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古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第8章~伝行基開基の菩提山長谷寺~18-04

2018-04-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

大蔵経寺山南麓に眠る”古代甲斐国の歴史ロマンを”辿る!

~菩提山長谷寺~養老6年(722)、伝行基開基の古刹・・・!

今号は、第8章~古代甲斐国を偲ぶ「菩提山長谷寺」を訪ねます。

菩提山長谷寺之景 境内絵図は明治36年6月・・・、参道は500段。

菩提山長谷寺跡は中尾山中腹に位置し標高500m。笛吹市指定史蹟!

長谷寺は「寺記」や「甲斐国志」によると、奈良時代養老6年(722)に僧行基

よって創建されたとしている。※「菩提山」と記される背後の山が「中尾山」。

「中尾山」または「母胎山」と号し、堂宇の建立の際「母胎山」を「菩提山」と改む。

現在は本堂と石造物を遺すだけであるが、春日居町(現笛吹市)指定史蹟。

発掘調査によると、遺蹟は開山堂(礎石は2間×3間)、竜頭堂(堂址2間×3間)

堂址が確認されているが、時代は平安時代~中世と記す。※末尾附録参照。


 YS記)明治36年の長谷寺絵図を見ると、背後の山が菩提山(中尾山)、本堂、

庫裡が画かれているが、絵図で見えるのは微妙橋(御廟橋(みみょう橋)

梵字橋)二天門址(山門址)を結ぶ石段の参道は500段あり、その両サイド

は塔頭址の石垣が画かれる。

往古は山中から現国道雁坂道付近まであった隆盛時代の「千坊」址が偲べる。

境内には解説版があり、「智の池=血の池」、「胎内くぐりの石」などがある。


境内掲示版には、長谷寺は甲斐における山岳仏教の殿堂、真言密教の

霊場として知られ、特に平安時代には隆盛を極めた。

当時の境内は頗る広大で、周囲の山中から平地は今の国道まで広がり「千坊」

の寺々があったと伝えられる。 

この寺が甲斐の人々の厚い信仰を集めたのは、紀伊の高野山と同じく亡くな

った人々のお骨を埋葬して供養する場所(三昧場)であったこと、本尊の「十一

面観音が女人信仰の厚い仏さまで、女人高野と呼ばれていた」ことなどよる

ものである。

毎年7月13日の精霊迎えには、国内各地から善男善女が参集したが、この 

祭典は昭和12年頃迄続いていた。また甲斐国第14番の札所ともなっている。

 昭和57年12月 春日居町(現笛吹市)教育委員会」と解説される。


菩提山長谷寺参道の石段は500段も続く!石段脇には塔頭址の石垣!

菩提山長谷寺本堂:本尊は十一面大士(明治36年絵図には行基作と記)

長谷寺(ちょうこくじ)本堂:

新義真言宗の菩提山長谷寺本堂。

長谷寺は婦女子の信仰を集め「女人高野」とも呼ばれる。

本堂は江戸時代の建築であるが、建築材料の一部には中世の本堂廃材の

一部を使用しているという説もある。

堂内には木像十一面観世音立像、木像馬鳴(めみょう)菩薩像等が安置される。

馬鳴菩薩は蚕神として養蚕農家の人々が信仰していた。

また、信者に衣服、金宝等を与える菩薩としても信仰されている。

境内掲示版による「山梨県・春日居町」記 


胎内くぐり石~”女人高野”の信仰、如意輪観世音菩薩石像が祀られる!

「胎内くぐりの石」・・・これぞまさに「女人高野」と呼ばれる由縁である。

立方体の石で真ん中に直径37.7cmの丸い穴がある。

この穴を妊婦がくぐれば安産になると伝わる。

石の上には「如意輪観世音菩薩石像」を祀る。

如意輪観世音は車輪がどこまでも転がるように、意のままに現れ、

苦しみを取り去り、利益を与える観音。


「智の池」・「血の池」とも呼ばれる。池の中央には二段の水盤石があり・・・!

かつては、湧き水を桶でこの石に引いていたと考えられる。

周辺には、水神等の石像や光明真言塔がある。

明真言塔は舟形で上部に光明真言を刻む安山岩の立派な供養塔である。

これらの石像物は江戸時代中期以降に建立された。 


古代甲斐国の「国府(こう)」は、現春日居国府の甲斐奈神社辺りと伝わる! 

写真は伝甲斐国「国府」が置かれた処「甲斐奈神社」境内から臨むYS解析。

注)ブログ最終週では、伝行基開基の寺院は国府を中心に仏教思想の普及と

要害を兼ね山岳寺院の建立を合わせて国造りが行われたのではないかと云う

確証が未だ見つからない・・・・・・・・・。

YS記考察資料検証中ににつき、最終章に間に合えば添付公開予定です。


YS記)春日居に甲斐国府が置かれた時代(推定7世紀末~8世紀)に・・・、

蔵経寺山、御室山(旧蹟物部宮跡)、この山中に養老6年(722)、伝行基

開基の旧蹟大蔵経寺「彌勒堂~彌勒実相院~靑獅子山松本寺」が開かれた。

里人は大蔵経寺山中の彌勒堂址礎石があった辺りを「彌勒平」と呼ぶ。

伝行基開基であるが同年養老6年(722)に、今号の菩提山長谷寺が開基

されている。※これは現春日居に国府配置を決めた奈良朝廷(行基大僧正)

から見ても「彌勒平」は後の三層塔が聳える七堂伽藍が仏教普及のために

甲斐国中央に広告塔の役割を果たし、更に修行僧の拡大が望める立地条件

に恵まれ、かつ甲斐国府の鎮護に相応しい立地に「菩提山長谷寺」を草創

と考察する。

そして、御神体山(御室山)から神を遷座して山梨岡神社(伝鎮目軍団駐屯地)、

この配置をマトリックス解析すると明白に理解できるのでYS記自習NOTE中。

直近鬼門には”寺本廃寺”が発見されて、国府機能の補完と鎮護を兼ね、

7世紀末の天台宗寺院と推定されているので、甲斐国府が置かれたのは、

寺本廃寺が建立された時代推定と概ね同時代ではないかと考察している。

実際には、8世紀、聖武天皇御代、天平時代、国の統治体制整備(国府・郡石)

僧行基を迎え大僧正の地位を授与していることなども合わせ、国分寺・

国分尼寺建立の勅なども重なるのでこの時代の時代考証が頷けることが多い!

因みに伝行基開基の山岳寺院創建を見るに、行基が養老年間に甲斐国行脚

をした記録はなく、天平時代に僧行基を迎えた聖武天皇の勅の下で仏教寺院

建立を各国で進めたと見ると「行基大僧正」の最高位を得た天正年間には、

遡って伝養老年間の行基開基の仏教寺院建立が可能であったと考察できる。

実際の浄財と開基は地元豪族参与の可能性もあるが、聖武天皇と行基菩薩

名のに開基された仏教寺院は、往時、何かの名誉があったのではないか

考察する。

養老年間に遡った伝行基開基の寺院は、往時の名刹として、地元豪族が

競って建立したということも考察できるのだが、不詳が多い。

甲斐国の鬼門には、裂石山雲峰寺(天平17年(745)伝行基開基)、東山に

、柏尾山大善寺(養老2年(718)伝行基開基)、甲斐国の中央に位置した

松本山上に、奈良朝廷から行基が「彌勒像」を寄進し「彌勒堂」を建立させたと

見ると、そこに仏教普及の修行僧が集まり、やがて彌勒実相院となり靑獅子山

松本寺となって七堂伽藍と三層塔を有した松本寺は立派に広告塔を果たした

ものと想像できる。

※現在は、山中に「彌勒平」と呼ばれた境内地址らしい台地が遺るのみ。

そして、彌勒実相院より多くの修行僧を拡大できる立地条件の菩提山長谷寺

末寺として開基しているのである。”なるほど”と・・・思えてくる。

さらに、春日居に甲斐国府が置かれたならば、彌勒実相院よりは、菩提山

長谷寺の立地の方が、国府の要害にもなり、塔頭寺院も山中より現国道辺り

千坊となると「国府」にとっても心強い要害であったのではないかと推測する。

次ぎに、甲斐国分寺、国分尼寺の建立と続くと・・・、八代の無碍山瑜伽寺

(伝無音律師による霊亀元年(715))草創)は、大善寺、長谷寺を三薬師と

云い、伝行基作の薬師如来が納められたと云うが・・・、

行基と無音律師の関係は不明・・・、

※廃鎮目寺址に記されるは、行基が柏木より薬師如来3体を刻み、大善寺、

瑜伽寺に納めた説が記されるが、菩提山長谷寺には、十一面大士が伝わる。

また、瑜伽寺でも寺伝と行基説は一致せず課題のままであるが、行基説を

解明するのは、頗る困難であるので時間をかけたい。

「春日居国府を中枢に、まるで”砦”のように周囲を囲む位置に、伝行基開基

寺院が配置され、山梨岡神社も国府警護のための鎮目軍団を駐屯させる

ため、御神体山(御室山)から遷座して里宮を建立し、鎮護したのではないか

とも考察きる」が、全て素人の筆者の推論に過ぎないので留意の上、もし、

読まれた方の中で造詣の深い方がおられたら、ぜひ、ご教授を乞う。

各々が納得できる自己解釈で再検証を願いたい。

※お願い・・・、鵜呑みにしないで・・・!

特に神社、寺院から見ると不謹慎極な推論かもしれませんのでご寛容に! 

また、既に研究済みの方には、ぜひ、データベースでのご教授を乞う!


笛吹市春日居国府にある甲斐奈神社、甲斐国府(こう)址と伝わる・・・!

延喜式内「甲斐奈神社」の由緒書には・・・、次のように記される。

社格は村社だが、旧社格は甲斐国総社・・・。

祭神は彦火々出見尊、大己貴命(大国主命)。

鎮座地は国府(こう)で、奈良時代に甲斐国の国府の置かれた場所・・・、

創建は神亀3年(726年)、

聖武天皇天平年中(747)甲斐國司「田邊史広足」「狭之神社」と名付け、

その後、「甲斐奈神社」となった。

延喜式神名帳に載る古社(式内社)で、かつては森ノ宮明神とも云い・・・、

四ノ宮(国守ノ宮)が転訛したともいわれる。

延徳年中(1489~1491)武田刑部大輔信縄が造修、

慶安年中(1489~1491)徳川家光より神領として八石一斗を給わる・・・。

平成26年4月甲斐奈神社氏子一同として記される。


菩提山参道への途上に「関の地蔵尊」!但し、歩いて登らなければ見逃す! 


「関の地蔵尊」~寄木造りの木像地蔵菩薩坐像~

関の地蔵堂修理工事の時、関の地蔵尊の調査が行われた。

その時、胎内より「奉本願宗心弘治二年九月十二日」等と書かれた銘文が発見

された。そのため、弘治2年(1556年)に造られたことが判明している。

山梨県・春日居町記 


YS記)奈良時代、仏教思想を政治指針とした聖武天皇御代、

天平年間、我国に仏教普及を促進するため、往時、民衆の支持が絶大で

あった僧行基を奈良朝廷に迎え、畿内を始め仏教寺院の建立と仏教普及

体制を促進している。


従って、第8章~菩提山長谷寺~の項は、聖武天皇期、春日居に甲斐国府

配置を中枢に、奈良朝廷に登用された僧行基の名の下に、主要地方国に

山岳寺院を配置し、仏教普及を兼ねて国家鎮護を施策として実施している

考察している。


巻末附録:山梨県「古代官衙・寺院跡の試掘調査」より、

第2図長谷寺概念図。

アーカイブよりYS記自習用参照のため複写につき転載厳禁。


 

 

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