ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

罰で抑制は不本意だけど

2017-06-28 07:23:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「罰でしか抑止できないのは情けないが」6月22日
 『性犯罪被害者の声 国動かす』という見出しの特集記事が掲載されました。110年ぶりの刑法抜本改正について報じる記事です。記事によると、『親による性虐待を罰する「監護者わいせつ罪」の新設-などがある。被害者らは、この「監護者」について「学校の教師やスポーツの指導者も含めるべきだ」と訴えたが、政府は「処罰対象とするには(親のような)経済的、精神的な依存・保護関係が必要」とし、今回は含まれなかった』ということです。
 大変疑問な判断です。私は自分が教員出身で、教委に勤務してきたという経歴のせいか、このブログでは教員に「甘い」と思われるような主張をすることが多かったと批判されがちです。しかし、この問題については、教員は監護者であると主張したいと考えています。
 以前も書きましたが、私は教委で、教員の服務事故にかかわる職務を担当していました。その間、最も記憶に残っているのは、多摩地区のある市立小学校で起こったわいせつ事案でした。50代の男性教員が、教え子8人に対し、性交を含むわいせつな行為を長い間繰り返していたというケースでした。
 私は、服務事故を担当する際、「罪を憎んで人を憎まず」を心掛けていました。体罰をした教員も、同僚にセクハラした教員も、酩酊して暴力をふるった教員も、その指導にあたっては、犯してしまった過ちを厳しく糾す一方で、その教員の人間性は否定しないというポリシーでした。しかし、前述の50代の教員に対してだけは、「なんだこの野郎!」という感情を抑えられませんでした。
 その行為が卑劣そのものであるのはいうまでもありませんでしたが、具体的な調査報告書を読んでいくと、教員という立場は、それを悪用しようとする者にとっては、とてつもない強権を伴い、恐ろしい専制者となることを可能とするものであるということを再確認させられたものでした。
 被害者となった女児たちは、全く抵抗力を奪われ、意思表示ができず、それこそ「嫌がっているとは思わなかった」という加害者の弁解も一部は本音なのではないかと思わせるほどでした。「怖かった」「死にたいくらい嫌だった」「泣きたくても涙が出なかった」という述懐も、守ってくれる大人が現れてから初めて口にできたという状況でした。
 罰がなければ欲望を抑えることができないような人間が教員になってはいけないのです。それは正しいのですが、現実にはおかしな教員がいるのは事実なのです。だからこそ、情けない話ですが、教員も「監護者」とし、罰で抑止する体制が必要だと考えるのです。こうした性被害は、子供の一生を台無しにしてしまうのですから。
 

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