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迷いの小智才覚を捨てて「久遠の実相」に委せるべし

2018-04-21 16:43:56 | 日記
迷いの小智才覚を捨てて「久遠の実相」に委せなさい
と雅春先生はお書きくださっています。
やはり神想観で実相を観じることです。
(生命の実相 第17巻 谷口雅春)
【イエスが「我に従え」と言われたのは、イエスみずから「われはアブラハムの生まれぬ前から実在する」と言われたのでわかるように、キリストすなわち「久遠の実相」に従えよと言われたのであります。そうしたら天国はお前たちのものである。迷いの小智才覚を捨てて「久遠の実相」に委せたとき天国すなわち極楽浄土が現に今ここにあるのであります。】

「救われ」はすでに成就しているという悟りで救われる

2018-04-21 16:27:43 | 日記
「救われ」はすでに成就していると悟りによって
人生苦が忽然として消える、
と雅春先生はお書きくださっています。
私は今その悟りを求めている最中であります。
(生命の実相 第17巻 谷口雅春)
【本来、神仏(かみほとけ)の子であるわれわれの実相を悟らせるのに「生長の家」は独特の速力方法を持っているからこれによって悟れてしまうのであります。その独特の速力方法はいかなるものによって成り立っているかと申しますと、他の宗教では、こうしたら救われる、こう称えたら救われるというように、“まだ今は”神の子ではない、“まだ今は”仏子ではない、“まだ今は”救われていない、これからこう修行して、あるいは死に際にどういうふうにとなえて救われるというように、「これから」救われるのでありますから、いくら早い救われようでも時間が要るのであります。ところが、生長の家では、人間はすでに神の子である、すでに仏子である、すでに救われている。“すでに”無限の供給をうけている、“すでに”無限の生命をうけていると言うのですから、「救われ」はすでに成就しているのですから、救われるのに端的直接的で時間がかからないのであります。病が癒るというのもこの悟りによってであります。貧乏が消えるというのもこの悟りによってであります。人間が金剛不壊を得て不死身の体験を得るのもこの悟りによってであります。】

コリント人への第一の手紙

2018-04-21 15:51:05 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第10章>
偶像礼拝と食卓礼拝(10・14-22)
19 すると、何といったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。
22 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

現象の変化が求めているものは?

2018-04-21 11:14:19 | 日記
現象世界は
実相世界の時間空間面への投影であり、
般若心経が説く「色即是空」であるからして
不生不滅なるものですから、
現象に見えているものは
昨日は無かったもので明日にあるものでもなく、
つまり実在ではなく、空相であり、
ただその奥を貫く目には見えない実相世界が、
つまり神の理念が
円満完全大調和の無限向上の世界が
貫かれているのです。
実相世界は仏様の向上世界であり
現象世界はその写しであるから
やはり無限向上を楽しむ世界なのです。
現象が毎日変化するから
その変化自体が
人間の自由な心で対応すべき課題であります。
現象の変化に対応することが
すべて仏性のなせることですから
人生の楽しみであり、
喜びなのです。
現象の変化自体が
向上の機会なのであり
人生の喜びのチャンスなのです。
ですから現象の変化を
実相が顕わす「向上の機」と
とらえる心構えが必要なのです。
「万物はこれ神の心」ですから
現象の出来ごとに正しい対応をするには
祈りが必要だということです。
現象対応がどんなであっても、
神の心が現象に貫かれていることは事実ですが、
神の心そのものに近い良い現象選択をするには
神想観(祈り)が不可欠ですし、
現象心が実相心に重なってしまえば
実相理念がその写し世に理念通りに展開され、
神の心が現象世界に
そのまま投影されることになります。
繰り返しますが、
現象世界は
実相世界の時間空間面への投影であり、
般若心経が説く「色即是空」であり
不生不滅なるものの展開ですから、
現象に見えているものは
実在ではなく、空相であり、
ただその奥に目には見えない実相世界が、
つまり神の理念「円満完全大調和」の無限向上の世界が
貫ぬかれているのです。
実相世界は神の自他一体の無限向上世界ですから
現象世界はその写しであり
物質の形態をした仏性であり、
無限向上を神の子なる人間が楽しむ世界なのです。
現象が毎日変化するから
その変化自体が
神の子人間の自由な心で活動すべき課題であります。
現象の変化に対応することがすべて
無辺向上を基調とする神の子のなすべきことことですから
人生の楽しみであり、
喜びなのです。
現象の変化自体が
向上の機会なのであり
神の子の自己実現の土台なのであり
人生の喜びのチャンスなのです。
例えば家内がする植物の水やりは
植物の求めている要求でもあり、
水をやる家内と水をもらう植物の
双方の生の喜びであります。
ですから現象の変化を
一つは自分のための実相の現象展開と受け止めることが必要であり、
もう一つは
人間が実相を顕わす「向上の機会」と
とらえる心構えが必要なのです。
「万物はこれ神の心」であるから
現象の出来ごとに正しい対応をするには
祈りが必要だと思います。
でも現象対応がどんなであっても、
現象世界が神の心に貫かれている事実は変わりません。
でも神の心そのものに近い現象選びをするには
祈りが不可欠ですし、
現象心(我と思う)が実相心(神の子だと思える)に重なってしまえば
神の心が現象世界に
そのまま投影されることになります。
実相の心をもっている人は
仏教者にもキリスト者にも
無神論者(神仏を信じられない人)にもいますので、
人に良い影響を与えている人はすべて
“実相の心をもつ人”といってもよく、
教派心などは必要ないです。
私は教派の心などは
全然もってないです。
人間はみんな実相は神の子であり仏子なのですから。