからの余韻の違いだろうか。
いや、百聞は一見にしかず。観ないことには・・。

「ただ、何年やっても、何回やっても、
初日が迫ると、海外逃亡したくなりますけれど(笑)」

その『今晩屋』の劇中歌を含む、ニューアルバム『DRAMA!』11月18日発売。


「突き詰めると、自分はシンガーソングライターですから、
曲を書くときはいつも、いずれは己で歌うことを前提にしています。
場面や映像の助けを借りず、ステージの上に一人立って歌えるもの以外は書けませんね。

アルバムでも、舞台や物語から独立した一曲としても聞いてもらえるように歌っています」

(略)
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。

私はこの後、今回の「夜会」VOL.16 ~夜物語~ 本家・今晩屋に伴う、
中島みゆき女史のメッセージも深く精読した。


     第一章

誰しも本、映画、音楽等で、ふとしたきっかけで、その作者にのめり込むことがあると思う。

私も音楽に於いて、ひとりのアーティストの出会いもそのような形であった。

私はあるレコード会社に勤め、この当時は情報畑に所属し、
平成元年の初め、昭和天皇が崩御された後、昭和から平成と年号の変換、
そして四月から消費税の対応で睡眠時間を削りながら奮闘していた。

1月のある日曜日、昼過ぎまで寝過してしまい、パジャマ姿でぐったりしていた。
日曜日の夕方、疲れきった私は、パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送った。
そして足早に過ぎていく、夕陽を見ていた・・。

お茶を淹れた後、カセット・テープをラジカセに何気なしかけた。
そして、何曲目から、
人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。

♪エレーン
  生きていてもいいですかと 誰も問いたい
 エレーン
  その答を誰もが知っているから 誰も問えない

【『エレーン』 作詞、作曲・中島みゆき 】

私は聴きなが感極まって、目頭が熱くなり、涙があふれ出たのである・・。


このカセットテープは、私の勤務する会社から発売され、
試聴用として頂いたのを、初めて聴いたのであった。

倉本聰(くらもと・そう)・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックである。

この映画に使用された音楽は、

金子由香利の『時は過ぎてゆく』、

五輪真弓の『恋人よ』、

中島みゆきの『エレーン』、

浜田麻里の『ハート・ライン』、

高橋真梨子の『モノローグの九月』、

北原ミレイの『石狩挽歌』、

森昌子の『越冬つばめ』

等であった。

このように各レコード会社の所属する有数な歌手を使用したので、
発売先が問題があったが、テーマ曲が金子由香利さんであり、私の勤務先の会社で決まった、
と上司から聞いている。

私は初めて中島みゆきさんを心に留めたのは、この曲からである。

中島みゆきさんは他社に所属していたが、
勤務先の関係より、中島みゆきさんの名と曲ぐらいは、制作に直接に関係のない情報畑でも、
私の務め先でアイドル歌手用に、何曲か作詞・作曲をして頂き、ヒットした中には、

♪記念にください ボタンをひとつ
青い空に捨てます

【『春なのに』 作詞、作曲・中島みゆき 】

私からみれば、感性のあるシンガーソングライタのひとり程度だった・・。

そして『時代』、『わかれのうた』、『悪女』にしても、
当然知っていたが、何事もなく私の心は通りすぎて行ったのであったが、
心の中に溶け込んできたのは、この『エレーン』をきっかけとなった。


私は今でも、人生のめぐり合わせは改めて不思議な作用だ、と思ったりしていた。

私は脚本家の倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、昭和50年1月過ぎであった。
脚本家橋本忍(はしもと・しのぶ)さんらの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、脚本家の倉本聰・作の東芝日曜劇場『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と印象が残った。
そして、この雑誌には、『テレビ事件簿』の特集があり、
倉本聰氏が『テレビドラマに思うこと』を寄稿していたので、深い心に残っていた人であった。

そして偶然に、
この『時計』が金子由香利さんの曲をテーマに選定した倉本聰氏のお陰で、
私は中島みゆきさんの歌を知り得たのである。

この後の私は、倉本聰氏のシナリオ、随筆・映画と、
そして中島みゆきさんの音楽に、熱中時代する時代が少なくとも平成5年まで続くのである・・。


     第二章


多くの方が魅了されたアーティストに対し、
初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様だった。

中島みゆきさんのデビューアルバムの『私の声が聴こえますか』から『回帰熱』までのアルバムは、
私はまたたくまに購入した。
そして、多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。

今、思い出しても、百回以上聴いた曲は、

『アザミのララバイ』
『歌をあなたに』
『時代』
『冬を待つ季節』
『忘れるものならば』
『ホームにて』
『時はながれて』
『玲子』
『おまえの家』
『世情』
『根雪』
『小石のように』
『エレーン』
『異国』
『夜曲』
『肩に降る雨』
『HALF』
『白鳥の歌が聴こえる』
『クリスマスソングを唄うように』
『ローリング』
『黄砂に吹かれて』
『群集』
『儀式(セレモニー)』

随筆集も求めて精読したが、文体は軽く、随所とらえる感覚が鋭いところがある程度だったが、
意識的に、読みやすく工夫をしている、と解釈した。
放送は、わずかしか聴いていなかったが、随筆と同様と判断した。
そして、中島みゆきさんに関しての評論本も購入して読んだりした。

こうした結果として、中島みゆきさんの生命線は、やはり作詞・作曲、そして歌につきる、と深く思いながら、
コンサートを観る機会を待ち焦(こ)がれたのである。


     第三章

コンサートまでの道のりは、遠かった・・。

この間、平成元年(1989)11月5日にアルバム『回帰熱』が発売された。
新譜商品は前日の夕方より、店頭に並べられるので、
退社後、勤務先に最も近い六本木のWAVEに駆けつけた。
残念ながら、休館日だったので、その後に渋谷の山野楽器に行ったのである。

そして新譜の発売日の特典として、購入者の一部の方に、と分厚い歌詞集を頂けたので、
私の心は少年のように舞い上がったのであった。

好感ある女性とデートした二十代の頃を思い浮かべ、
ひとりの中年の男を夢中にさせる魔力は、まぎれなく恋と同じだ、と感じた。

帰宅のなかば、心の中でスキップしているもう一人の自分に戸惑いながら、
家内の待つ自宅に急いだ。

このアルバムの中から、一枚の写真が出てきた。
アルバムのイメージを彷彿させるかのように、時代を見据えた《中島みゆき》が忽然と立ちすくんでいる、
ように感じた写真だった。

この後、定期券の革ケースにこの写真を入れて、大切に持ち歩いた。

ある日、イギリスから来日したシステムの最高責任者と打ち合わせが終わった後、
懇親会を兼ねて、寿司屋のカウンター席でこの写真を見せながら、

『マイ・ワイフ・・』
と私は平然と云ったのである・・。

もっとも後日、解ってしまい、大笑いだった。


この年の11月、業界の注目の中で、『夜会』が公演された。

公演場所は、渋谷の東急文化村のシスターコクーンに於いて、
音楽と演劇を融合した形で行なわれると発表されていたので、
業界の内外の各専門家の間にも、無視できないような空気につつまれていた。

前売りの予約は好調だと聞いたりしていた。

私は予約も取れず、キャンセル待ちをわずかな望みを託して、退社後、渋谷に行く。

文化村に近づくと、花屋から『歌姫』が流れて聴こえてきた。

♪握りこぶしの中にあるように見せた夢を
 もう2年 もう10年 忘れすてるまで

【『歌姫』作詞、作曲・中島みゆき 】


路上では、高校生らしい女の子の三人が、『黄砂に吹かれて』を大きな声で歌っていた・・。

♪黄砂に吹かれて 聴こえる歌は
 忘れたくて忘れた 失くしたくて失くした

【『黄砂に吹かれて』作詞、作曲・中島みゆき 】

この周囲の街は、中島みゆき、に染まっていた・・。


私はやはり『夜会』の人気は凄いと感じながら、
シスターコクーン等のキップ売り場の窓口で、
『この公演の最終日まで完売でして、キャンセル待ちをされても、
ダメだと思いますが・・』
と云われて、やはりね、と無念ながら公演場所を後にした。

そして、まもなく30ぐらい男と女の二人に囲まれた。
『兄さん、キップ欲しいだろう・・』
『いくら・・』
と私は、乾いた声で答えた。

私は倍額程度まで覚悟していたが、相手方は三倍を超す値段だった。
『こんな公演にしたら、安いよ。
考えている場合じゃねえょ・・
兄さんさぁ、うかうかしていると、公演が始まっちゃうよ・・』
と追い討ちをかけてきた。

私はあきらめた・・。

歩き始めると、背後から声がした。
『お買い得だょ!!』
振り向くと、若い二十代の男女のふたりが購入していた。

私は肩を落とし、『歌姫』の聴こえてくる街を抜け、渋谷の駅に向かった。

私は悔(くや)しさも隠し切れず、だけど中年は何かとお金がいるし・・家に帰って酒を呑もう、と思った。


     第四章

翌年、平成2年はコンサートのキップを手に入れる方法を模索した。
雑誌『ぴあ』等で検討した結果、ファンクラブに入会した。

確か10月頃だった、と思う。
第2回の『夜会』を申し込んだ。

抽選の結果、念願のキップを手に入れた。
そして最近は、行いが良かった、と思い、ときおり独り微笑んだのである。


公演日は。平成2年11月29日の木曜日だった。
開場は7時15分、そして開演は8時だった。
会社の業務スケジュールは、出来る限り前倒した後、午後は半休とした。

私はせっかくの機会であるので、ゆったりとした気持ちで観賞致したく、3時過ぎに文化村に着いた。
蕎麦屋に入り、ざるそばを軽食代わりとした。

そして開場した後、建物の中の一角にレストランがあり、
ボンジレーヌーボのボスターが見えたので呑んだ。
これがワインの新酒か、と思いながら、フルーティな味であり、
ちょっと失望したが、心は高揚していたのである・・。

私はときたまワインを呑む時は、辛口で深い味の方が好きであったが、
昨年の惨めさを思い浮かべ、
やはり仕事と同様に、何事も事前準備だ、
とひとり幸せをかみ締めながら、もう一杯を注文したのである。


公演は、船のデッキから始まった・・。
ステージと客の距離が近くて、最初は戸惑ったが、演出全般は予想以上だった。
それぞれの一流の方達が繰り広げる展開は、官能性もある、と思った。

曲目は、
『二隻の舟』
『彼女によろしく』
『ミルク』
『流浪の歌』
『窓ガラス』
『うそつきは好きよ』
『元気ですか』
『クレンジング クリーム』
『月の赤ん坊』
『断崖~親愛なる者へ』
『孤独の肖像』
『強がりはよせヨ』
『北の国の習い』
『ショウ・タイム』
『Maybe』
『ふたりは』

個人的には、『ふたりは』は、相当に聴き込んだ名曲であり、
『Maybe』は、大好きな曲のひとつで、働く女性の応援歌・・
初めて聴いた時、そんな思いがしたのであった。


開演前に豪華なパンフレットを購入し、帰りに記念として、『夜会』の美麗なテレフォンカードを買い求めたりしたが、
やはり中島みゆきさんの情念は凄いと感銘を受けたので、
足取りは軽く、駅に向かったのであった。


     第五章

第2回の『夜会』の観賞後、アルバムが発売されるたびに購入した。
今度のアルバムは・・この曲は・・と真摯に思考したり、模索したりした。
この中で最低限に於いて、百回以上聴き込んだ曲を羅列する。

平成元年から平成5年頃まで、45歳前後の中年男が、
中島みゆき女史に熱っぽく夢中になった時代であった。

定年退職後の今でも、ときたま聴いたりしている。
やはり『HALF』、『エレーン』は、私がひとり音楽ファンとして、
数多(あまた)の1万5千曲ばかり聴いて中でも、十本指に選定する名曲である。

そして、『回帰熱』のアルバムの後からは、百回以上聴き込んだ曲は、

『あした』
『ふたりは』
『with』
『おだやかな時代』
『Maybe』
『永久欠番』
『南三条』
『地上の星』
『ヘッドライト・テールライト』

このような思いで、私が熱中した時代は時代は終り、
平熱として、音楽のCDアルパムは発売された中で、2枚を除き保有している。

先程、音楽棚を見て、中島みゆき女史の一連のカセット、CDを眺めていたのであるが、
この中に、定年退職の数年前、音楽ソフトの販売店で、
VOL.10『夜会~『海嘯』~』(1998公演)の収録されたDVDを見かけ、
購入した作品もあった。

私はたった一回のVOL.2『夜会』を観た限りあるが、
熱愛していた20年前の頃に思いを馳せたりしたのである。


尚、私が中島みゆきさんの敬称として、女史と明示したのは、
このサイトで過日の7日に於いて、
【 『女史』という敬称の言葉は・・。】
と題してして投稿しているので、誤解のないよう再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
シンガー・ソングライターの中島みゆきさんの歌に人生のなかばで、
たびたび救われたので、このサイトでときおり女史と敬称を使用していたのである。
一部のお方から、誤解されますから、おやめになった方がよろしいですわ、
とさりげなくコメントされたことがある。

私はそうかしらと思いながら、パソコンの横に置いている辞書を見たりしたのである。
愛用している久松潜一氏が監修された『新潮国語辞典 ~現代語・古語』(新潮社、発行・昭和40年11月)に於いては、

①昔、シナで、記録をつかさどった女官。
②昔、文書をつかさどった女官。
③知名の婦人・女流芸術家に対する敬称。

このように明記されていたのである。


この後、私は最新の辞書はと思いながら、ネットで調べたら、
【kotobank デジタル大辞泉】に於いては、

《昔、中国で、記録の事務を扱った女官の称から》
1 社会的地位や名声のある女性を敬意を込めていう語。また、その女性の名前に添えて敬意を表す語。
2 昔、文書の事務を扱った女官。

出典:小学館  監修:松村明

このように明示されたので私は微笑んだのである。


私はもとより女性の中で、特に私が深く感銘を受けた社会的地位や名声のある女性に対し、敬愛をこめて、
女史という敬称を使用している。

たとえば、中島みゆき氏では、何かしら固苦しく、他人行儀のようであるし、
中島みゆきさんでは、敬愛していても何かしらおかしく、
まして私より齢下のお方であるので、中島みゆきちゃん・・馴れ馴れしく失礼であるし、
中島みゆき、などと呼び捨てにするのは論外と思ってきたのである。
止む得ず、中島みゆき様と照れ隠しのように綴ったりする時ある。

このような思いで、中島みゆき女史、私の心からしてびつたりと確信したのである。


昨今の一部に於き、気性の勝った女性をからかい気味に言う時にも用いられる、
と何かの本で読んだことがあるが、
こうした解釈をされる方は、特に平成の初めの頃から社会が劣化した風潮の中で、
薄まった文化しか学んだことのない人である。

ときおり私は女史という敬称をしている人は、中島みゆき(なかじま・みゆき)女史の他に、
思い続けるままに明記すると、
作家の塩野七生(しおの・ななみ)女史、評論家の櫻井よし子(さくらい・よしこ)女史、
随筆家の呉善花(お・そんふぁ)女史・・私はこの世を去るまで敬愛する人である。

そして、ここ5年前頃から作家の対談の名手である阿川佐和子(あがわ・さわこ)さんも、
女史と敬称するか迷ったりしている。
・・】

このような敬愛しているからである。


           エピローグ

中島みゆき女史のファンクラブに入会して間もない頃、
会員として特典として、抽選の結果、頂いたキー・ホルダーが気に入った。
《miss M》と朱色に書かれていて、程ほどの重さがあり、身に付けた。

この後、会社で台湾旅行に行った時、旅行バックにアクセントとして付けた。
帰路の台北で出国手続きが終わった後、このキー・ホルダーが無くなっていたのであった。
台湾の中島みゆき女史の熱烈なファンの方が盗ったのか、
或いは珍しいキー・ホルダーであったので、これとばかり盗ったかは、いまだ不明なのである。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする