ありのままの自分を受け入れるって難しい。
歳を重ねるごとに変わり果てて行く我が身を受け入れることってもっと難しい。
閉経を迎えると女性ホルモンのいたずらで様々な症状に悩まされたりぽっこりおなかになったり。
若い頃みたいにおしゃれをしてみたいけれど、試着室で鏡を見ると似合わなすぎて…。
女性は家事に育児に看護に介護。
どれもやって当たり前、できて当たり前だと思われている。
はじめてやるんだもん。できないことだってあるし、わからないことだってある。
日本て未だに家事、育児、看護、介護は女の仕事と思われてて、未だに「嫁」というしがらみに翻弄される。
PTAとか町内会とかの面倒事は結局優しくてお人好しの人が断りきれなくて引き受けてしまう。民生委員もそうだ。
中には「私がやりましょう。」と男女問わず男気がある人がいるけれど、役員決めはまるで牽制球を投げるかの如く。もしくはうつむいて気配を消すか、あらかじめ用意した何らかの理由を主張してキッパリ断る等々。
誰もやりたくないのだからお役丸ごとなくしてしまえばいいのに、と思うんだけどな。
「必要だ。」と思うのならば思う人がやればいいのにね。
町内会に入らない人が増えているとニュースで特集組んでいた。
うちの町内会では会費が払えないからとか当番ができないからとかで抜けていく人が増えてきた。
施設に入るからとか息子や娘のところに引っ越すからとかで退会する人もいる。
「町内会存続の危機❗」
高齢化でお役を引き受けられる人が減る一方。なのに町内会長の仕事は複雑怪奇。いつの間にか誰かが仕事を増やしてふと気がつけばとんでもないことになっている。
任期満了でほっとしたのも束の間、公民館のお役とか社会福祉協議会のお役がもれなく付いてくる。それ以外にもいろいろ。
PTAの役員も同じように誰かが仕事を増やしてしまい…。
テレビでPTAの民間委託とか廃止問題とかを報じていたけれど、
PTAっていつの時代からあったのだ?
「バザー」
バザーというと教会の資金を集めるためとか幼稚園生活をよりよいものにするためとかはいいんだけど、
なぜ公立小学校でバザーをやるのだ?
集まったものを集まっただけ売るのかと思ったら生徒一人あたりの出品ノルマがあって、品物が少ないからと役員はご近所さんの協力をお願いして品物を集めたりとかワケわからない。
売れ残ったものは役員が買い取るのよ、と。
「不用品を集めて売るんだから当然売れ残るよね。」とつぶやいた人がいたけれど、
私もそう思う。
手作り品。
値段でもめる。
高ければ売れないし、安ければ作った人が怒るし。
巾着袋やエプロンなどの実用的なものならいいけれど…。
思わぬところでミシンが役にたったけど、
数が足りないからとなぜにバザー委員長が寝る間を惜しんで手作りに励む運命をたどったのか。
「それはこの人に言えば引き受けてくれるという断れない性格を読まれたからなんじゃないの?」と娘に言われた。
全ては過去の出来事なんだけど、
それって自分が抱えなければならないことだったのか。
人に振る。人を頼る。
これができればどうってことなかったのかもしれない。
でも、
相手の気持ちや状況等々考えちゃって「お願いできますか?」が言い出せない。
「お願いできますか?」と言われると人間関係気まずくなるの嫌だなーとか、冷たい人って思われるのが嫌で…。
重い荷物を手で運ぶより台車で運んだ方が楽だ。
買い物かごを持ちながら買い物するよりショッピングカートを使った方が楽だ。
「荷物」は自分ひとりで抱えないといけない法律はないわけで、
子育ても介護も看護も誰かの手を借りながらで良いのでは?
負担が大きいものは負担を減らす。そうすればハードルも低くなるわけで。
町内会長とか民生委員とか時代が昭和から平成、平成から令和へと流れているのだから職務内容とか考え方とか変化して良いのでは?
多様化の時代の中、いつまでも「唱和気質」を振りかざしていては煙たがられるだけなのに、
なんなんやか。
共稼ぎの時代。
家事も育児も夫婦で、と言うけれど、
保育園とか学校から電話が来るのも母親の携帯だし、事あるごとに「おかあさまがしっかりなさらないと。」とか「母親なのに◯◯できないんですか。」などなど。まるで責めるかのような言葉の嵐。
子供が熱を出すのも怪我をするのも「母親の責任」って言われたり。
母親を辞めたいと何度思ったことか。
薬剤師を辞めたいと何度も思ったけれど、「転職」とか結婚、出産とかで「退職」できた。
でも、
母親業には「退職」の文字はない。介護も看護も。そう思い込んでいた。
ひとりっ子で物心ついたときから「家をもらうんだから親の面倒はみないとダメよ。畳の上で死なせてね。(←施設に入れたり入院させたりするなってこと)」と言われ続けていたから、
職業選択の自由もなかったし好きな家に住むこともできなかったし我が身を捧げて介護とか看護をしないと、と。
娘の件も重なり、職場でのパワハラ等々八方塞がりだったっけ。
でも、人生って転機が何度か訪れる。忌まわしき出来事があったけど、女性薬剤師の暴言のおかげで転職できたし自分を取り巻く環境が激変した。
娘は警察に保護されたおかげで精神科に通院できて様々な縁でグループホームに入れて就労支援先に通えてるんだから不本意だけどそれで良かったのかもしれない。
大きな重たい荷物がひとつ肩からおろせた。
まだまだ落ち着くまで波乱万丈だと思うけど、ケアマネさんという相談相手ができたのはありがたい。
ばばは最期はあっけなく旅立った。重い重い荷物が肩からなくなり楽になったはずなのに未だに支配されてる感じが抜けない。
薬剤師はばばが決めた仕事。
責任が重くて常に集中を強いられる過酷な仕事。しかも今の薬剤師は接客力を求められ、人対人の仕事だからトラブルもあったりする。「カスタマーハラスメント」というよりもなんていうかイライラをぶつけられたり等々。
「えいっ、辞めてやるっ❗」
そうできたらどんなにいいことか。
年金支給年齢は65歳となり金額も渋いんだ。
生きていくためにはお金が必要。老後が長すぎて不安しかない。
ストレスは身になりまして、ステラおばさんみたいな体型。
家族がいるといろいろめんどくさいけれど、いないと寂しい。
普通に暮らしていたら今頃悠々自適な生活をしてたかもしれないなんてあり得ないことを時々考える。
普通に暮らしたかったな。
言葉に出して言ってしまうと涙が止まらなくなる。
まさか自分の子供がふたりとも学校に行けなくなるなんて思わなかったし、娘が心の病気になるなんて思わなかったし。
でも、それはそれ、これはこれ。
自分の人生は還暦過ぎたら自分らしく。
テニススクールでたまたま街のイベントに誘われて3人ででかけた。
久しぶりにゆったりとした時間の中で知らない世界をたくさん見た。まるで高校の文化祭みたい。
パトカーや消防車も来ていて、子供たちに制服を貸し出して試乗会をやっていた。
パトカーは追いかけられるのは嫌だけど間近で見るとカッコいい。
踊る踊る大捜査線の青島君の気持ちになってみた。
ギバちゃん(柳葉敏郎)がめちゃくちゃ好きで映画を観に行く前に踊る踊るを見始めたんだけど、
青島くんて営業マンから刑事になったことに驚いた。
どんな仕事でも引退の時は来る。
そして仕事に行かない日々が始まる。
父は畑を借りて「出勤」していたけど、悪性リンパ腫ができてからは病との闘いだった。
町内会長のお役目を終えた頃から体調を崩し、病に倒れた。
近所のおじちゃんも。
真面目な人ほど真面目に取り組みすぎて体を壊す。
民生委員もそうだ。
民生委員を真面目にやっていて亡くなった人もいる。
身を呈して尽くしました。
なんて美談はナイチンゲール精神を全うし過ぎだよ。
しかも看護師じゃないのに。
町内会長とか民生委員である前にひとりの人間であり誰かの大切な家族なのだ。
幼稚園時代にPTAの仕事が忙しすぎて病院に行く暇がなくてやっと受診できたら末期癌であっという間に亡くなった人もいた。
ストレスは万病のもとなんだ。
肩の荷物は限界を超えると押し潰される。
救いの手。
それは自分の意思で差し出すもの。決して強制してはいけないのだ。
救いの手をさしのべる人を支えたりバックアップするならまだしもまだまだ足りないとか、責めるのやめようよ。
肩の荷物、好きで背負っても重いけど、
次々背負わされた荷物は「重くないもんっ。」と自分で自分に言い聞かせて頑張れば頑張るほど食い込んで蝕んで…。
責任感じて自殺したりうつ病になったり。
カウンセリング
カウンセラーが自分で経験してないので逆効果のこともある。
薬剤師も自分で経験してないから…。
言葉って難しい。
発した側と受け取る側でニュアンスが違ってしまうこともある。
傾聴
話を聞くって難しい。
真相を知りたくてつい尋問みたいになってしまったり。
居心地のいい場所で自分が自分らしく振る舞える相手と話すと落ち着く。
友達は無理して作るものではないんじゃないかな。
なかなかみつからないけれど、
自分が自然体でいられる相手をみつけられれば生きていける気がする。
ほんわか癒し系が好きだ。
同姓からみてもほんわか癒し系はかわいい。
自分は鬼嫁でカマキリだから…。
人を癒すとかできないな。
でも、話をするのは好きだから…。
明るい人といると明るくなれる気がする。
波長が合う人をみつけたら大事にしよう。
波長が合わない人とは距離をおくといいそうだ。
肩の荷物を軽くしてくれる魔法が使える人って素敵だな。
そんな友達が何人もできたことは画期的だと思う。
天国の父がくれたプレゼントなのかな。
誠実に生きよう。
誠実に。
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