ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

一人で、あるいは集団として

2024-03-18 08:07:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「個人で、もダメ?」3月13日
 『加藤氏「極めて不適切」』という見出しの記事が掲載されました。『自民党和歌山県連主催の懇親会に露出の多い姿の女性ダンサーが招かれていた問題で、加藤鮎子女性活躍・共生社会担当相は12日の記者会見で「極めて不適切な内容の余興が企画、実施され、国民の不信を招いたことは誠に遺憾」と強く非難した』ことを報じる記事です。
 いったいどういう感覚をしているのだ、と首を傾げたくなるような醜態です。常識では考えられない愚行です。その点に異論はありません。ただ、へそ曲がりな私は、こうした問題については、なぜ非難されるべきなのか、きちんと明確にしたくなります。そして、どうしても教員の場合、というふうに考えてしまうのです。
 校長会の懇親会で露出の多い姿の女性ダンサーを招いたとしたらどうでしょうか。校長と政治家、どちらがより人権感覚や倫理性を要求されるかの分析はさておき、今回と同様かそれ以上の非難が寄せられそうです。私が教委の指導室長を務めているとき、こうした事案が発生すれば、厳しく糾弾したはずです。市民、保護者の信用を損なう行為として。
 では、一人の校長が、勤務時間外に、そうした露出の多い姿の女性ダンサーが出演しているホールに行った場合はどうでしょうか。そしてチップを胸元に押し込んだとしたら。何らかの処分をするべきでしょうか。また、処分をすることは法的に可能でしょうか。闇カジノに行った、大麻を吸った、買春をしたというような違法行為ではありません。露出の多い女性ダンサーとの接触を問題視したとしても、女性ダンサーも合法的な職業であり、暴力団などの反社会勢力の人間ではありません。扱いによっては賤業扱いだと言われて、職業差別という批判をされる可能性も捨てきれません。
 何かと話題になった「セクシー田中さん」というドラマがありました。主人公の衣装も露出が多いと言われればその通りでしたが、真面目にベリーダンスに取り組む人物でした。その踊りを見に行ったことを問題視すればその方が問題になったでしょう。
 さらに広げて考えれば、校長が勤務時間外に一人で女性が接待してくれるバーやクラブに毎週のように行くのはどうでしょう。これまで問題だという人はさすがにいないと思いますが、広く知られれば、冷たい視線を浴びることは避けられないように思います。教委として非公式に「控えるように」という注意はすると思われます。女性関係以外でも、パチスロや競馬競輪に毎週通うというような行為も、非公式注意となるかもしれません。
 教員や校長も人間です。ときに羽目を外したくなることがあっても、それ自体非難されることではありません。教員や校長は石部金吉でなければならない、という考え方は教職聖職論に毒された考え方であり、非現実的です。
 とはいえ、退勤後に居酒屋で一杯とバーでホステスさんの手を握るのとでは、周囲の受け取り方が違うのは事実です。許容されるか否かの境界線はどこにあるのでしょうか。教員と校長では違うのでしょうか。男性教員がガールズバーに通うのと女性教員がホストクラブに通うのでは違いがあるのでしょうか。それても回数、常習性の問題なのでしょうか。あるいは、あくまでも個人として一人での行動なのか、〇〇会というような集団での行動なのかがポイントなのでしょうか。
 簡単に結論は出ませんが、こうした頭の体操をしておくことは、決して無駄ではありません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麗しき誤解

2024-03-17 08:34:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理想の師弟関係」3月12日
 川柳欄に、越谷市K氏の『誤解したままの二人は仲が良い』という句が掲載されていました。面白い句です。人間関係の真実をさりげなく突いているような気がします。どんな人間にも、汚れた部分、卑怯な恥ずかしい面があります。それを知らずに自分にとって都合の良い人物像を勝手に描き、その人物像を愛し親しみをもつことで人間関係が上手くいく、確かにそんなことがありそうです。
 私は、教員と子供の関係にも、というか教員と子供の関係にこそK氏が提示した真実が当てはまるように思います。卒業させた子供に約30年ぶりに会ったときのことです。彼女は、担任当時の私について、「先生は~」といろいろな思い出を話してくれました。そして、40歳になった自分と比べると、当時の私が年下(35歳)だったということが信じられない、先生はすごく大人だったと言うのです。
 私は苦笑するしかありませんでした。私は年齢からみても幼稚で下劣な人間だったからです。でも、そこで本当のことを話しては、彼女をがっかりさせてしまいます。私は一番影響の少なそうな打ち明け話をしました。
 給食の時間、私は子供たちの作品やノートを見るのが忙しいというふりをして、食事をさっさと終わらせ、教卓で仕事をしながら子供たちの様子を見るということが多かったのです。彼女は、それを熱心な先生と見ていたそうですが、実態は違います。食べ物の好き嫌いが多かった私は、嫌いなおかずのときはそれをよけて少しだけ盛り付けていました。子供には好き嫌いをせずに食べようと言っていた手前、嫌いだということはできず、忙しそうに見せかけて、おかずを減らしていただけでした。早く食べ終わってのんびりしているわけにもいかず、ノートや作品を見ていたというのが真実です。
 さらに、嫌いなおかずのときだけそうしているとバレてしまうので、子供たちには、「先生だからって、特別扱いしないでいいよ。自分の分は最後に自分でやるから」と言い、いかにも非権威的な態度を装っていたのです。悪賢いですね。そして、子供っぽいですね。
 私がこの話をすると、彼女は何だかがっかりした顔をしました。彼女の「夢」を壊してしまったのかもしれないと、少し反省したものでした。でも、担任中に、私が好き嫌いを理由におかずを減らし、子供には好き嫌いするなと二枚舌を使っているなどと知れれば、私は「尊敬する先生」にはなれなかったでしょう。
 つまり「誤解したまま」だからこそ、私は彼女にとって30年経っても会いに来るような「良い教員」であり続けることができたというわけです。逆に言えば、良い教員と思われ、子供や保護者と良い関係を築いていくためには、誤解してもらうということが必要だということでもあります。若い教員の皆さん、うまく誤解してもらいましょう。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9年も前に

2024-03-16 08:36:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「慧眼というわけではないが」3月10日
 『翻訳家に求められる創意工夫』という見出しの記事が掲載されました。『急速に深化を遂げる人工知能は外国語翻訳の分野にも広がっている(略)AI時代に外国語を学ぶ必要はなくなってしまうのか』という問題意識の下、翻訳家で法政大教授金原瑞人しにインタビューした記事です。
 その中で金原氏は、『翻訳家の仕事はなくなります』『AI翻訳が普及すれば、「単なる道具」として英語を学ぶのではなく、言語を通じて異文化を知り、相互理解を深めるという一昔前の外国語教育のあり方に戻るような気がします』と述べていらっしゃいます。
 この記事を読み、私は9年前にこのブログで書いたことを思い出しました。平成27年4月5日の日付のものです。以下に再掲します。

「思った通り」4月5日
 『東京五輪で技術力アピール』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『日本企業が2020年の東京五輪に向けて製品開発を本格化させている』とのことで、具体例として、『パナソニックは2月中旬、東京都江東区で取引先などに向けた展示会を開いた~(中略)~首からぶら下げて使う携帯型翻訳機など開発中の物を中心に~』と紹介されていました。
 私は以前から小学校に英語教育を導入することに関連して、どの程度の英語力を想定しているのかを明確にすべきと主張し、買い物をする、道を尋ねる・教えるレベルの会話であれば、近い将来に携帯型の翻訳機が開発され、特別な施策を採用しなくても不自由しなくなると「予想」してきました。
 今回の記事は、少なくとも5年後には実用化される可能性がすこぶる高いということを示すものです。5年後、つまり、この4月に小学1年生になった子供が小6に、中学生になった子供が高3になったときには、実用化されているということです。
 このように書くと、あくまでも取引先企業向けであって個人向けではないという反論があるかもしれませんが、開発企業がより広範な販売先を求めるのは必然ですし、それには個人用製品の開発しかありません。また、携帯電話やスマホの技術革新のスピードを見ていても、その開発は私などの予想を上回る速さで進むはずです。
 現時点でも、小中学生でスマホをもつ子供の割合は相当なレベルですが、今後さらに高まっていくでしょう。そして新たな機材を購入しなくても、既存の機種に翻訳用のアプリをダウンロードすればよいという形になるのも確実に思われます。
 そうなれば、現在ではLINなど、大人の目から見れば遊びの域を出ないスマホの用途に、外国人とのコミュニケーションを深めるという「立派な」目的が加わることになり、さらに普及するということになるでしょう。
  学習効果という面から見ても、実際に翻訳機を使って外国人と話す経験を通して、段々と翻訳機に頼る部分を減らし、英会話力を高めることが最も効果的という説がだされることになるでしょう。何といっても、英会話力の向上において最も大きな壁である心理的な抵抗感を減らすという意味では、実際に話すこと以上に良い方法はないのですから。
 英語教育論議はこうした技術革新を視野に入れたものになっているのでしょうか。

 翻訳機の普及が外国語(英語)教育に及ぼす影響について、かなり現状を予言した内容だと言ってよいのではないでしょうか。私は自分が慧眼の持ち主だと誇りたいわけではありません。ただ、私のような素人にも予想可能な変化に対し、英語教育を推進する人たちは十分に対応し、課題や方向性を国民に伝えてきたかということを問題視したいのです。
 すべての子供を対象にあるレベルの外国語習得を目指すのか、一定レベルを越える能力については希望者もしくは選抜した子どもを対象にするのか、日常会話レベルの能力でよいのか(それならばAI翻訳機で足りる)、より高度なレベル(ビジネスの交渉や国際会議でのやり取り等)を想定するのか、そうしたことを明確にしないまま、国際化の進行→英語が必要というようなムードで施策を進めているのではないか、そんな疑問が捨てきれません。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰でも自分を守りたい

2024-03-15 08:28:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「守りの姿勢」3月10日
 放送タレント松尾貴史氏が、『ウズラの卵 控えるより食べ方教えては』という表題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、福岡県の小1児童が給食のウズラ卵を喉に詰まらせて亡くなった事件を取り上げています。松尾氏は、『この事故を受けて、各地の教育委員会が給食にウズラの卵の使用を当面控える方針を決めた』ことに疑問を呈し、『食材を取り除くのではなく、食べ方を指導すればいいのではないか。問題がある度に食材を使用禁止にしていては、流動食しか出せなくなってしまうだろう』と述べていらっしゃいました。
 また、似た例として、『公園の遊具でけが人が出たら撤去したり「使用禁止」にしたりする対策が取られるようなことが起こりがちだ』と挙げてもいらっしゃいます。おっしゃることはよく分かります。でも、難しいとも思います。
 それは社会の在り方に原因があります。学校でも、企業でも、官庁でも、その他の組織でも、必ず事故やトラブルは起きます。それは人間が営むシステムすべてに共通する真理です。ですから、1/100000、1/1000000の確率で起きてしまう事故やトラブルに対しては、真摯な原因解明と公表、新たな対策と謝罪と補償といった措置がとられることで、当該組織や個人に対する過度な懲罰や攻撃は控えられるというのが望ましい在り方です。
 そうでないと、組織や個人は委縮し、自己防衛のために隠蔽や改竄などの悪事に手を染めたり、過度な防衛策を取るようになります。それを非難することは可能ですが、こうした反応を摂るようになるのは人情であり、非難して解決することではありません。
 松尾氏も紹介しているように、今回のケースでも、対応が間に合わないので、十分な食べ方の指導をした上でウズラの卵を給食に出した学校が、取り除いてあげるべきと非難されています。教委も学校も、校長も教員も、他の人たちと同じ弱い人間です。きちんと嚙もうなどと指導してウズラの卵の使用を継続した結果、また喉に詰まらせるといった事故が起きれば、それこそメディアや議会、世論の総攻撃を覚悟しなければなりません。そんな事態は避けたいと考えるのが人情というものです。
 私は教委の幹部として、学校教育の内容について責任のある立場にいました。もし当時の私が判断を迫られれば、やはり食材としての使用を取りやめることにしたでしょう。事故が起きれば、教委は何をしていたんだと言われ、自治体トップの首長の責任まで問われ、それは野党の攻撃材料となり、政治問題化する恐れさえあるのです。校長や担任は、押し掛けるメディアの対応に神経をすり減らし追い込まれていきます。保護者は擁護派と追及派に割れ、学校内の雰囲気は重苦しくなります。教委にも、連日数十本の抗議電話が殺到し、業務に大きな支障が生じます。
 でも、当時はそれだけでした。今はそれらに加えて、ネット上での罵詈雑言、非難中傷、校長や担任を特定しての個人攻撃や晒し、匿名による責任追及に名を借りた憂さ晴らしの個人攻撃が延々と続くのです。これを恐れないなどということは常人にはできません。
 ネットの興隆に伴い、事態は松尾氏の望む方向とは逆に動いていくと思われます。嫌な世の中になりました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一人前になるまで辞めなければよい

2024-03-14 08:35:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無期限に?」3月9日
 書評欄に、『「サンミュージックなお笑いの夜明けだったよ! 付き人から社長になった男の物語」岡博之著(晶文社)』についての書評が掲載されていました。同書は、『芸歴40年超の現役芸人が、芸能事務所「サンミュージック」の社長になるまでの歩みをつづる』ものだそうです。
 とても考えさせられる一文がありました。『芸人として売れるために必要なことは「売れるまで辞めないこと」。至言だ』です。意味はよく分かります。なるほどと思う面もあります。でもこれは、全ての職に通用することなのか、と考えてしまったのです。
 もっと端的に言えば、教職にも通用するのか、ということです。つまり、「良い教員になるために必要なことは、良い教員になるまで辞めないこと」という命題は、正しいのかということです。
 新卒一年目の初日から、既に良い教員という人はいません。もちろん、それなりに優れた資質、教員に向いていると思わせる言動を感じさせる人はいますが、その時点での「教員力」は、当然のことながら不十分です。そして、様々な資質と能力の若者が教員人生の第一歩を踏み出し、少しずつ成長し、良い教員に近づいていくのです。
 その歩みには、遅速があります。3年もすれば立派に一人前の教員になる人もいれば、10年経っても何だか頼りなく子供にも保護者にも信頼されない者もいます。では、何年待てばよいのでしょうか。「良い教員になるまで辞めない」を貫けば、いつか必ず良い教員になれるのか、そうではないのか。そうだとしても、20年も30年も待つべきなのでしょうか。そうではないとしたら、何年で見切りをつければよいのでしょうか。
 私の数少ない趣味である将棋では、全国から才能のある若者が集まった奨励会で、26歳までに四段に昇段出来なければ、退会、つまりクビになるシステムです。ある時点で見切りをつけることが、本人のためにも、そして将棋界のためにも有益だという考えに基づきます。
 授業も学級経営も上手くいかず、子供からも信頼されず、同僚教員の冷たい目にさらされ続ける、それはとても辛い人生です。また、国民の納めた税金で雇用される教員には、自分の思惑だけでなく、きちんと職務を果たす責任もあります。その責任を果たすことが期待できないのであれば、クビを宣告するのも教育行政が担うべき責任です。
 私は教委勤務時に、「指導力不足教員研修」を担当していました。対象となった教員の半数以上は、結果として教職を去りました。彼らの多くが教職経験20年以上のベテランでした。見切りをつけるのに、20年が必要だったのか。20年は長すぎたのか。だとすれば何年が適当だったのか、実は当時も迷っていました。
 10年間教職にいて不適合とされた場合、その後新たに同程度の収入を得ることができる職に就くのは決して簡単ではありません。20年ならなおさらです。30年となれば、余程の特技や資格がなければほぼ不可能です。
 だからといって、2年や3年でクビを宣告するのでは、あまりの酷だと言われるでしょう。教職志望者はいなくなってしまうかもしれません。教職にも通用する至言が書かれた本はないのでしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

支持者は皆無なのか

2024-03-13 08:10:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「初めから除外?」3月5日
 『短時間給食「焦り生む」』という見出しの記事が掲載されました。『みやま市の小学1年生の男子児童(7)が給食を喉に詰まらせて死亡した事件を巡り、SNSで「給食時間」の短さを訴える声があがっている』ことについて報じる記事です。
 記事では、『「早く食べないと」という焦りは事故を誘発する一因になる』という専門家の声、文科省の手引きに『パンの早食いによる窒息事故が過去に報告されている』という指摘、『給食を食べ終えるのに最低でも20分、できれば25分以上、見るべき』という危機管理の専門家の意見などが紹介されています。
 では実態はどうかと言うと、『30分が給食の時間です。そのうち最初の10分は配膳、ラスト5分は片付けなので食べる時間は15分程度で、配膳によってはもっと短くなります』という現役中学生の投稿が紹介されています。つまり、時間が足りていないのです。
 ではどのように改善するかというと、『少しでも時間をのばせないか、学校側に掛け合った』結果、『授業時間を確保しなければならないなど、学校側の事情』で難しかったということでした。
 学校現場を知る者として、難しいという「言い訳」は事実であると思います。でも、解決策があります。前述の中学生の話にヒントがあります。配膳と片付けがなくなれば、25分を確保することは現状のままで可能なのです。そして、給食を廃止し弁当持参にすれば、配膳と片づけはなくなり、この早食い問題は解決してしまうのです。
 私はこのブログで、教員の多忙化改善策として、家庭ごとにある食文化を守る視点から、給食事業開始時の栄養確保という意義が現在では消滅していることから、給食の民間委託が進み給食調理主事の一斉解雇という問題が解消している点から、などの理由で給食廃止を主張してきました。
 今回の不幸な事故に便乗するようで心苦しいのですが、またここで給食廃止を訴えているわけです。でも、賛同者はほとんどいないということも分かっています。ただ、こうした状況にもかかわらず、給食廃止という選択肢が一言も言及されないという現状には、何か思考停止してしまっているかのような印象を受けます。給食は絶対不可侵な存在であり、給食廃止など口にするのも汚らわしいというような、です。
 だからあえて書きました。給食廃止を支持する人は本当に一人もいないのかな?

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう、大嫌いだ!

2024-03-12 08:21:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嫌になるぐらい」3月5日
 『「決め切る力を」磨くジャンプ』という見出しの記事が掲載されました。フィギュアスケート選手友野一希氏へのインタビュー記事です。その中で友野氏が語る言葉が印象に残りました。
 『練習の密度も量も含めて一日中ずっとスケートを考えることを続けていきたいですね。好きを超えるというか。好きな気持ちで練習できることが一番僕は楽しいんですけど。その楽しい過程の中で、スケートが嫌になるぐらいやることが大切なので』という言葉です。
 スケートが好き、楽しい、それは友野氏の本音でしょう。楽しみながらハードな練習をこなしている、あるいは常人であればつらいレベルの練習でも友野氏には楽しく感じられるということです。しかし、それでは足りないというのです。根っからのスケート好きの友野氏でさえ、もう滑りたくない、スケート靴を見るのも嫌だというところまで、自分を追い込んでおかないと、伸びることはできないというのです。
 学校教育をめぐる議論は、ここ数十年、楽しい授業礼賛ムードの中進められてきました。途中、ゆとり教育の見直しなどもありましたが、基本的には、授業は楽しくなければならない、楽しい授業こそ子供の学ぼうとする意欲を高める、という考え方が主流であり続けてきました。
 私も同じ考えです。教員としての実践も、指導主事として教員を指導するときにも、この前提で臨んできました。このブログでも、そうした立場から、授業論、教員の在り方論を述べてきました。これからもその立場に変わりはありません。
 ただ、個に応じた教育、個性を伸ばす教育という視点で考えたとき、友野氏がいう「嫌になるぐらい」ハードな訓練的な学びについて研究する必要があるのではないか、と考えるようになってきたのも事実です。
 我が国の学校教育は、基本的に落ちこぼれ対策に目を向けてきました。その一方で、浮きこぼしと言われる現象、つまり並みはずれて能力の高い少数の子供への対応については関心をもたないできたという一面があるのです。
 しかし、真の意味で個に応じるのであれば、100人に1人、1000人に1人というある分野においては高い能力・資質をもつ子供への対応についても研究されるべきだと考えるのです。その際ヒントになる発想法として、「嫌になるぐらい」が有効なのではないでしょうか。
 「嫌になるぐらい」ハードな訓練的学びというと、どうしてもスポーツの場面が浮かんでしまうのですが、科学でも、芸術でも、創作活動でも、その道の一流と言われる人々は、「嫌になるぐらい」ハードな訓練的学びを体験しているはずです。そうした事例を数十、数百と収集し、それぞれ小学生の段階、中学生の段階、高校生の段階でどのように取り入れることができるのか、整理分析し、実践につなげていく、あるいは指導できる教員の育成に生かすということが大切なのではないでしょうか。
 ただし、あくまでも子供本人の夢や自己実現のため、つまりは子供の幸せための措置であり、国家の競争力の向上などという目的で行うのではないということは常に意識しなければなりません。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員側からも働きかけて

2024-03-11 08:16:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「欲するものを」3月4日
 『本屋大賞、児童書が初ノミネート』という見出しの記事が掲載されました。『「人生で初めて読むミステリー」がコンセプトの「放課後ミステリークラブ 1金魚の泳ぐプール事件」(ライツ社)が、児童書として初めて本屋対象にノミネートされた』ことを報じる記事です。
 著者はミステリー作家知念実希人です。同書は、『知念先生の作品はとても人気があり、サイン会では感激して泣いている中高生もいる。さらに低年齢を対象にした作品があれば、本好きな子供が増える』というある書店長の思いが発端となり生まれたそうです。知念氏も『絵本から本へ移り変わる年齢で読まなくなる子が多い。読書の楽しさを知ってほしいという理想の実現を手伝えるのではないかと思った』と語られています。
 知念氏指摘は、私も感じていました。絵本から本への移行が上手くいかない子供を数多く目にしてきたからです。5年生の学級の読書の時間に補教に行く機会が数回ありました。そのとき、何を選んでよいかわからないと言って、低学年用の絵本を手に取る子供が何人かいたのです。
 面白いから、あるいは簡単だから絵本を取ったのではなく、低学年のときに読んだ絵本以外に知っている本も作者もないというのです。だから馴染みのある絵本に、ということだったのです。中学年の時期が読書空白期として存在し、子供を読書から遠ざけていたのです。
 子供が本に親しむことの意義は多くの人に共通理解されています。そして、様々な手立てや方策が考えられています。しかし、事実は単純でした。知念氏の試みがそれを証明しています。子供が読んで面白い本があればいいのです。
 振り返ってみると、学校の図書室には、小公女や母を訪ねて三千里、十五少年漂流記など私の子供時代からある「古典」以外には、面白い本が少なかったように思います。私は本好きな子供でしたが、そのきっかけはホームズ全集でした。たまたま行った児童館の図書室にあったシャーロックホームズ全集の一冊を読み、すっかり虜になり、毎日のように通って、20冊読み切ったのです。理由は面白かったから、それだけです。上質なミステリーは、子供にとっても面白いのです。
 学校図書館以外に、読書経験の少ない子供が本に触れる機会としてあるのが、国語の教科書です。でも、面白くありません。低学年のころは牧歌的な作品が多く、それはそれで発達段階にあっていると思われますが、高学年になるとつまらないのです。重い内容が多いのです。知的な刺激に乏しく、生命の尊さ、一つのことをやり抜く大切さ、愛する人を失った悲しみと再生という感じで、一言でいえばためになる話ばかりなのです。
 ミステリー、初恋の話、小さな悪行、性の悩み、そんな内容の物語があれば、小学校故学年の子供は何も言わずとも本を手に取るようになると思います。図書館教育を研究する教員の皆さん、小説家の方々への何らかの働きかけを考えていかがでしょうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強くも逞しくもなかった

2024-03-10 08:45:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「世代断絶」3月4日
  『夢なくても生きていける』という見出しの特集記事が掲載されました。ジャーナリスト田原総一朗氏による、NPO法人「あなたのいばしょ」理事長大空幸星氏へのインタビュー記事の後編です。
 前文に、『生き方や教育を巡り、年の差64歳の世代間ギャップも浮き彫りになります』とありましたが、今回興味深かったのはまさにその点でした。
 89歳の田原氏は、『一生をかけてやるほど好きなことを、子供が見つけられるようにするのが教育ではないか』と話し、25歳の大空氏は、『今の子供たちは「好きなことを見つけなさい」「やりたいことを探しなさい」と言われて悩んでいます』と答えます。
 さらに田原氏が、『大学生にどんな企業に就職したいかを聞いたある調査では、「安定している」「自分のやりたい仕事ができる」「給料が良い」がトップ3でした。必ずしもやりたい仕事で選んでいるわけではなく、これでよいのか』と言うと、大空氏は、『それはちょっとマッチョな考え方です。僕は大学生の回答はまともだと思います。一生かけてやりたいことや夢はなくてもちゃんと生きてはいけるんです。この価値観がもう少し世間の支持を得てほしい。生きていること自体が素晴らしいじゃないですか。誰もが大リーグの大谷翔平さんのようにキラキラした生き方はできません』と抗います。
 私はこのブログで、20年ほど前から盛んになってきた中高で行われるキャリア教育について、批判的な意見を書き続けていました。それはまさしく、大空氏が指摘していることと重なります。
 私自身、教員養成系の国立大学を卒業し、教員になり、指導主事として教委に勤務するようになり、統括指導主事、指導室長を務めるという人生を送ってきました。中高生のときに教員になりたいと思っていたわけでもなく、受験で合格し学費の安い、そして自宅から通える大学に進んだだけでした。大学在学中も1~3年生のときには教職に就くということも真剣に考えたことはなく、4年生の夏になると各教委の採用試験が始まるので受験して受かった、そのまま深い考えもなく教員になったというだけのことでした。
 教員になってからは、このブログで再三触れた目賀田先生との出会いもあり、社会科研究に打ち込み、その流れで指導主事に、室長にとなったのです。途中、尊敬できる先輩にあって薫陶を受けましたし、慕ってくれる後輩もいました。教え子の中には、いい加減な教員であった私に今でも「恩師」として接してくれる人もいます。幸せな、それなりに充実した人生だったと言ってもよいと思います。
 しかし、田原氏の見解に沿えば、私は本当の意味での教育を受けてこなかったことになりますし、「こんなことでいいのか」と言われるような職業選択をしてきたことになります。でも、失敗の人生だと言われても頷けません。
 2人のやり取りはさらに続きます、田原氏が、『一度しかない人生なので自分のやりたいこと、好きなことをやった方がいいと思いますが』と言い、大空氏が、『その言葉は不登校の子供たちには響かないと思います。30万人近くの子供たちが、学校に行くために家から一歩出るだけでも、しんどいといった状況にあるのです(略)(学校の教員)みんなが夢や情熱があって生きるべきだと考え、自分もそういう思いをもって生きてきたとすれば、不登校や自殺に至る子供たちの気持ちはなかなか理解できないと思います』が反論するのです。『先生たちも、どこかまっちょなのではないでしょうか』と言いながら。
 私は、再三出てくる大空氏の「マッチョ」という言葉印象に残っています。マッチョな親と教員が、子供を「そんな弱いことでどうする」と上から目線で叱咤する、実にストンと落ちるイメージです。私はマッチョではありませんでした。もしかしたら、その点だけが私にとって教員向きな資質だったのかもしれません。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〇〇も▽▽も

2024-03-09 08:57:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員は支援者?」3月3日
 専門編集委員滝野隆浩氏が、『語尾は「ね」で終えよう』という表題でコラムを書かれていました。その中で滝野氏は、めぐみ在宅クリニック院長小澤竹俊氏の講演会の内容を紹介なさっています。『先生は「苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいるとうれしい」と繰り返す。そうした「わかる人」になるためには、相手の話に対し「……なのですか」と疑問形ではなく、「……なのですね」と反復する形で答えようと訴えている』。
 その後も、『質問したら心は閉ざされる』『聞きたいことを聞くのではない。相手が話したいことを話してもらうのだ』などの記述が並びます。援助的コミュニケーションにおける「三つの約束」として、『語尾は「ね」で終わる』『メモを取らない』『安心感のある態度で聴く』を提示しています。
 とてもよく分かります。私自身、話すのは好きだけれど聞くのは嫌い、という性格なので、話している最中に「……か」と質問されるのは好きではありませんし、聞く側のときにはつい質問してしまい不快な顔をされることも度々でした。本当にその通りだと思います。そう考える一方で、こうした話を耳にするといつも浮かぶ疑問があります。
 それは、教員は基本的には「援助的コミュニケーション」を心掛けるべきであることは否定しないものの、そうではないコミュニケーションを求められる場合もあるのではないか、ということです。
 分かりやすい例でいえば、モンスターペアレンツに対応するときです。メモも取らずに、「……ね」と頷いてばかりいては、とんでもない結果に陥ります。刑事事件になるような問題行動をとった子供に対して事実関係を確認するという場合はどうでしょう。テクニックとして相手の話を聴き続けることは私もしましたが、どこかで「聞きたいことを聞く」がないと事態は前に進みません。
 より日常的な例として、授業中のコミュニケーションはどうでしょうか。その多くが「質問」から始まります。良い授業は、教員が「話させたいことを話させる」のではなく「子供が話したいことを話させ」つつ、授業の目指す方向性に沿って話を展開させるのですが、それでも「質問」なしでは始まりません。
 教員研修では、ほとんどの教委で、名称はともかく、教育相談的手法について学ぶ機会を設けています。そこでは受容の大切さ、共感の重要性が強調されます。もちろん、正しいのですが、中には教員と子供の間のコミュニケーションは全ていわゆる「援助的コミュニケーション」であると誤解してしまう若い教員がいるのです。
 それでは授業も学級経営も成り立たないのです。援助的コミュニケーション以外の○○コミュニケーションと▽▽コミュニケーション、そういう使い分けが必要なはずなのですが、○○も▽▽も意識して学ぶ場は少ないのです。教員育成の問題点だと感じているのですが。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする