「体罰報道との共通点」4月18日
科学ライターの粥川準二氏が、『「いわれある差別」は許すのか』という表題でコラムを書かれていました。その中で粥川氏は、「福島差別」に関連して、『「いわれのない差別はやめろ」ということだ。しかし疑問がわいてくる。「いわれのある差別」ならしてもいいのか』と問題提起をなさっています。つまり、放射能汚染による遺伝的な影響は確認されていないにもかかわらず結婚等で差別される現状を、科学的根拠がない=いわれない差別として非難する人たちは、科学的根拠がある=いわれある差別なら認めるのか、という問いかけです。
そしてより具体的に、『遺伝病患者やその家族たちとの結婚をやめさせることは問題ないのか』と問うているのです。私は粥川氏の問題提起を目にしたとき、体罰についての議論や報道を思い出してしまいました。私はこのブログで体罰について再三触れてきました。その中で、「被害者である生徒は、何も悪いことをしていないにもかかわらず、顧問教員から繰り返したい罰を受けていた」というような記事に対して疑問を呈してきました。
こうした記事を目にしたことのある人は少なくないでしょう。そして多くの人が疑問を抱かないのです。しかしこの記述は、悪いことをしていない生徒への体罰→許せないという構造になっており、この論理は、悪いことをした生徒への体罰→仕方がないという考え方に結びつく危険性があるのです。
実際、教室で授業中にたばこを吸い、机の上に足を載せ、ダウンロードした音楽を聴きながらエロ本を読んでいる生徒に注意をしたが聞き入れず、逆に「うるせえんだよ、ババア」と言い換えされた教員が、生徒にビンタしたという事例を考えてみましょう。そんなとんでもない生徒はひっぱたいて当然という意見の人が少なくないと思われます。これこそ、悪いことをした生徒への体罰→仕方がない論です。中には、仕方がないという消極的容認ではなくぶっとばすべきだという積極的容認論に人さえいるかもしれません。私も心情的には同じです。
しかし、そんな生徒に対してでも、体罰や許されないのです。学校教育法が体罰を明確に禁止していることがその理由の一つです。法治国家である我が国において、法の決まりは決まりとして、実際には融通を利かせてという対応は、学校制度という仕組みやシステムを根本から崩してしまう可能性があります。蟻の一穴ではありませんが、一つ「融通」を認めてしまえば、他にも悪影響が広がってしまうのです。
また、ひっぱたいてもよい行為が無制限に拡大し、結果として体罰禁止という規定そのものが骨抜きになってしまう危険性も無視できません。上記の例でいえば、喫煙、机上に足、音楽を聞く、エロ本、暴言という5つの要素があります。この全てが重なっているからこそ、とんでもない生徒となるわけですが、やがて授業中にエロ本を読んでいるということだけで体罰が肯定されるようになり、さらにエロ本ではなく他教科の教科書を開いていたというだけで体罰OKとなり、最終的には教科書をみていなかったというだけで体罰が認められるというように拡大解釈が進んでいくということです。
私たちが慣用句のように使ってしまう表現の中には、実は、無意識のうちに誤った価値観を肯定しているものがあるのです。「いわれなき差別」も「悪いことはしていないのに体罰」も、その一つです。慣用句を使ってしまったとき、自分の中に間違った価値観に基づく前提がないかどうか、胸に手を当てて考えてみるべきなのです。









