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2018年6月勉強会資料

2018-06-19 14:27:45 | 日記
2018年6月勉強会資料

実相に全托
2018/6/16
生命の実相というものが
人間と世界の本体であり、
“いのち”そのものだから
それを信じて
それのみを唯一の実在と観て
それに全托します。
そのためには
“生命の実相”への信が不可欠ですが、
やっとその信が
できてきました。
病気とか迷いはナイものだから
実相というものが顕われるにつれて
結局は実相に属するものごとが現象化してくるので、
現象にあたふたすることなく
実相に全托することだけ
してまいります。
誰でも幼な子の如く実相を信ずれば
神の国へ入れます。

観念で病気を無にする
2018/6/15
病気はナイんだから
「ナイ」「ナイ」って
自分自身で断定し続けて
病気を無くしてしまった人が
多数いると
藤原先生の本で知りました。
神様は病気を造らないんだから、
ことあるごとに
「神様は病気を造らない。ナイんだ」
と断定し続けて
観念の力で
病気を無にするのだということです。

「信」成立の方へ動いている
2018/6/15
奇蹟的な神癒を得た体験談を読んだり
『信仰の科学』という本を読んだりすると
必ずしも
「信」の成立には
難行苦行とか
徹底した宗教的求道を必要としないで
神癒を得た例が
載っていることに気づく。
信が成立するには、
「神は人間を完全なものとして造った」
或いは「神の造ったものに不完全なものがあるはずがない」
という信が
あれば十分なようである。
これが「実相を観る」ということであり
現象の奥にある「完全性」を
信じるということなのだ。
私もその方向へ向かっている。
神想観を続けるべしである。

現象は自分の“いのち”
2018/6/13
本当の自分って
“いのち”なんだって
分った。
アサガオの“いのち”って
双葉も茎も葉も花も種も
土や空気や水などの環境的なものも
全て含まれているのと同じように
人間の“いのち”も
人間の肉体も親も子も祖先も友達も
犬猫鳥や植物や太陽、月にいたるまで
人の環境全体も含めていうのである。
つまり人間の“いのち”(実相)が
肉体や現象として
展開している。
理念だからだ。
だから現象をみたら
これは自分の“いのち”の現われと
思えばよいのだ。

神想観が運命改善の絶対的な決め手となる
2018/6/10
藤原敏之先生は
「神想観こそが運命改善の絶対的決め手である」と
断じておられますが、
私もその通りだと思います。
ただこれは三正行をやっていることを
前提として書かれた言葉ですから、
聖典・聖経読誦、そして愛行を欠かさないことが
不可欠であります。
(参考 あなたは絶対救われる 藤原敏之 日本教文社)
【要は現在意識をどこまで整理して潜在意識に一致させるかにあるのであります。生長の家の神想観こそが妄念の処理と実相直視に偉大な働きを現すのであります。現象なしと否定し切ること、実相だけを観るのが神想観なのであります。この神想観によって絶えず明るい想念をもちつづけることが、運命改善の絶対的な決め手となるのであります。】
これはものすごい事実であります。

【わが内に仏を観、生命を観たものだけが、一切を物と観ず、仏の生命として観ることが出来るのであります。】
2018/6/9
やはり神想観の継続であります。
神想観を、聖典・聖経読誦、行の実行とともに続けて行った先に、
観の内容がどんどん霊化(実相化)してくるのであります。
(参考 あなたは必ず救われる 藤原敏之 日本教文社)
【山川草木国土悉皆成仏
この偉大な発見こそは、仏教で説かれる不滅の真理となったのであります。これが唯物論の否定であり、物質の否定なのであります。仏教哲学のことを、空の哲学、無の哲学というのはそのためであります。一切のものを否定し尽されたときに、「天上天下唯我独尊」なる大自覚に到達せられたのであります。
その場合の我は、肉体の我ではなくなっていたのであります。本当の我が生命であると気がついた者だけが、生命を観るのであります。すべてのものが、物でなくなり、生命として観られたのであります。その時発せられた言葉が「山川草木国土悉皆成仏」と申され、一切のものが悉く仏の生命として、捉えることが出来たのであります。】
【わが内に仏を観、生命を観たものだけが、一切を物と観ず、仏の生命として観ることが出来るのであります。】

「神に生かされている」という自覚が「実相への信頼」に繋がる
2018/6/9
藤原敏之さんの「あなたは必ず救われる」という本に
【人間は自分の力では息ができない】と
書かれている部分があり、
「そうだ、その通りだ。神様の力で、息をしているのだ」
と思いました。
ここで思い出したのが、招神歌の
【吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能。】
という言葉でありました。
自分が生きているのは、すべて、神の力によるということが、藤原先生のご本で明瞭になり、
神に全托して生きようと思います。
「自分の実相が自性円満完全である」ということが
「生かされている」という自覚で、
さらに納得して受け入れられるようになってきました。
「神に生かされている」というのは
まさに「実相」の力によるものであります。
この現象世界が丸ごと、
実相世界である、
これは壮大な発見であります。

「人新たに生れずんば神の国に入ることあたわず」とは・・・
2018/6/8
藤原敏之先生は
「あなたは必ず救われる」(日本教文社)という本の中で、
【キリストが「人新たに生れずんば神の国に入ることあたわず」と教えておりますが、新たに生れるとは、もう一ぺんお母様のお腹に入って出直すということではなく、自分だと思っていたのを、また自分のものだと思っていたものも全部神様にお返しすることであります。】
と書いておられます。
新約ヨハネ伝において
ニコデモにキリストが言った言葉を
「霊によって生まれる」とのみ解釈すると
そんなことできるかしらと
思ってしまいますが、
藤原先生の解釈なら
私にもできそうです。

「生命の実相」の自性円満なること
2018/6/7
『生命の実相』第一巻に
【「生命の実相」の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば、 大生命の癒力(なおすちから)が働いて”神癒”となります。】
と書いてありますが、
藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」(日本教文社)という本にも
実際に
「生命の実相」の自性「円満完全」を自覚するだけで
神癒が起こると
書いてありました。
そうだ、人間は神の子なのだから、
つまり「神の理念」なのだから、
そのままで「円満完全」なんだと、
思い付きました。
「生命の実相」に書いてあっても
自覚することにつながらないで
今迄来ましたが、
イエス・キリストも
ロゴス(神の言)であると
新約ヨハネ伝は書いていますし、
まさに人間は
自性「円満完全」であるわけです。
この「信」が大事なのだと
思いました。
「信」が知から変わるまで
私の場合、時間がかかりました。

「信」は他力の行から生まれる
2018/6/6
藤原敏之先生は
『すべてを癒やす道』という本の中で
「信」は実感だから
行じないと生まれないと
書いておられます。
「行じることによって信が生まれる」と。
また行は行でも自力の行でなく
他力の行から生まれる、とも
書いておられます。
動かないで何もしないでは
「信」は生まれてこないわけです。
本当にその通りだと
思うものです。

表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入る
2018/6/4
今日の引用文については
私は何もコメントできなくて
申し訳ありませんが、
投稿の必要を感じましたので、
書き写しました。
(参考 神想観の神髄 谷口雅春)
【「自己の内に宿る仏性」又は「爾(なんじ)の内に宿るキリスト」という場合の「内」とは、「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就するのである。】

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