今朝の「朝日新聞」朝刊、歌壇俳壇ページに、「読み直し近代短歌史」について短文を書きました。近年、近代短歌史に関する論文・評論がほとんどないことに言及したエッセイです。
文学部のある大学が減り、日本文学に関わる授業が減って、近代文学の研究者が激減しました。そんな状況がつづいて、今では近代短歌研究は壊滅状態と言っていいでしょう。
大学で近代短歌史を勉強したいと思っても、どこの大学にも教員がいません。勉強して近代短歌研究の専門家になっても就職先がありません。そんな状態がもう五十年も続いています。
小生が教員になった時代からすでにそうでした。小生は、跡見女子大でも早稲田大でも、上代文学担当ということで、制度上は近代短歌研究とは無関係でした。
木俣修、新間進一、本林勝夫さんといった明治・大正時代生まれの研究者までは、大学に籍を置く方がおられました。昭和以後の生まれでは、菱川善夫さんを例外として、篠弘さん等、大学教員ではない研究者の時代になります。
他に職業を持つか、そうでなければ売れる評論を書かなければ生活できません。現在は評論が売れない時代ですし、まして短歌関係の評論を書いていてはとても生活ができません。近代短歌の研究が衰退するはずですね。
ただ、暗い話ばかりではありません。本気で研究しようとすれば、昔よりはずいぶん状況はよくなっています。デジタル化されて、資料が見やすくなっているからです。
国会図書館に通って、アナログのフィルムで新聞「日本」の正岡子規の短歌を調べた日々を思い出します。手動でフィルムを回しながら、小さな画面を読まなければなりませんでした。
早稲田大学の図書館の倉庫に積んであった明治時代の新聞の束を、夏休みの二十日ほどかけて調べたことを思い出します。窪田空穂全集のためです。 新聞のページを一枚一枚めくって、空穂の書いたものを見つける仕事です。一時間もすると顔も手も服も、埃で真っ黒。何度マスクを変えても、鼻や喉に埃が入って咳き込んでしまう。
今はもう、そうした資料は多くがデジタル化され、楽に検索できるものも増えました。
「朝日新聞」に書きましたように、本気で近代短歌史を研究してくれる人が、一人でも二人でも出てくれればうれしい。つくづくそう思います。
文学部のある大学が減り、日本文学に関わる授業が減って、近代文学の研究者が激減しました。そんな状況がつづいて、今では近代短歌研究は壊滅状態と言っていいでしょう。
大学で近代短歌史を勉強したいと思っても、どこの大学にも教員がいません。勉強して近代短歌研究の専門家になっても就職先がありません。そんな状態がもう五十年も続いています。
小生が教員になった時代からすでにそうでした。小生は、跡見女子大でも早稲田大でも、上代文学担当ということで、制度上は近代短歌研究とは無関係でした。
木俣修、新間進一、本林勝夫さんといった明治・大正時代生まれの研究者までは、大学に籍を置く方がおられました。昭和以後の生まれでは、菱川善夫さんを例外として、篠弘さん等、大学教員ではない研究者の時代になります。
他に職業を持つか、そうでなければ売れる評論を書かなければ生活できません。現在は評論が売れない時代ですし、まして短歌関係の評論を書いていてはとても生活ができません。近代短歌の研究が衰退するはずですね。
ただ、暗い話ばかりではありません。本気で研究しようとすれば、昔よりはずいぶん状況はよくなっています。デジタル化されて、資料が見やすくなっているからです。
国会図書館に通って、アナログのフィルムで新聞「日本」の正岡子規の短歌を調べた日々を思い出します。手動でフィルムを回しながら、小さな画面を読まなければなりませんでした。
早稲田大学の図書館の倉庫に積んであった明治時代の新聞の束を、夏休みの二十日ほどかけて調べたことを思い出します。窪田空穂全集のためです。 新聞のページを一枚一枚めくって、空穂の書いたものを見つける仕事です。一時間もすると顔も手も服も、埃で真っ黒。何度マスクを変えても、鼻や喉に埃が入って咳き込んでしまう。
今はもう、そうした資料は多くがデジタル化され、楽に検索できるものも増えました。
「朝日新聞」に書きましたように、本気で近代短歌史を研究してくれる人が、一人でも二人でも出てくれればうれしい。つくづくそう思います。