リタイアした「から」、あれがやりたい。これもやりたい。

人生のセカンドステージに、もう一度夢を描き直す。
「夢翔庵」の気ままなひとり言です。

おほてらの

2022年01月21日 | 懐かしむ

正月の間、玄関口にこの色紙額を懸けて出入りの折々にながめていました。
秋艸同人會津八一が唐招提寺で詠んだとされる(文末に注)有名な句です。

おほてらのまろきはしらのつきかけを
つちにふみつつ ものをこそおもへ
(大寺の丸き柱の月影を 土に踏みつつ ものをこそ思へ)

たまたま色紙の裏にメモを付けていたのですが、1978(昭和53)年4月に友人とその友達2人と4人で東京からレンタカーで長駆京都奈良を訪れた折、日吉館のすぐ前の永野鹿鳴荘で求めたものでした。製作(印刷)は大塚巧藝社です。

別の記録によると東名高速を夜中走って、石山寺や円通寺、花の寺勝持寺、奈良の当麻寺などを巡った全部で4泊5日(実質2泊)のドライブ旅行でした。

長い間本棚に仕舞いっぱなしだったのですが、数年前に額縁を新調してときどき飾るようにしました。ほとんど忘れていた若い頃の旅を思い出すとともに、エンタシスともいわれる唐招提寺金堂の中太の柱の感触や薬師寺から唐招提寺へ向かう小径のようす(あくまで当時の)が脳裡にはっきりと浮かんできて、あの時この色紙を買っておいて良かったと思っています。土産物の効用というのを実感しました。

ちなみにこの旅の帰りは伊勢松坂からのフジフェリーでした(夜行の航路でしたが、今はもうありません)。

(注)『鹿鳴集』ではこの歌に「唐招提寺にて」と詞書が付いているのでそれでよいのですが、後年『渾齋隨筆』としてまとめられ入手した會津八一の本(だいぶん傷んでしまいましたが)のなかに「唐招提寺の圓柱」と題した文章があり、もろもろの経緯が書かれているのを見つけ、面白く思いましたのでこのブログには少し長いですが転記しておきます。
(以下の文章はネットからの転載なので、旧字体など変換ミスや文字化けもあるかもしれませんが、悪しからず。)

唐招提寺の圓柱
                       会津八一

   おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみつつ もの を こそ おもへ

 これは『鹿鳴集』では「唐招提寺にて」と詞書を附けておいた。自分としても割合に好きな方であり、福島県の天野秀延君が、伊太利風の作曲をしてくれた三首の中にもはひつて居るし、いくらかの好みを寄せる人は、はかにも折々見かけることがある。中にもむかし唐招提寺に住んで居た或る若い坊さんなどは、一應この歌を褒めてくれた後、いつもきまって御寺の景観の自慢になったものだ。「御歌もよろしいのでせうが、私(うち)の寺で詠まれたものが、ことにづぬけて結構におもはれます。」つまり御寺の良さに曳き上げて貰った歌だと云ふことにもなる。
 ところが先夜、ある劇場の廊下で、ひさびさに、一人の青年美術家に出合った。今は舞臺いて行って、初めて奈良を見た人である。私が帰りがけに、「のこり なく てら ゆきめぐれ かぜ ふきて ふるき みやこ は さむく ありとも」といふ歌を詠んで興へて居るのは、この人である。廊下の立噺で、この人の云ふところによると、この「圓き桂」といふ歌は、決して唐招提寺ではなく、実は法隆寺であった。あの日は、法隆寺で暮して、いつしか月は、西院(さいいん)伽藍の中庭の、高い松の枝にさしのぼって回廊の圓い柱の影が、斜めに土間に布いてゐた。それを先生は、櫺子(れんじ)格子の間から覗き込みながら、低い聲ではあったが、明瞭に、「おほてらの……まろき……はしら‥‥‥まろきはしら‥…」と幾度もつぶやいて居られた。と、その人は云ふ。
 これを聞いて、びっくりしたが、云はれて見ると、だんだん思ひ出される。なるほどそんなこともあったかもしれぬ。その晩は西院に日が暮れて、それから、あの砂つぽい路を、東大門へ来ると、扉はもう閉ぢて居て、わきの潜り戸を押し開けて通り抜けた。すると、鐡の長い鎖に着いてあるらしい重い錘の力で、忽ち私たちの後ろに閉ぢたその潜り戸の、けたたましいといふか、何といふか、あの深い寂寞を一時に破る大きな物音、そしてそれにつづく再び深い静けさ、いろいろと思ひ出される。それから私たちは、夢殿の前でバスに乗って、奈良へ帰る途中に、またもや下りて、唐招提寺へ立ち寄ったのであった。
 バスを下りて、唐招捷寺の東門から進む頃には、夜はかなり深く暮れて、月はこの寺の木立を高く離れて居た。たしか二人の若い律僧も出て来られて、四人で金堂の石垣の上で、話したり、庭へ下りて、あの粒の太い敷き砂の上を、何といふこともなく歩いたりして、それからまたバスで、奈良の宿へ帰り着いたのは、だいぶ遅かった。そして、あの金堂の有名な、ふき放しの列柱の、力強い短い影を、石畳の上に践みながら、「つちに ふみつつ ものを こそ おもへ」と詠み据ゑたのは、たしかに此の時であった。それは私によく思ひ出される。
 だから、あの歌が出来たのは、全然唐招提寺であったと云ふには、いくらかの條件がつくにしても、全然法隆寺だとしてしまふことは、尚さら無理であらう。つまり同じ一と晩のうちに、同じ月の下で、法隆寺で萌ざした感興ではあつても、唐招提寺に至って、始めてそれが高調し、渾熟して、一首の歌として纏め上げられたのである。してみれば、この細かいみちゆきはともかくも、やはり唐招提寺の歌としなければなるまい。これが寫眞などであれば、話は少し違って来るのであらう。長い旅行の後に、数多いフィルムの整理を間違へるといふことは、無いことではない。そしてそれは、有ってはならぬことである。しかし同じ寫眞の世界でも、藝術寫眞と銘を打つ人たちは、あちらの海の雲を持って来て、こちらの山の上へ焼きつける位のことは、あまりにも常のことであらう。先日ある人に聞けば、近頃評判になった或る映畫の中では、越後の海岸が、薩摩の海岸と、地つづきに接ぎ合はされて居たといふ。そんなことは、實際は、いくらもやって居るのであらう。また一幅の日本畫の構圖を、ばらばらに分解して、それぞれもとのスケッチブックなり粉本なりに、引き戻したならば、もつと面白いことがいくらもあるのであらう。それ等は、すべて藝術の名のもとに許されて居る。それに較べるならば、私のこの歌の場合などは、格別問題にもなるべきものではなからう。しかし、寫眞や日本畫が何うあらうとも、とにかく歌は、誠實に、情をこめて歌はなければならないと、人もよく云ふことであるし、私もさう思って居る。それを思ふばかりに、これだけの内輪噺を、さも事々しく、ここにありのままに暴露しておくのである。
 こゝまで話が行き着くと、私は今一つ云つておきたいことがある。それは私の歌にあらはれて来た圓柱の、そもそもの正體である。今どきの美術學者は、いひ合はせたやうに、桂の高さとか、直径とか、その比例とか、エンタシスがあるとか無いとか、そんなことを丹念に説明したがる。そして此等の二つの寺の、時代の論定に餘念がなく、その間に、百幾十年といふ巾の廣い溝を掘るから、一首の歌を一方の寺で詠みかけて、他方の寺で詠み据ゑたといふことは ― ことに學者の片割とも見られてゐる私として ― さだめし少からぬ侮蔑の種となることであらう。しかし私は、それどころでなく、もつと大きい不心得ものであるかも知れぬ。といふのは、奈良の御寺に見るやうな圓柱に対して、私の持つ限り無い愛着の根柢を、つくづくと洗って見るのに、それはもともと唐招提寺でも法隆寺でもなく、遠い昔の遠い國、ギリシャの神殿にあるらしい。もう三十年以上の昔になるから、進んだ今の世の中では、もちろん口に出して云ふほどのことでもないが、一時私は、無暗にギリシャのことが知りたくなって、其頃手に入るかぎりの幾十冊かの書物で、わづかに渇を癒したことがあった。この頃の、まだ若かった私のあたまに、よほど深く染み込んだものと見えて、パルテノンやデザイオンの圓柱が、今にしても尚ほ私をして奈良のそれ等に興ぜしめるのであるらしい。してみれば、飛鳥と寧樂の見さかひが、附くとか附かぬとかいふ段ではないことになる。つまり私は、見る人によっては、だいそれた気持で、奈良の歌を詠み歩いて居たのかも知れない。が、私としては、これよりほかに何とも致しやうを知らない。そしてまた、此の歌のためにいくらかの好みを見せる人のあるわけも、或は此所にあるのではないかときへ、ひそかに思って居る。
 しかし私は、この歌が、誰からも一様に、好かれて居るなどと思って居るのではない。ことに或る友人などは、『萬葉集』の三方沙彌の
  橘之蔭履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而
を挙げて、私の注意を求められた。なるほど短かい一首の中に「かげふむ」と云ひ「ものをぞおもふ」と云つて居る。似て居ると云へば随分似て居る方であらう。けれども、この責任を古人に負はせることは出来ないし、ことに私は、二十幾年も讀み慣れた『萬葉集』の、しかも割合に巻頭に近いところにあるこの歌を、全く知らなかったとも云へないから、つまり、責任は私にあるわけである。煎じつめれば、無知か健忘か、模倣か剽竊かの、誹りを免れない形勢のもとにあるのかもしれぬ。しかし私に云はせるならば、似て居ることは似て居るとしても、それは不思議に、言葉だけではあるまいか。言葉が似て居れば、一首の意味も何かと似て来るのは、自然な話ではあるが、それにしても、言葉即ち是れ和歌と、簡単に行くものでもない。とにかく私の歌は、あくまで私の歌で、その動機も、感興も、叙景も、そして餘情も、全然『萬葉集』とは別のものである。私の作としての、いくらかの持ち味さへもあるのではないであらうか。私はそんな風にひそかに信じて居る。だからこそ、あからさまに此の類似を自分で記したてて、まだ御気のつかれて居ない人々に披露して御参考に供へようとするのである。
(昭和十六年四月廿四日稿)


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