ぽかぽか容器

元バレー坊主。

母が倒れ…

2017年11月26日 | 日記
去る11月9日

母がくも膜下出血で倒れ、救急病院へ搬送されました。

結果を先に申し上げると、なんとか一命はとりとめました。


倒れたのは、冒頭に記した日の夕刻。
私は帰宅途中の車の中で、あと少しで自宅というタイミングで、
娘からのLINE。

「おばあちゃんが倒れた、これから脳を見れる病院へ行くって」

あとから聞いた話ですが、これは、救急隊員の方から、
私へ連絡を取って欲しいと要請されてのことだったそうで、

自分では動転して、ただただ救急隊員の方の所作を見ながら
立ち尽くしてしまっていたそうでした。


緊急性の高い状態だと判断されたために、建物の七階にある自宅からの搬出に時間がかかり、
私は、救急車の発車前に自宅に到着しました。


繋がれた、バイタルサインを表示する機械に表示された、
血圧「240」の表示。

眉をしかめ、必死に激痛と戦う母の顔。
なんとか、意識は失っていなかったものの、
その様子から、脳になんらかの異常が起こったことを否定できる要素は、
なにも見つけられませんでした。


救急車は、緊急の救急外来のある、自宅からは比較的近い某大学病院へ行くとのこと。


長い夜が始まりました。


病院までの道程も、金曜日の、道路が混雑する時間で、
救急車であっても、一般車両が避けようのない状態で繋がってしまっていては、
すり抜けて通行することができず、とても長い時間に感じられましたが、
実際にどれほどの時間がかかったのか。
ただひとつ、覚えているのは、
その状況に、焦れていたのではなく、
「(母の人生が)終わるのか? これで終わりなのか?」
という自問自答をくり返していたことです。


いま起こっている事柄の中から、なにか一つでもいいから得たい

「安堵の確証」

それを嘲笑うかのように、ときおり大声で母に声をかける、救急隊員。
意識の有無を確かめていたのだと思います。

つまりは、意識を失う恐れがあり、且つ、意識を失うことが危険であることを表しているのだと。

そして、表示され続けている異常な数値のバイタルサイン。


ついに病院に到着し、開いた救急外来の扉の中には、
厳しくも淡々とした、大勢の無表情な病院スタッフ。
これから、命のやりとりに挑むからなのだな、と、絶望したことを覚えています。


立ち尽くしているわけにも行かず、
離れて暮らす姉へ連絡をし、必要な事務的な手続きを済ませました。

その際、弱って、ともかく僅かでもいいから希望にすがりたい心は、

その事務的手続きの中にあった、
「入院の手続き」という項目を素通りできませんでした。
中には、入院生活に必要なもの、などの記載もあり、
「入院の手続きをするということは、助かるということなんだろうか…」



その後、上記の疑問に対する確かな回答が得られることはなく、
ともかく、緊急な状態を脱するための処置が取られたと、医師から伝えられ、
そして、くも膜下出血であろうこと、手術が必要であることが告げられました。

そのために、輸血が必要になるかもしれず、それに対する同意書、
全身麻酔をかけるための同意書、その他、手術のために行われる、
同意が必要な行為の説明を受け、署名を求められ、
その間も、母の容態に関する説明は一切無く、
この後、執刀医から説明がある、とだけ告げられ、

母は集中治療室へ、私は、その手前にある待合室へと通されました。



何時間経過したか。
沸騰前の鍋の湯に沸く気泡のように、
次から次に不安が心に沸き、必死でそれを否定できる要素を探すも、叶わず、
空しく、不安で、どこへ気持ちを向ければよいのか、どこへ向かうのか、
目を閉じても、開けても、逃れることのできない現実と、戦っていた、というよりは、
ただただ、打ちのめされていました。


時折部屋のドアがノックされるも、ほとんどが看護師さんの、
追加の事務手続きであったり、それはさっき書きました、というような書類であったり…
そして、何度目かのノックが、先生だったのですが、執刀医ではなく、
その手術の助手を務める、という先生でした。

部屋にあった大きなディスプレイに映し出される、母の脳血管の3D画像。
血管の一部に、異様に肥大した箇所があり、それはつまり動脈瘤で、
それの破裂によるいわゆる「くも膜下出血」という診断でした。

破裂した箇所は、右目の奥だとのことで、
一応現状では、薬で血圧を下げ、生理的な反射も、
必要最低限に薬によって抑えていると説明されました。

そして、この先生からは、あまり詳しい説明はなく、
ともかく、この後、緊急の手術を行うということだけが告げられたので、
私は、疑問の一つであった、
「入院の手続きを進めるということは…」
の疑問を問いかけてみました。


帰ってきた答えは、やはり束の間の安堵すら許さないもので
「手続きは事務的に必要なものです。現状では、非常に危険な状態であると言わざるを得ません」



その後も、途方も無い絶望に打ちのめされながら、
ともかく次の進展を待ち続けました。

どれほど時間が経過したのかは覚えていませんが、
ついに、主治医の、執刀医の先生がお見えになりました。


病状と、手術に関する説明を受けましたが、
いっそ、それこそが、こちらの心のダメージに対する配慮なのでしょう。
淡々と、一切の感情を伴うことなく、説明が続きました。
その内容には、容赦などなく、脚色もなく、重い現実を次々と突きつけられました。

まず、高齢であること。
これが非常に問題であり、現状の母の状態を数字で表すとしたら、
仮にくも膜下出血の病状に五段階がある(五が最も深刻)とした場合四くらいの状況であると。

まず直面する危険としては、二次的な血管の破裂で、
これが起こってしまったら助からないと。
これの対処として、現在薬によって、状況をコントロールしている。
だが、次の危険として、手術中にその二次的破裂が起こることもあり得、
この場合も、それは死に直結すると。


先生は、年間五百ほどの脳外科手術を担当されているとのことでしたが、
その、術中の血管破裂は、五百人中四人ほど起こっていると言われました。

パーセントで表せば、1パーセントにも満たないのに、
この時は、そのあまりに現実的な数値(つまり心は、もっと天文学的な数値を望んでいた)に、
動揺したことを覚えています。


そして、手術自体は、脳の出血を止めるだけのものであり、
年齢的に考えても、何の後遺症も無く、元の生活に戻れるような回復は、
恐らく期待できないだろう。
と、説明は締めくくられました。


もちろん最善は尽くすと、約束してくださいましたが、
手術によって命が助かるかどうかも、五分五分であるとも言われました。


緊急であることには違いないけれど、
その病院は、かなりの広範囲をカバーしている
つまりそれだけ、重篤な患者は搬送される病院であり、
先生からの説明を受けていた時間も、別の大変な手術が執刀されている最中で、

確か、20:00くらいではなかったかと記憶していますが、
術式開始は、早くて零時、前の手術次第では、一時を過ぎるかもしれないと説明されました。


絶望を抱えたまま過ごす数時間。

気持ちを紛らわすことなどできるわけがなく、
ただただ、不安に怯えながら、
時折、突然ノックされる扉の音に、胸を締めつけられ、
二時間ほどはその部屋でただただ流されるままに過ごしました。

「非情」と、罵られるかもしれませんが
(実際にこの後、自身も巨大な自責の念に苛まれる)、
勤務先のその頃の状況により、まだ存命である状態では欠勤することができず、
私は、翌日の勤務に備えて、娘と、あとから到着した姉を残して、
帰宅することにしました。

帰宅したところで何も手に付かず、
このこととはまったく無関係な事情で、前日寝不足だったので、
とりあえず、服を着たまま、ベッドに横になりました。

しばらくして、姉からのメール。
手術室に入ったとの連絡でした。
時計を見ると、零時半を少し廻っていました。

実は病院を後にする前に、姉と話し、
「こういう状況だから、これからの連絡はメールでしよう。電話は、母の命に関わる状況の連絡だけにしよう」
と決めたのでした。

執刀医の先生からは、開頭手術なので、短くても2~3時間、
長ければ6時間を超えると説明されていたので、
朝までかかるのだろうな、と、これから過ごさねばならない、
とてつもなく重い時間の長さに、心が沈みました。


嘆き、悲しんだところで、現状が回復するわけではないと、
今現在、母は自身の命の危機と戦っているのだと、
何度も気持ちを鼓舞しました。
何度も、先に亡くなった祖父、祖母、父、おじ、母の友人だった方々にお祈りし、
命だけは助けてくださいと、まだそちらへ連れていかないで、と、
お願いしました。


結局、うとうとはするものの眠ることはできず、
メールが届くこともなく、このままこうして過ごしていても、
重さに気持ちが負けてしまいそうだったので、
まだ早すぎる時間だったのですが、車で勤務先へと向かいました。


勤務先の手前で停まり、まだ出勤時間まで二時間以上あったので、
車の中で、静かに目を閉じてじっとしていました。

いずれ必ず訪れる、結果の知らせを待ちながら。



手術室に入ったと連絡があった零時半から、過ぎること六時間半、
朝の七時少し前に、突然けたたましく電話がなりました。

すうっと、何かが身体の中から抜け落ちていったような感覚を覚え、
覚悟を決め、スマホの画面を見ました。

「姉 携帯」

の文字。



様々な思いが去来しました。

ただ、姉との、帰宅時の取り決めがあったので、

嗚呼、そうか。
駄目だったんだ。
と、そう思ったことだけは、明確に記憶しています。



結論から言えば、手術が成功したとの連絡でした。
内容が濃く、話が長くなるので、電話の方がよかろうという、
姉の判断でした。

覚悟を決めて取った電話だっただけに、
正直、本当に脱力してしまいました。
が、少なくとも命は繋がったのだと、
車の中だったこともあり、子供のように泣きはらしました。




その後、一応意識は戻り、声をかけたら微かに頷いて反応してくれたことに歓喜して、
舞い上がってしまいましたが、事はそれほど楽観できるものではなく、
手術から四日後、これ自体は脳手術の後に顕著に見られる症状らしいのですが、
脳が腫れてきて、そのままでは脳幹を圧迫して、深刻状況に陥る恐れがあり、
頭蓋骨を外す手術を行わなければならないとの医師からの連絡があり、
また気持ちがたたき落とされました。

この時、心の底から祈りました。
命だけ、ともかく命だけは助けて、と。




それから二週間が経過し、執刀医からは、手術後二週間が山と説明されていたので、
とりあえず、なんとかそこは乗り越えました。

ですが、一時意識が戻ったとは言え、簡単な意思の疎通はできても、
目も閉じたまま、つい先日までは、口や頭に何本ものチューブが繋がれた状態で、
最近はまた、軽眠傾向が続き、まだ一進一退の状況を脱していません。


でも、ともかく、願いは叶い、
命は助かりました。
命だけは助かりました。

これは、私のエゴなのかもしれません。

命だけが助かり、このあと、深刻な後遺症に悩まされるかもしれないのは母自身であり、

現在も、本人にしかわからない不自由に束縛されているのです。

それに、このあと容態が一転する恐れも、ゼロではないようです。


それでも私は、必ずもう一度、この家に母を連れて帰るのだと、
その希望を決して諦めないと、心に誓いました。



いい歳をした、おっさんが、
なにをマザコンのようなことを言っているかと、笑われることでしょう。


ですが、愚か者の私は、過去に、
母にどれほど苦しい思いをさせてきたことか。

とてもこのようなブログ環境に書けることではないけれど、
普通の親子ならあり得ないような、
大変な屈辱を味あわせてしまったこと、不安を与えてしまったこと、
悲しみを与えてしまったこと…

自身の重ねてきた親不孝を数えたら、枚挙に暇がありません。


母は真面目で、まっとうに、正直に、苦難を耐え忍び、
生きてきました。


倒れた時…
恐らく、人生で初めて経験する痛みだと言われる、激痛の頭痛が襲い、
薄れる意識の中で、きっと、これは脳内出血だろうと判り、
今、自身に迫り来る、命の際の恐ろしさが、
どれほど怖かったことか。

このことが息子の私には、無念でなりません。

母がこんな怖い思いをして、苦しい最後を迎えなければならないなど、
とても受け入れられるものではありません。

受け入れられないからと言って、すべてが思い通りになるわけではないけれど、

いずれ訪れる母の最後が、必ず安らかのものであるように、

今の私にできるすべてで、臨みたいと思います。







最後に。

このブログをご覧になった方へ。

執刀医の先生から聞きましたが、脳内出血というのは、
現実として、圧倒的な男女の発症格差があり、
女性の発症率が男性に比べ非常に高いのだそうです。

不幸な話ですが、娘の同級生の職場では、
三十代の女性が、くも膜下出血で命を落とされたそうです。

私がかつて活動していたソフトバレーの知り合いの方も、
幸い命は助かったものの、現在リハビリでご苦労されています。
この方も女性です。

女性の方はもちろん、男性でも、
どうか、定期的な脳の検診を受けられてください。

実は母は、不幸にも倒れるひと月ほど前に、検診を受けていたのです。
その時は、異常は発見されなかったのです。
それでもこうして、発症する時は発症してしまうのです。

ですから、そのリスクを少しでも低減させるために、
定期的な検査は絶対に必要です。

病院の中には、脳検査に一万円を越す、時には数万円の設定をしている病院もあるそうですが、
通常数千円(三千円くらい)で受けられると、執刀医の先生がおっしゃっていました。
個人の特定に繋がってしまうので、母が現在入院している病院名は明かせませんが、

ぜひご自身で受けられそうな病院をお調べいただいて、
検査を受けていただきたく思います。



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