今日「認知科学」という妙に難しそうな
勉強をしている学生と知り合った。
彼女によれば、人間はどんなものを見るときにも
「錯覚」しているらしい。
そういえば……
僕が学生の頃の話だが
妙な看板の思い出がある。
まず「おこと教えます」。
漢字で書けば「お琴教えます」と読め
何ら問題ないんだけど
ひらがなだとどうしても
「おとこ教えます」と読めてしまう。
これは人から聞いた話。
次に「入間メモリアルパーク」。
西武線沿線の街「入間(いるま)」にある
霊園=メモリアルパーク、なわけだが
「間」という字がクセモノで、どうしても
「人間メモリアルパーク」に見える。
しかし、ボクはここで、敢えて
コトを大きくしたい。
もしや、人間が見ているものは
すべて錯覚なのではないか?
たとえば、家族のことを話すとき
ものすごく優しい顔になる人がいる。
もちろん、素晴らしいことだ。だが
戦国時代なら、子が親を、親が子をあやめるのは当たり前だったはず。
家族が愛しい、という世界観も
世が世なら「錯覚」に過ぎない。
幕末に、面白い集団があった。
その名も「天誅組」。尊皇攘夷こそを正義と考え
ごく簡単に言えば、自分の考えに染まない人に
「天誅」を下すわけだ。
ちょっと滑稽なほど自己中心的だし
実際「攘夷」の方は、すぐ時代錯誤なことになる。
ようするに「錯覚」だ。だが……
錯覚していたからこそ、彼らは行動できた。
思えば、この天誅組はじめ、世の中で
「○○主義」と呼ばれるものの多くは
錯覚なのかも知れない。
だが、思うのだ。錯覚の世界は美しい。
常識では考えられないほど徹頭徹尾
「錯覚」すれば……
ただの失恋騒ぎが「ノルウェイの森」になり
ただの浮気が「失楽園」になる。
自分たちの憤懣ないエネルギーの行き場所が
「天誅組」になり、それは凡人を
歴史の物語の登場人物にしもした。
どうだろう? 「世界観とは錯覚である」。
学生に話すと、よくわからない顔つきをされた。
勉強をしている学生と知り合った。
彼女によれば、人間はどんなものを見るときにも
「錯覚」しているらしい。
そういえば……
僕が学生の頃の話だが
妙な看板の思い出がある。
まず「おこと教えます」。
漢字で書けば「お琴教えます」と読め
何ら問題ないんだけど
ひらがなだとどうしても
「おとこ教えます」と読めてしまう。
これは人から聞いた話。
次に「入間メモリアルパーク」。
西武線沿線の街「入間(いるま)」にある
霊園=メモリアルパーク、なわけだが
「間」という字がクセモノで、どうしても
「人間メモリアルパーク」に見える。
しかし、ボクはここで、敢えて
コトを大きくしたい。
もしや、人間が見ているものは
すべて錯覚なのではないか?
たとえば、家族のことを話すとき
ものすごく優しい顔になる人がいる。
もちろん、素晴らしいことだ。だが
戦国時代なら、子が親を、親が子をあやめるのは当たり前だったはず。
家族が愛しい、という世界観も
世が世なら「錯覚」に過ぎない。
幕末に、面白い集団があった。
その名も「天誅組」。尊皇攘夷こそを正義と考え
ごく簡単に言えば、自分の考えに染まない人に
「天誅」を下すわけだ。
ちょっと滑稽なほど自己中心的だし
実際「攘夷」の方は、すぐ時代錯誤なことになる。
ようするに「錯覚」だ。だが……
錯覚していたからこそ、彼らは行動できた。
思えば、この天誅組はじめ、世の中で
「○○主義」と呼ばれるものの多くは
錯覚なのかも知れない。
だが、思うのだ。錯覚の世界は美しい。
常識では考えられないほど徹頭徹尾
「錯覚」すれば……
ただの失恋騒ぎが「ノルウェイの森」になり
ただの浮気が「失楽園」になる。
自分たちの憤懣ないエネルギーの行き場所が
「天誅組」になり、それは凡人を
歴史の物語の登場人物にしもした。
どうだろう? 「世界観とは錯覚である」。
学生に話すと、よくわからない顔つきをされた。