夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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真摯に、ときには楽しく投稿

『あさが来た』のモデルの広岡浅子さんの実像を学び、やがて老ボーイの私でも微苦笑重ねて・・。

2016-02-21 16:29:14 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

我が家の家内は、昨年よりNHK連続テレビ小説『あさが来た』を視聴しているが、
私はテレビの連続番組、新聞の連続小説は何かと苦手で、
関心した場合は、後日に単行本になったシナリオ、小説を買い求めるひとりである。

こうした中で、家内が『あさが来た』を視聴している時、
私は近くで新聞を読んだり、ネットのニュース記事を読んだりすることが多いが、
この『あさが来た』の主題歌を毎回聴こえ、若き女性の唄声に魅せられ、やがて『365日の紙飛行機』の歌と知ったりした。

やがて私は独りで散策していると、♪人生は紙飛行機・・と心の中で唄いながら、やがて人影がないを確認した後、
かぼそい声で唄ったりした・・。

そして、つたない半生を歩んできた私は、この歌詞、人生を的確に巧く表現された、
と微苦笑を重ねたりした。

或いは家内がときおり、私に「びっくりぽん」と言ったりしてきた・・。
こうした影響か、何かと単細胞の私は、「びっくりぽん」と新用語を覚え、
昨今は、私でも「びっくりぽん」と呟(つぶや)く時もある。
            

本日の昼下がり、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を開き、
こうした中で、【 『あさが来た』広岡浅子、本当にこんなスゴい実業家だったの? 】と見出しを見たりした。

私は『あさが来た』の女主人公のモデルは、漠然としながらも広岡浅子さんと知っていたが、
詳細な足跡は無知だったので、好奇心に負けて、クリックして、 精読してしまった・・。

この記事の原文は、『週刊現代』2016年2月20日号に掲載されて、
【現代ビジネス 】に2月21日配信された記事のひとつであり、無断ながら大半を転載させて頂く。
          
《・・それにしても、あさの活躍はすさまじい。
幕末に大名から貸金を取り立てて嫁ぎ先の加野屋を救い、炭鉱経営に乗り出し、ついに銀行に生まれ変わらせた。
そのモデルである広岡浅子という人物は、本当にこんな凄腕の女経営者だったのだろうか?
ドラマを見ていると、あらためてそんな疑問が沸いてくる。

実情は、どうやらドラマ以上であったらしい。
広岡浅子の訃報を伝える『婦女新聞』大正8年1月24日の記事では、こんなことが書いてある。

〈尾張屋銀行の峯島喜代子刀自と、神戸の鈴木商店主米子刀自と、広岡女史とは、一時女富豪の三幅対と称せられたものであるが、
前二人は共に最初より良い番頭を得て事に任じ、自ら陣頭に立たなかった。
ひとり広岡女史に至っては、経営上の計画も自ら立案し、指揮官にして同時に闘将であった〉

いやはや、訃報で「闘将」と書かれるとは、そのすさまじさが窺える。
その一方、〈家運挽回に奮闘した歴史は、永久に我が婦人界に語り伝えられるだろう〉とも絶賛されていた。

訃報記事の書かれた大正8年に、加島銀行は1億4000万円の預金を有したという。
浅子は一から「メガバンク」を立ち上げたのだ。
            

ドラマの中で、あさは大番頭だった雁助と延々と「銀行にする」「しない」で議論を繰り返した。
読者には両替商と銀行はそんなに違うのか、と思った人もいたのではないか。

同作で時代考証をつとめる大阪大学名誉教授の宮本又郎氏が解説する。
「江戸期の両替商と近代の銀行は、運用資金の源泉に大きな違いがあります。
両替商の運用資金の中心は自己資本であり、銀行の運用資金の中心は預金です。

一般的に言えば、両替商は質屋などのように自分のお金を貸し付ける『金貸し』的色彩が強く、
運用先も御出入りの大名などへの貸し付けが主でした。

一方、顧客のお金を預金として集めて第三者に貸し出す銀行は『金融仲介業者』であって、
運用時には貸し付け相手を見る審査能力も問われます。
洋式帳簿も早くから導入されていましたし、銀行業務に習熟した人材を確保できるかも、初期の銀行の大きな問題だったでしょう」

確かに、あさが今まで手代だった従業員に業務を教え、
加野銀行となった店頭で「お客様にアタマを下げて!」と叱咤する場面が出てくる。
一般庶民からお金を預かる立場になったということを表しているのだろう。
            

☆自著に書いた「夫への不満」

史実ではどうだったのかを知りたいという点では、あさの夫婦関係も気になる。

あさの夫・新次郎(玉木宏)は、あさの姉・はつ(宮崎あおい)の琴を探し出してきたり、
官有物払い下げ事件で汚職疑惑に見舞われた五代の窮地を救ったりと、
遊び人のボンボンながら、陰に回ってあさをサポートする。

全国を飛び回るあさの代わりに、一人娘の面倒まで見ているのだ。
「あささんと新次郎さんのような夫婦関係は、いまどきの視聴者、特に女性には大変に支持されるでしょうね」
というのは夫婦問題研究家の岡野あつこ氏だ。

「かつての日本では、男性が働いて家に給金を入れることが美徳とされてきました。
ですが、大半の女性がいったん社会に出て働いた経験を持つ現在では、その役割分担は絶対的ではありません。
場合によっては自分が外で働き、夫に癒やしてもらいたい、という女性は意外と多いのです。

あささんは大変に忙しいけれども、仕事上のいやなことやストレスを、みんな新次郎さんが包んでくれる。
今の女性にとっては、理想のような男性かもしれません。
明治の時代には先駆的すぎて、彼の価値がわかったかどうかは疑問ですが」

たしかに広岡浅子の自著を読むと、夫・信五郎に対する評価はさほど高いようには思えない。
〈嫁してみれば、富豪の常として主人は、少しも自家の業務には関与せず、
万事支配人任せで、自らは日毎、謡曲、茶の湯等の遊興にふけっているという有様〉

〈私には他人と違って甘えた経験が更にありません。
父も母も、夫までも、私が甘えるどころか、皆私を頼りとしておったのであります〉
(広岡浅子著『一週一信』)と憤慨の面持ちで綴っている。


前出の宮本氏も、
「広岡浅子の夫の信五郎氏は〈大家育ちの坊様風で、至極穏当な方〉
〈至極温和な性質で、浅子とは正反対の人物〉と評されています。
どうやら、おおむねドラマで描かれているような夫婦だったようです」と苦笑する。

信五郎は、浅子が勉学に励むと、一緒に席について学び、
時にからかい半分で妻・浅子のことを「先生」と呼んでいたという。
            

☆本物はもっと剛情だった

また、明治9(1876)年、27歳で浅子は一人娘の亀子を出産。
ところがそれからほどなく、浅子は義弟の加島屋9代目・正秋(ドラマの榮三郎)とともに、
東京での商談に出かけていってしまう。

この時には、信五郎が幼い亀子と共に、留守を預かっていたという書状が残っている。
〈女史は有名なる剛情の人であった。一たび言い出した以上は、誰がなんと言っても貫かないでは止まなんだ。
この剛情は時に癇癪となって破裂し、時に幼児の駄々を捏ねるが如く傍人を困らせた〉

(前出・『婦女新聞』広岡浅子訃報より)というから、
信五郎は癇癪を破裂させる浅子をなだめ、時には逃げ回っていたのかもしれない。

ドラマの中では、円満な家庭を築く二人だが、史実では、信五郎は浅子が出水三井家から連れてきた腰元のむめを側室とし、
4人の子供をもうけた。

そのむめも、難産に懲りた浅子が進んで信五郎の側室に推薦したといわれており、
どうやら広岡家の実権は、本当に浅子に握られていたようだ。

では、信五郎はただのお飾りだったのかというと、必ずしもそうでもないらしい。
            

明治22(1889)年、信五郎は、尼崎紡績(のちのユニチカ)の初代社長に就任する。
「江戸時代の尼崎は、綿花の産地でした。
ですが、文明開化により海外の綿花が流入し、手工業では立ち行かなくなっていた。

そこで紡績工場を設立しようと考えたのですが、尼崎の人間だけでは資金力が不足していたため、
大阪財界の協力を取り付けようということになったのです。
その発起人に連なったのが、広岡信五郎氏と彼の謡仲間でした」(尼崎市立地域研究史料館・辻川敦館長)

また、信五郎は同じ謡仲間と日本綿花(現在の総合商社・双日)の発起人にも名を連ねた。
「広岡信五郎氏は、年を重ねるにつれ、大阪財界の大物になっていきます。

日本綿花の設立発起人は、銀行家、官僚など多士済々ですが、この人脈は信五郎氏が築き上げたもの。
温和な調整役だった彼は、加島屋の発展に大きく寄与し、浅子さんと共に家業発展に尽力しました。
いわば広岡夫妻は、現在の共稼ぎ夫婦の元祖だったのではないでしょうか」(双日広報部・小林正幸氏)

浅子は自著などでぶつぶつと不満を漏らしているが、実際の夫婦仲は、非常によかったともいわれている。

実際、浅子は、明治37(1904)年に信五郎が死去すると、一切の事業から手を引くのである。
彼女にとって事業は、信五郎とともに守ってきた「家のなりわい」だったのだろう。

信五郎の理解を得て、加島屋の身代を守ってきた浅子が晩年に打ち込んだのが、
女子教育、そして日本女子大学の設立だった。

ドラマでは「成澤泉」として登場する、日本女子大学創設者・成瀬仁蔵の著作を読み、
浅子は私財を擲って、成瀬の理想実現を助けた。
            

☆終盤の見所は女子大設立

浅子がそこまで共感した成瀬の理念とは、何だったのか。
同大学OGで子どもの問題などを専門とするジャーナリスト・猪熊弘子氏(東京都市大学客員准教授)が語る。

「在学中、創立者の成瀬先生の三綱領は、ことあるごとに言われました。
『信念徹底』『自発創生』『共同奉仕』で、わかりやすく言うと
〝これと決めた道はあきらめずに突き進む〟〝オリジナリティを大切にしていく〟〝自分のことだけでなく社会のために尽くす〟です。

これは、まさにドラマの中で、あさがやっていることですよね。
これらを4年間で叩き込まれるので、日本女子大の卒業生は、自分の意見を前面に押し出す、あさ的な人が多い。
女性社長の輩出数も女子大でトップ(全大学中5位)です。
実は私も、先日朝ドラを見ていたら、小学生の息子に『あさっていう人、ママを見ているみたい』と言われてしまいました」

成瀬仁蔵は、教育者として「女性をまず人として教育する」という理念を持っていた。
明治時代、女性は一人の人間としてより、前に女性として教育すべしという風潮だったから、
男女を超越した一個人としての女性教育を掲げた成瀬の著作に、広岡浅子が感動したのも無理はないのだろう。
            

浅子は5000円(現在の2000万円弱)をポンと出し、広岡家だけでなく実家の三井家をも動かして女子大設立に奔走した。

「広岡浅子という名前は記憶していませんでしたが、ドラマが始まってすぐ、
夏期の特別授業が行われる『三泉寮』を思い出しました。

軽井沢にある大学の寮で、全学生がここでの授業を取らないと卒業できません。
『ここは三井様のお力で建てられたのですよ』と先生に繰り返し教わっていたので、
ドラマを見ながら、私たちも浅子の恩恵を受けていたんだなぁと懐かしく思い出しました」(前出・猪熊氏)

一人娘・亀子に子爵家から婿養子を取って、後を継がせた浅子。
だが、その後の昭和恐慌で、加島銀行は倒産、広岡家は実業の世界から退場していく。

ドラマが話題になるまで、広岡浅子の名は歴史に埋もれていたが、
今も日本女子大では、浅子の遺志を継いだ女子大生たちが、人生を謳歌しているのだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は広岡浅子さんのまさに息をのむような波乱万丈の人生航路を学び、平坦な人生を歩んできた私は、
ただ恐れ入りました、と微苦笑を重ねながら、多々教示されたりした。

そして都心にある目白台を散策し、日本女子大の前を通りすぎる時は、
少なくとも歴史に埋もれてしまった広岡浅子さんに敬意し、襟を正して歩こう、と思ったりしている。

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