ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

誰でもいい、でも「基本」は学ばねば

2019-09-13 08:06:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「でも勉強しなければ」9月9日
 『芸能人の政治的発言 政治的意見にバッシング なぜ?』という見出しの特集記事が掲載されました。一般社団法人「Get in touch」理事長を務める俳優東ちづる氏へのインタビューを中心に構成された記事です。その中で、芸能人の政治的発言へのバッシングについて東氏は、『「政治は自分から遠く、高いところにあるもの」と思っている人が多いのでは。遠くて高いものにもかかわらず専門家でもない芸能人があれこれ語ると「偉そうに」と感じるのでしょう』と述べていらっしゃいます。
 私もそう考えています。そして、東氏は、『好きな食べ物のことを話すのと同じように、政治を語り合えるようになればいい』とおっしゃっています。これにも同感です。誰でも政治について自由に発言できる、立場などによってその人の意見が軽視されたり、攻撃の対象になったりすることはない、自分と反対の意見にも耳を傾ける、そんな雰囲気が社会の中で常識になっていけばよいと思います。
 しかし、そう考える一方で、政治と食べ物の好みは違うとも思うのです。東日本大震災後、放射能がうつるといって被災地から避難した子供がいじめられるという事件が相次ぎました。また、たくさん補償金もらえて金持ちになっただろうと金銭を脅し取られる事件も相次ぎました。これらは放射能について正しい知識がない者、震災後の補償制度について無知な者が起こした事件でした。私はこうした事件をこのブログで取り上げ、単に心情的に「困っている人に優しくしよう」というような指導をするのではなく、正しい知識を学び取らせるのが学校教育の務めだと主張しました。
 もちろん、どんな分野においても、正しさの度合いは様々です。でも、ある程度の正しさ、専門家には及びもつかないけれど、中学生として、高校生として、あるいは社会人として、大人として一定のレベルの知識を得てから発言しようとする姿勢は大切だと思うのです。
 政治についても同じです。原発問題、社会保障問題、財政問題、安全保障問題、外交問題、科学技術問題、生命倫理問題、人権問題、それぞれについて一定レベルの「常識」のようなものを身につけることは、政治について語る際にも欠かすことはできないはずです。立憲主義、三権分立、普通選挙、情報公開と表現の自由など、民主主義に基づく政治にとって不可欠な仕組みとその歴史については、大前提です。
 韓国なんて消滅させろ、竹島に自衛隊を送って日の丸を立てるべき、意思表示できない重篤な障害者は安楽死させろ、日本には黒人やイスラム教徒はいらない、原発の廃炉処理は死刑囚にさせろ、そんな主張は政治を語っていることにはなりません。公文書が恣意的に廃棄されたり改ざんされたりすること問題視することを、政府の足を引っ張る非国民呼ばわりすることは民主主義の自殺です。何も難しいことを言っているのではありません。常識です。
 主権国家同士はお互いに相手国の主権を尊重すること、人は出自、国籍、宗教、人種などのよって差別されてはいけないこと、戦争は勝ち負けに関係なく多くの痛みを残しそれが長く続くこと、自然環境は自分たちだけのものではなく子孫に残すべき遺産であること、人は誰でも社会的弱者になり得ること、だから社会保障は自分に関係のない人を救うのではなく自分のための制度であること、使える範囲の資金で賄うことは国も家計も同じこと、などなど前提となる知識を得ようとするのは、芸能人も学者も関係なく、主権者としての責任を負う民主的国家の国民として義務に等しいと思うのです。
 ステーキが好き、お寿司が好き、このわたは嫌いというのは感覚の話です。政治は感覚で話せることではありません。学校は、政治について語るための最低限の常識を身につけさせる場でなければなりません。そしてそれこそが、主権者教育の中核となるべきなのです。何も学ばない者でも政治について語ることができる、制度としてはそうあるべきです。しかし、制度を生かすには、政治を学んだ人たちの分厚い層が必要なのです。学校教育は、その分厚い層を作りだす使命を帯びているのです。

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