夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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医療経済学の大局的な見地から、生活習慣病対策で「総医療費が減る」は嘘、高齢者の私は学び、多々教示され・・。

2019-05-20 16:31:56 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している公式サイトの【 プレジデントオンライン】を見ている中、
『 生活習慣病対策で「総医療費が減る」は嘘 』
題された見出しを見たりした。

私は年金生活の74歳の身であり、少子高齢化の日本に於いて、
特に社会保障費の中で、医療・介護費が膨大になり、無力な高齢者の私でも、
憂いたりしている。

そして解決策のひとつとして、健康寿命と平均寿命の間の悩ましい介護期間を圧縮を目指して、
多くの高齢者は、健康寿命=平均寿命を念願して、殆どの高齢者は自助努力している、
このようなことを私は幾たびも、このブログ上でも投稿してきた。

そして終末期医療の延命治療は、人としての尊厳もあり、私は辞退するひとりであるが、
今回の《・・生活習慣病対策で「総医療費が減る」は嘘・・》・・
どのようなことですか、と思いながら記事を精読した。

この記事は、厚生労働省で政策統括官、年金局長、雇用均等・児童家庭局長を歴任され、
内閣官房内閣審議官として「社会保障・税一体改革」を取りまとめた香取照幸(かとり・てるゆき)の寄稿文であり、
現在は駐アゼルバイジャン共和国大使をされている御方である。

そして私は記事を読み終わった後、医療経済学の見地から、冷静に日本の実態を大局的に明確にされ、
私のような専門知識に欠けた短絡的な論調でなく、私は多々学び、賢人の御方と思い深めたりした。

            

この記事は、公式サイトの【 プレジデントオンライン】に2019年5月19日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。

《・・生活習慣病対策で「総医療費が減る」は嘘

健康寿命が伸びれば、平均寿命も伸びる

「予防をすれば、国は医療費を抑制でき、
民間には新しいビジネスチャンスが生まれ、個人は健康でいられる」――最近こんな言説が出回っています。

 
本当なら、こんないい話はありません。
予防で医療費は減らせるのか?  
データと医療政策の歴史に基づいて検証してみましょう。

 
「高齢化(高齢者の増加)」とは、一人一人の「寿命の伸長」の結果です。
高齢社会で医療介護費が増大するのは、
寿命が伸びれば、生涯医療介護費(正確には医療介護ニーズ)は増大するからです。

要医療(入院)・要介護者の割合は、加齢とともに加速度的に上昇し、
85歳を過ぎれば半数の人が、要医療・要介護になります。

「高齢者の高齢化」が進めば、高齢者の数以上に費用も増大していきます。
平均寿命が男女共80歳を超える日本では、
男性の25%、女性の50%が90歳を超えて生きます。

寿命が伸びれば、この比率はさらに高くなりますから、医療介護費は増大していくことになるのです。

            
 
日本人の平均寿命がこれほど伸長した要因は、
経済成長による生活水準・衛生水準の向上、そして医療サービスの普及とイノベーションです。

皆保険で、すべての国民が医療を受けられるようになった。
治せなかった病気が、治せるようになった。
諦めていた患者の命が、長らえるようになった。

医療にくわえて公衆衛生・栄養水準を充実させ、
国民に適切なサービスを提供してきたからこそ、寿命が伸びて高齢社会が実現できた、
という歴史の事実を忘れてはいけません。

 
先進国にふさわしい医療・介護サービスを行う限り、
長寿化=医療介護ニーズの増大に応じて、医療介護費は増大していきます。

これはいい悪いの問題ではなく、事実として議論の前提におくべき話です。

 
「予防で医療費・介護費を減らそう」、「健康寿命を伸ばして、医療費を減らそう」
という議論は、これまでも何度もありました。
要するに「ニーズを減らして、医療費を減らそう」という発想です。

 
しかし残念ながら、医療経済学の世界では
「予防で医療費が減らせることはない」というのが共通の知見であり、常識です。

「健康寿命が伸びれば、医療にかかる人が減って、医療費が減るはず」と思うかもしれませんが、
健康寿命と平均寿命は、パラレルに伸長しています。

「健康寿命を伸ばす」とは「老化のスピードを遅らせる(今の80歳は昔の65歳)」ということなので、
長期で見れば「健康寿命の伸長→生涯医療費の削減」というわけにはいきません。

たとえば禁煙対策。
多くの医療経済・公衆衛生研究では、禁煙は短期的には医療費を下げますが、
長期的には余命延長により、生涯医療費を増加させることが確認されています。

 
生活習慣病対策も同じです。
「健康は個人の責任であり、個人の努力で医療費を減らすべき」という主張がありますが、
これは、多くの生活習慣病には、社会環境など多くの外的要因が複雑に関係している、
という医学的知見を無視ないし軽視した暴論です。

 
実際、短期的には成功しても、長期的に医療費を減らすことに成功した予防医療の例は
世界を見渡しても見当たりません。

大半の予防医療は、長期的にはむしろ医療費や介護費を増大させる可能性のほうが高く、
予防医療に投入されるコストを考えれば、トータルの社会的費用は確実に増大します。

            

■終末期医療をコストで語るな


特に看過できないのは、最近の終末期医療の議論です。
「余命いくばくもない患者に、無駄に医療が提供されている」、
「死ぬ前の数日で、膨大な医療費を使った」などと個別事例を引き合いに出した議論があります。

しかし、終末期の定義や、そこで提供されている緩和医療・ホスピスのような医療の意味を理解して
議論しているのか、かなり怪しいですし、

そもそも「すべての死亡前1カ月」の医療費を総計しても、医療費全体の3%にしかすぎません。

 
終末期医療の問題は、生命観・倫理観に関わる難問です。
医療費抑制というコストのために、人の命を秤にかけるような議論をするのは危険です。

この議論の行き着く先に何があるか、
80年前のドイツで現実に起こった凄惨な歴史を想起してほしいと思います。

 
当たり前の話ですが、人間、最後は死にます。
これだけ医療の進歩したこの国では、事故で即死でもしない限り
死ぬ前には必ず一定の、それも決して短くない「要医療・要介護期間」があります。

21世紀を前に、私たちが介護保険を作った理由は、
高齢社会の介護が「看取りの介護」から「生活を支える介護」、「誰もが直面する介護」になったからです。

ピンピンコロリは、個人にとっては理想でしょうが、
個別のエピソードと政策立案の基礎となるマクロの社会的事実は、大いに異なるのです。

 
そもそも予防や健康寿命の伸長とは、一人一人のQOL向上のための施策です。
文字通りプライスレスな価値を創造する取り組み、コストをかけてでも、推進すべき施策なのであって、
目先の医療費削減や健康サービスの産業化で、議論するのは大きな心得違いです。

 
長寿社会の医療介護費対策には、発想の転換が必要です。
「抑制」、「削減」は、無理でも「最適化」することはできます。

ニーズを抑えるのではなく、供給サイドの改革をする、限られた人的・物的資源で
医療介護ニーズの変化に対応していく「提供体制改革」です。

            

■医療・介護提供体制の「選択と集中」を


働き方改革論議で、医師や看護師の過重労働が、問題になっています。

誤解を恐れずに言えば、今の日本の医療介護提供体制は、
「戦力の逐次投入」と「有限資源の薄まき」、そして「ミスマッチ」状態です。

現場の医療・介護従事者があれだけ働いているのに、
全体としては効率的なサービス提供が実現できていない。

このままでは増大する医療介護ニーズを支えることは難しい。
限りある人的・物的資源の効率的利用という観点から、思い切った「選択と集中」が必要です。

 
具体的には、疾病構造・患者像の変化に合わせた病院機能分化の徹底。
急性期病院では、資源の集中投入で早期治療・入院期間短縮を目指し、
退院後は地域医療・在宅介護で支える。

治療から生活支援へ、施設から在宅へ、医療から介護へ、
病院・施設から地域・在宅へと医療介護全体の人的・物的資源を大きくシフトし、
「地域完結-ネットワーク型」の提供体制を構築する。

 
人的資源の効率活用も欠かせません。
専門職の機能分担を見直して、専門職は専門職にしかできないことに集中してもらう。

というのも、労働人口が減る中で、患者の増加に比例して
医師や看護師などの専門職の数を増やすことは、不可能なのですから。

            
 
医療・介護提供体制改革に取り組むのは、とても地味でしんどい作業です。
政治家にとっても「不人気で有権者にウケない、地味すぎる政策」に違いありません。

そんな中で、自称「改革者」たちが唱える「予防で医療費は減らせる」、
「取り組みが進まないのは、既得権益やしがらみを持つ者が抵抗するから」という主張は、
心地よく響くことでしょう。

 
しかし実際には、予防で医療費抑制などはできず、真の改革の機会は失われ、
総医療費は、かえって増大します。

十分な給付ができなくなり、「医療格差」が生まれ、制度への信頼・社会の統合が失われる・・。
過去の経験は、その可能性を示唆しています。

 
政策とは、客観的事実と大局を見て組み立てるものであり、
制度を担う者が負っているのは「しがらみ」ではなく「責任」、それも「結果責任」です。

その重みを理解しないものが、無責任な言説を展開して、物事がうまくいったためしはないのです。

 
霞が関の政策担当者は、結果に責任を負っています。
ぜひ、専門集団としての矜持と自覚、そして使命感をもって事に当たってほしいと思います。

 
※本稿は個人的見解を示したものであり、外務省ともアゼルバイジャン大使館とも一切関係ありません。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

            


何かと単細胞の私は、ここ数年、私が意識的に深めていることは、日本は長寿国であり、
介護などの必要がなく、 日常生活を支障なく過ごせる期間を示す「健康寿命」をみると、
男性が72.14歳、女性が74.79歳(厚生労働省、2016年の推計値)で、
平均寿命とは男性で8.84年、女性は12.35年の差が実態となっていることである。

こうした中で、約10年もの間、何らかの介護支援が必要となる、
と改めて教示されて、動顛をしたり、溜息を重ねたりしてきた・・。

そして
一般的に筋力や体力(身体活動量)は20歳代がピークで、
30歳以降は10年で5~10%ずつ低下していく。

20歳代を基準として、体力が30%以下に落ちると、
自立した生活ができなくなり、要介護や寝たきり状態になる。
つまり、ここが「寝たきり危険(要介護)ライン」。

そして信州大学大学院特任教授の能勢博医師に寄れば
「日常的に運動をしている人としない人では、 この30%ラインを超える年齢に15~20年もの開きがある」
と学んだりしてきた・・。

こうした中で、健康寿命を延ばす方法の一つであるウォーキングだが、
実際、歩くことと健康寿命の関係を示した研究結果が実証された、と読んだりしてきた。

                       

私は2016年の10月頃、 ウォーキングに関する研究を進める青柳幸利さん(東京都健康長寿医療センター研究所)の論調で、
一日1万歩という指標は「逆に寿命を縮める危険性がある」、と学んだりしてきた。

そして、高齢者としては、1日の歩数の一つの目安を「8千歩」と設定し、推奨している。
「5千人を対象に15年間にわたって行った調査結果から明らかになりました。
意識的に時間を設けて歩くのも必要ですが、例えば家事や買い物などで歩いた分もカウントして構わない。

むしろ、一日の中で分散して歩くほうが<健康には良いのです」(同)

“歩けば歩くほど良い”という思い込みについて、
「実は運動のしすぎは、健康効果がないどころか、免疫の低下につながることもあります。・・》

 このようなことを学び、私は結果的には5000歩の日、10000歩の日・・ 8000歩の日・・
きまぐれで歩いているが、四季折々の情景に心によせて歩いたりしている。

いずれにしても高齢者の私としては、座っているばかりだと、 身体に悪く、
室内はこまめに歩き、外出先は心身溌溂と歩き、年金生活を過ごしている。

            

いずれにしても、それぞれ多くの御方が自助努力をされ、
何とか人に頼よる介護・要の期間をできる限りないように願い、
平均寿命=健康寿命を目標に、日々を過ごされている御方が多いと思われる。

その上、高齢者自身の意欲と医療の更なる向上で、平均寿命が数年伸びる中、
多くの御方が心身溌溂とした晩年期を願い、私自身も念願したりしている。

このようなことを思い重ねてきたが、今回、香取照幸(かとり・てるゆき)さんの医療経済学の見地から、
冷静に日本の実態を大局的に明確にされ、 私のような専門知識に欠けた短絡的な論調でなく、私は多々学び、
やはり専門分野を歴任され、明確な論調に賢人の御方と思い深めたりした。


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