「型の習得には」3月25日
書評欄に、『バカロレア幸福論 フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』(坂本尚志著:星海社新書)について、仏文学者鹿島茂氏による書評が掲載されました。ちなみに「バカロレア」とは、フランスで行われている大学入学資格試験のことです。『考え方の「型」を学ぶことは可能だ』と見出しがつけられた書評の中で鹿島氏は、『孤独のなかで幸福でいられるだろうか』という問いを例に挙げ、詳述なさっています。
そして書評最後に、『バカロレアで問われているのは思想ではなく、考え方の「型」の修得』『「型」があって、それが学校で教えられているということは、われわれもその「型」を学ぶことが可能』と述べ、『日本の教育改革におおいに参考になる』と同書を評価しているのです。
私は長年社会科指導法を研究対象としてきました。その間、常に意識してきたのが、「社会的な見方・考え方」を身につけさせることでした。このブログでも紹介してきた実践事例を基に分かりやすくいうならば、「米作り農家の人々は、生産量を上げ、米の品質を高め、自分たちの所得を増やすと共に、消費者に喜んでもらえるように様々な工夫や努力をしていた」という認識を生かし、「サンマ漁に従事する漁家の人々は、漁獲量を増やし、サンマの品質を高め、自分たちの所得を増やすと共に、消費者に喜んでもらえるよいに様々な工夫や努力をしているのではないか」という予想を立てて主体的に学習をし、次に自動車工業、伝統的な技術を生かした工業といくつかの産業について同様な学習経験を重ねることによって、「人々は自己の利益と他者の満足のために工夫と努力を重ねて社会を創り上げてきた」という見方・考え方を自分のものにするというようなイメージです。
社会的事象の見方・考え方というのは、思考の「型」という言い方もができると考えていたので、この『考え方の「型」を学ぶ~』という見出しに惹き付けられてしまったのです。もちろん、日本とフランス、小学校と高校という違いもあり、細部は異なっていますが、大筋は同じような趣旨であると感じました。そして、我が国の教育改革の参考となるという指摘も同感です。
実はこのことは改めて言うまでもなく、文科省が進めようとしている改革で、既に先取りされているのです。アクティブ・ラーニングという考え方に近似するものなのです。ですから、敢えて取り上げる必要はないとも言えますが、一つだけ我が国の教育論議で軽視されがちなことがありますので、その点についてだけ「再確認」しておきたいと思います。
それは、「知識」の必要性です。前述した『孤独のなかで幸福でいられるだろうか』という問いに対する解に至る過程は、次のように書かれています。
『孤独は主観的なものだから孤独でも幸福であり得るとするカントをまず出し、次いで孤独をポジティブに考えるストア派、孤独のなかにこそ完璧な幸福があるというルソーの例などを挙げる(略)幸福も不幸も他者との共感が不可欠というヒューム、民衆全体の幸福を提起したサンジュスト、最大多数の最大幸福という原則を提唱したベンサムなどを挙げて~』。考え方の「型」を学ぶといっても、ここに列記したように、カント、ストア派、ルソー、ヒューム、サンジュスト、ベンサムなど先人の残した議論についての「知識」が必要だというのです。
こうした偉大な先達の知的財産を身につけ活用することなしの議論や小論文は、「型」を学ぶに値しないということなのです。ある分野(ここでは哲学)において、考え方の「型」を修得するには、基盤となる知識が必要だということが主張されているのです。
我が国では、知識注入型か考えさせる授業か、というように二項対立で語られることが多いのですが、知識なしに思考が成立しないし、思考によって得た知識がさらに高次の思考の基盤となるというのが真実なのだと思います。我が国の教育改革において最も大切なのは、不幸な二項対立からの脱却だと考えます。









