自分は短歌などまったく解らないが、それでもなんとなくまっすぐな感じを受ける歌に興味をひかれる。絵心など持つべくものもないが、それでもなんとなく心を奪われる絵もある。詩を読み解くほどの感性を持ち合わせてはいないが、それでも迫力を感じる詩もある。
金子みすず「大漁」
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何萬(まん)の
鰮のとむらい
するだろう。
(NHKクローズアップ現代)
この詩に絵を付けたのが、風の画家・中島清の絵。「大漁」は清水寺のふすまに描かれていることはテレビでかつて放映されたことを覚えている。弱いもの小さな命を大量に描いたふすまに圧倒された。画家の数年にも及ぶ力作に息をのんだ。
そして、10年に短歌現代・歌人賞を受賞された人に高橋百代さんがいる。
束ねたる髪に額に胸元に飛びてくるなり鰯の鱗
ぶた丸と秘かに名付けしわが船は波押しつぶし押しつぶしゆく
一線を過ぎたる夫と一線に加わるわれとに吹く潮風
胸底にかかれる雲を一息に払ってくるるこの海風は
息を合わせ波に合わせて網を引く昇る朝日の背に暖かし
たてがみを振りつつ迫る獅子のごと波頭立つ荒れたる海に
病む夫に代わりて海に働くは容易ではなしことに真冬は
伊豆の海で定置網漁を家業として働くご主人さんとともに夫婦で仕事をしていたが、ご主人さんが病に倒れ、代わって奥さんが海に出て定置網を引く仕事をする。病に倒れた主人を思う気持ちであり、また大自然界の中での海の荘厳さを歌った歌人。その顔にまっすぐな飾らない人と書いてある、とNHKの山根アナの評であった。
どうしてだか今日は、金子みすずの詩と中島潔の絵と高橋百代の短歌を思い出した。
金子みすずの詩を読むと、弱いもの、しいたげられたもの、貧しいものにたいする彼女のいたわり、あたたかい眼差しに気づかされる。
『芝草』という詩もバカにされても踏みつけられてもたくましく生きる、しいたげられたものの力強さを想う。
名は芝草というけれど、
その名をよんだことはない。
それはほんとにつまらない、
みじかいくせに、そこら中、
みちの上まではみ出して、
力いっぱいりきんでも、
とても抜けない、つよい草。
げんげは紅い花が咲く、
すみれは葉までやさしいよ。
かんざし草はかんざしに、
京びななんかは笛になる。
けれどももしか原っぱが、
そんな草たちばかしなら、
あそびつかれたわたし等は、
どこへ腰かけ、どこへ寝よう。
青い、丈夫な、やわらかな、
たのしいねどこよ、芝草よ。
その詩人のうたう「弱いもの」の魚を風の画家が描き、またそれらと格闘する生活を短歌に刻む高橋さんがいる、と・・・。