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宮きよめの祭におけるイエスの説教

2015-11-09 22:36:27 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第10章
(10・22―39)宮きよめの祭におけるイエスの説教―イエスと父は一つ
(22)そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。
(23)いエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。
(24)するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。
(25)イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。
(26)あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。
(27)わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。
(28)わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はいない。
(29)わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
(30)わたしと父とは一つである」。
(31)そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
(32)するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父によるよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。
(33)ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。
(34)イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
(35)神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
(36)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
(37)もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
(38)しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくとも、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。
(39)そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・24 ユダヤ人はイエスがメシアか否かについて決定しかね、迷い続けている。
・25~30 イエスの行った《しるし》が、イエスが父から派遣されてことを証明している。彼らが不信に陥っているのは、要するに彼らがそのように定められているからである。神は彼らを、イエスに属する羊として定められなかった。もし彼らがイエスが羊であるなら、イエスの所に来て、イエスを信じ永遠の命を受けるはずである―。以上の論述において、ヨハネによる福音書の特色である「決定論」が主張されている。ユダヤ人がイエスを信じないで、十字架につけたのは、彼らが神から捨てられ、滅亡に決定されているからである。
・27~29 は、その反対に、信徒が救いに定められていることを、主張している。《わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない》。神の決定した救いの事実は、人間の力をもって動かすことは不可能である
・30 は、ヨハネによる福音書のキリスト論の最高頂である。イエスと父とはただ親密な、無比の交わりの中にあるというに留まらない。イエスと父とは《一つである》。それに呼応して、イエスと信徒との関係も一つであって、永遠に変わらない。
・31 32 ユダヤ人のイエスに対してなした非難は、イエスがロゴスであることの啓示がはっきり宣言されてくるにつれて、しだいに激しさを加えてゆく。イエスと神とが一つであるという言葉を聞くと同時に、彼らは耐えがたくなり、ついにイエスを石打ちにしようとする。
・33~38 しかもなお、論争は続く。そしてイエスがなした神のわざを証拠として、同一の説教がなされる。イエスは自分の《しるし》を基として主張し、ユダヤ人は、イエスが《人間であるのに、自分を神としている》がゆえに、すなわち《神を汚したから》殺そうとしたのである。かれらの間に共通の広場が見いだされないのは、神の決定によるのである。
・34 の《あなたがたの律法》は、詩篇82・6をさす。神の言の委託を受けた者が《神々》であるなら、神から特別な使命を受けてつかわされたイエスが、自らを《神の子》と言っても、神を汚すことにはならない。かつその上に、すなわち単に委託を受けたばかりではなく、イエスはその委託にこたえて《父のわざを行っている》のだから、彼らは《父がわたしにおり、わたしが父におることを知って悟る》(38)べきである。

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