
一周忌の法要で母の遺影を見ながら過去の出来事を思い出してみた。
嫌なことばかりではなく、楽しいことや嬉しいこともあった。
でも、
どれも自分自身が望んだことではなくて…。
「常識」それを守ることが美徳とされてきた。
でも、
「常識」ってみんながみんな「そうだよねー。」って思えるものではないのでは?
たとえば、町内会。
たとえばお祭りの準備。
たとえば運動会。
仲良くしましょうと言うけれど、賛同できないものってあるんだよね。
お祭り好きならお祭りの準備はワクワクするけれど、
お祭りに興味がなければ準備は苦痛に感じる人もいる。
こどもたちに伝統を伝えるのが大事だと言うけれど、
人それぞれ好き嫌いがあるんだけどな。
踊ることが好きな人。
踊ることが苦手な人。
「踊るのって楽しいよね。」と同意を求められても、歌と同じで上手下手もあるし、才能の有無もあるし、人前で踊るなんて恥ずかしいと思う人もいる。
運動が得意なら運動会は楽しいが、運動が苦手だと苦行でしかないんだよ。
人と人とのお付き合い。
得意な人もいるけど、苦手な人もいる。
仲良くなりたい人もいるけれど、関わりたくない人もいる。
家を建てる(買う)時に、そこに住みたくて買うのだからご近所付き合いは必要だと思う。
でも、
親の介護のために実家に戻ってきた場合、いろいろなものを捨ててきてるわけで。
たとえばお気に入りの場所とか、お気に入りの家具とか、仲がいいご近所さんとか。
たとえ生まれ育った家だとしても一旦独立して戻ったときは別のものになっていて。
幼なじみとか同級生とかはみんな都会とか別の場所で暮らしていて、周りを見渡すと見事な超高齢社会。
「若い人がいると安心ね。」
と言われてもねえ。64歳ですよ。
あちこちガタが来て、自分の身体が若い頃のようには動かない。
「おかあさん元気?」
悪気はないんだけど、そのひと言が胸にささる。母の介護と娘のことなどなどいっぱいいっぱいでギブアップしたいのに、自分がどげんかせんといかん状況だったから、
「母の話はしないでください。」と言えたらどんなに楽だったんだろう。
人間関係が煩わしい。
今すぐにでも逃げ出したい。
何度もそう思ったけど、
逃げ出す勇気も時間的余裕もあるはずなどなく、
先月はまるまる喘息で苦しんだ。
せっかくメンテナンスを続けた歯も歯医者の予約すら入れられず、また1からのスタートだな。
娘のグループホーム騒動も重なり、地獄の日々。
今日は草取りをする元気が戻ってきたので庭のどくだみと格闘していたらとなりのおばちゃんが「おかあさん元気?」と聞いてきた。
「実はね、昨年の今頃に亡くなりまして。」
「あら!なんで知らせてくれなかったの?お別れしたかったのに。」
平穏無事に暮らしていたらたぶん普通にお通夜とかお葬式とかやったんだろうけど、
我が家は今それどころではない。
親戚もご近所さんもめんどくさい人々だから心ない言葉の嵐が怖い。
今、家の中に誰も入って欲しくない。散らかってるし、いろいろな意味で混沌としてる。
父の時にお線香あげにきてくれたんだけど、
そっとしておいて欲しかった。
今は尚更そっとしておいて欲しい。
でも、
「そっとしておいて欲しい。」という言葉の意味が伝わらなくて、
根掘り葉掘り聞いてくる。
「私は母が嫌いでした。」
「私は優等生でもいい子でもありません。」
「私は畳の上で死にたいと願う母を施設に入れてしまった鬼娘です。」
「私は子育てもできないダメ母です。」
そう答えれば黙ってくれるかな。
お別れがしたかったとか、お線香を、とか言うけれど、
それをもてなす家族の気苦労を考えて欲しい。
ここに家を建てたのは親であって、子は好きでここにいるわけではなく、
介護とは介護する側のなんらかの犠牲を伴うって思うんだけどな。
ほら、人間て手は2本しかないでしょ?
だから同時にふたつ以上のことはできないの。
母を優先した結果、娘には申し訳ないことをしてしまいました。
親は子を育てる義務があるけれど、子は親のために時間とか仕事とか家族とか大切なものを失う必要はないのでは?
介護地獄。
終わったときには自分がばばあ。
「60代なんてまだまだ若いわよ。」と言うけれど、
生き地獄が長すぎてなんだかよくわからない。
よくわからない時は別の世界に身を置こう。
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