como siempre 遊人庵的日常

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其の四 香坂昌信

2007-06-21 16:16:35 | Cafe de 大河
 しばらくぶりのあの人シリーズです(汗)。ドラマが進んでしまうと、あの人は誰ったっていまさら…というのもあるんですが。気分を変えて今回は若いキレイどころをひとつ。今後の活躍への期待も踏まえまして、春日源五郎=後の香坂昌信をとりあげます。
 この役は昭和の大河「武田信玄」では村上弘明が演じていて、ワタシの中ではここ20年不動の脳内キャストでした。が、今回フレッシュな田中幸太朗君のまぶしさが次第に気になり始め、村上弘明をじわじわ上書きしつつある、という状況です。

 香坂昌信が生まれたのは、現在の笛吹市石和町、JR石和温泉駅です。ここは昭和30年代にブドウ畑から突然噴出した温泉なので、いわゆる「信玄の隠し湯」ではありませんが、もともと武田家との由緒はふかく、信虎時代に躑躅崎に引っ越すまで守護の城館が置かれていました。
 香坂昌信は石和の豪農・春日大隈の子に生まれ、、幼名を源五郎、源助など称しました。農村からお屋形様の奥近習に大抜擢されたのは天文11(1542)年、16歳のときのことです。武田晴信は、その前年にオヤジ信虎を駿河に追放し、武田家を継承したばかりでした。
 笛吹川のほとりにある石和一帯は水害に悩まされがちなところ。ドラマの中でも源五郎君の実家の農家で、軒下に船を常置しているところが描かれていましたが、あれは細かい考証でした。聡明な源五郎君が、治水工事をめぐって意見を述べたことからお屋形様の目にとまり…というのも説得力あってよかったです。
 実際のところ、この大抜擢の理由は不明なんですが、ようは鄙には稀な美少年だったから…と一般には言われます。超お気に入りの小姓となり、二十二歳の晴信の身の回りの世話などをすることになった源五郎になにが起こったか…と、それはまあご想像にお任せするとしか申せませんが、晴信自筆の「たくさん小姓が居る中でお前が一番可愛いんだよ、だからあんまり騒がないで、ボクらの愛を信じて…」(注*意訳)とゆーふーに取れるお手紙が現存することから、色々に取りざたされるようで(ていうかそのままズバリなんだろうな。当時別に珍しいことでもなし)。
 でも、ただイケメンなだけではなかった源五郎君。まもなく、小姓衆のなかでも選りすぐりのエリート武将候補生『使番』という役にステップアップし、信玄のもとで文武の道を教育されることになります。

 この人の名前についてはちょっと迷うところなんです。というのはオフィシャルなフルネームは「香坂(高坂)弾正忠昌信」ですけど、実際はほとんど終生「春日虎綱」という名前で生きたらしいんですね。でもここで春日虎綱といってしまうと誰のことだかわからないので、苦し紛れにとりあえず「春日弾正忠昌信」で行こうかと思います(弾正忠は武家官位)。
 さあ、そのようなわけで春日源五郎が春日弾正忠昌信、あるいは虎綱(めんどくさ…)として武将デビューするのは、26歳のとき。寵童としてはさすがに年をくっていましたが、16歳で小姓にあがって26歳で侍大将というのは、異例のスピード出世だったみたいです。
 天文20(1552)年、騎馬百騎の侍大将になった春日源五郎あらため弾正忠昌信は小岩城攻めで武功を上げ、さらに加増され、またたくまに重臣に列せられると、天文21年には小諸城を預けられ、27歳で城代になります。
 それは村上義清との因縁対決の真っ最中のことで、上田原の戦いと戸石城攻めで武田軍はかつてない惨敗を喫し、板垣信方や甘利虎泰など歴戦の宿老を失ったばかりのころでした。消沈ムードの武田軍団のなか、若い昌信は世代交代の旗頭として、要衝地の小諸をしっかり治め、その年、真田幸隆の調略も功を奏して村上義清は葛尾城から敗走しています。

 敗走した村上義清は越後の上杉謙信をたより、小笠原長時や関東管領上杉憲政からも頼られた謙信がいよいよ信濃に出兵してきて、天文22(1553)年、川中島合戦がはじまります。昌信は最前線の基地・海津の城将という重責をいきなり任され、間歇的にのべ12年におよぶ合戦の期間中、最前線の責任者として奮戦しました。
 最大の激戦にして事実上のクライマックス・第四次川中島合戦(永禄4・1561年)のとき、昌信は35歳。かつての美童は武将として心身ともに充実した働きざかりになっていました。
 昌信の海津城は合戦の総本部として機能し、昌信自身も先鋒として大活躍します。有名な啄木鳥戦法では、別働隊の大将として妻女山の上杉勢の背後を狙いますが、巷間伝わるように、これは作戦を見抜いた上杉勢に切り抜けられて失敗。昌信は別働隊をつれて本陣復帰のため駆けに駆け、あわや大敗寸前にあった本陣をすんでのところで救ってドローに持ち込んでいます。
 川中島がはっきりした勝敗無しに終わったとき、春日弾正昌信は、宿老たちを多く失った武田軍で名実ともに中心的武将になっていました。このとき、歴戦での戦功を称えられて信濃の名家・香坂(高坂)家の名跡をもらい、香坂弾正忠昌信という公式ネームに改名しているのですけど、どういう事情かこの名前はあまり使わず、すぐにもとの春日姓に戻しているということです。

「甲陽軍鑑」で春日弾正は異名を「逃げ弾正」と言われました。へっぴり腰という意味ではなく、良い意味で慎重で、功を焦って軽々しく動いて失敗することがほとんどない、深慮遠謀に優れた知将ということですね。ティーンのころからお屋形様のそばで戦を学んだ昌信は、武田流の戦哲学を誰よりも正確に継承した人なのでした。
…ということで、「甲陽軍鑑」。武田家の戦記であり戦の教科書とされるこの書物は、香坂弾正昌信の著という体裁になっています。(『山本勘助は実在したか?』ご参照のほど)
 まあ、これをソックリ昌信が、その晩年にコツコツ書いたってことはないでしょうけど。それっぽいものは書いているかもわかりませんし、まったく仮託かもしれませんし。仮託だとしたらそれはそれで上手い人選だなあと思うし、原型を本人が書いていると想像するのも、また夢があっていいかもしれませんね。
 かように戦上手で聞こえた春日弾正は、信玄の戦いの華麗なクライマックス・徳川家康を敗走させた三方が原の戦いでも奮戦し、翌年、長年つかえたお屋形様を送って武田家の代替わりにも立ち会います。
 後をついだ勝頼の代には、二代・三代と仕えた宿老たちがどんどんあの世へ去っていくなか、アドバイザーとして勝頼を支え、父信玄の哲学や戦国武将のあり方を教育しようとしました。そして後年への憂いでいっぱいになって『甲陽軍鑑』を書き上げた…とするのも、いかにもな感じで、とてもいい話ではありませんか。
 勝頼が長篠の合戦で大敗し、戦の世界のダイナミックな変容を世に印象付けたその3年後、春日弾正忠昌信は、52歳で病没しました。

 いまはまだピチピチの美少年の源五郎君が、ドラマの終盤ではあぶらの乗り切った武将になっているところを、どのように演じるのでしょう。クライマックスにむけたお楽しみにしたいと思います。


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