授業が始まっても、彼はずっと上の空だった。
頭の中は、先程倒れて保健室へと運ばれて行った雪のことばかりが占める。
前方の席に、伊吹聡美と福井太一が座っている。
中でも伊吹聡美は、授業中だというのにずっと太一に話し掛け続けていた。
聡美の隣には雪の鞄が置かれており、
それはまだ彼女が保健室で寝ていることを示していた。
ざわざわと、胸の中がざわめく。
瞼の裏に浮かぶのは、先ほど目にした彼女の横顔。
伝う汗、赤い顔‥。
そういえば彼女を初めて見た時も、液体が彼女の顔を伝うのを見た。
それを見て淳は、正直”汚らわしい”と思ったのだ。
この子もまた、周りに居る大多数の顔の無い人間と同じだ、と。
ぷっ
その考えがどこか違うと気付いたのは、あの時だった。
開講後に柳に頼まれ顔を出した佐藤広隆主催の自主ゼミ。
自身の本性を見抜かれ、嘲笑されたあの時‥。
あの時、淳は彼女から目を離すことが出来なかった。
目を丸くしてこちらを向く彼女に、言い様のない苛立ちを感じながら。
それからだった。
彼女を無視するようになったのは。
後ろから嫌な視線を感じようとも、決して淳は振り返ろうとしなかった。
自分を出し抜こうとする彼女に、嫌がらせを仕掛けたこともあった。
あれは国際マーケティングのグループワークで、彼女と同じ班になった時のこと。
「君が持つB企業の資料の中で、グローバルマーケティング事例を種類別に選定出来ないかな?
そしたら時間も短縮出来て助かるんだけど」「あ‥はは‥」
彼女が断れないことは想定の範囲内だった。
けれどその後皆で行った飲みの席での彼女は、想定の範囲外の言動を見せた。
淳が奢ることを当然と思っている皆の中で、唯一彼女だけがそれを疑問に思っていたのだ。
次第に彼女のそんな姿を、ちょくちょく目にするようになっていった。
あれは中庭にて一人ベンチに座っていた時、偶然耳にした彼女と母親との電話での会話‥。
「私の方がずっと一生懸命やって来たの!
お父さんに認めてもらおうとどれだけ必死だったか分かってる?!」
彼女のどこかしらに触れる時、いつも淳は心を乱された。
いつもの自分らしからぬ自身を目の当たりにさせられた。
それが最も顕著に現れたのは、学園祭の意見を戦わせたあの時だった。
「学祭だからって派手なだけの企画なら、やらないほうがマシじゃないか?」
そしてそんな時は決まって、彼女は予想の範疇を飛び出して行く。
彼女の意見を否定したあの時、また怒ると思ったのに。
また敵意を向けられると思ったのに‥。
何もかも諦めたようなあの瞳を見た途端、衝撃を受けた。
彼女の瞳に映る自分が、彼女と同じ表情をしていることにも‥。
それからだった。
彼女へ向かう敵意や悪意が影を潜め始めたのは。
女癖の悪い先輩に騙されそうになった彼女を、頼まれてもないのに助けたりして。
「青田淳‥」
自分でも、彼女に対する自身の感情の説明がつかなかった。
気がついたら目に入る、彼女の後ろ姿。
学園祭の前日、彼女は淳のすぐ側で眠っていた。
高熱を出した彼女の頬に触れた時の、あの感触‥。
ごめんなさい、わざとじゃないと呟きながら自身へと手を伸ばす、あの姿‥。
全てが淳を囚えて離さなくなった。
風に揺れる彼女の髪が、サラサラと音を立てるのも、
その指先が、自身の一片を掴むのも、
淳の前では決して見せないその笑顔も、
恥辱のあまり赤面し、狼狽する彼女の表情さえも。
心が、動いていた。
その感情にどんな名前が付けられるのか、それがどんな種類のものであるのか、
知りたい。
目の前では教授が退屈な授業を繰り広げる。
「であるから、ゴミ箱モデルとは‥」
伊吹聡美は未だ太一に話し掛け続けている。
「今からでも病院連れて行った方がいいかな、どうしよう‥」
恒常的に流れる時の隙間から、淳は一歩踏み出した。
「教授」
彼の一言で、時が止まる。
淳は動き出した。
その心の動くままに。
「緊急の用が出来てしまったので、
申し訳ありませんがしばらく出て来てもよろしいでしょうか?」
突然申し入れた淳の要求を、教授は渋々と了承する。
「青田君、この授業で退席はペナルティです。
しかし本当に急用なら仕方がありませんね。どうぞ出て行きなさい」
「ありがとうございます」
そうして淳は教室を出て行った。
彼女へと向かって。
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<雪と淳>動く でした。
雪と淳の歴史ダイジェストのような回でしたね。
淳の気持ちが少しずつ変化していっているのが見て取れます。
さて、保健室へと向かう淳!盛り上がってまいりました!
次回は<雪と淳>ざわめき です。
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