新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨・甲州市を辿る⑩上萩原を超えて「一ノ瀬高橋」へ

2022-05-01 | 山梨の魅力再発見!

山梨県甲州市は、大自然の恵みに形成された地形!

また、暮らしている人には叱られるが、まるで都会

の人が憧れる大自然の中の暮らしが見える長閑な里!

今号は、前号で紹介した甲州市塩山の第①編萩原郷

の源卿「上萩原」に続き、第②編は「一ノ瀬高橋」

紹介します!


「一ノ瀬高橋」は、長閑な”高原”の印象だった!

甲州市塩山の一ノ瀬高橋を始めて訪れた時、まさに”高原”という印象

をもった調べて見ると「一ノ瀬高橋」は令和3年11月現在で人口

は22人16世帯。地元の方は皆さんが車に乗っておられるのだが、

殆ど車とすれ違いのない走りやすい道路で、一ノ瀬高橋~三ノ瀬高橋

の全体を走っても約50分もあれば十分のよう。この時、筆者は家内

とハイキング気分(スタイルは登山装備)で全行程を歩いてみた。

帰路のバスまで、約5時間を歩いて探索した。


一ノ瀬高橋は、こんな雰囲気の”高原歩き”だった!


大日本地名辞典によると・・・、現、甲州市塩山一ノ瀬高橋。

上萩原村・上小田原村から萩原山中を北東へ約3里半の道程にある

二つの集落。(享保9年萩原十ケ村入会山明細帳・古屋信義家文書)

一之瀬は笠取山の南、藤尾山(天狗棚山)の北で、多摩川源流部の

一ノ瀬川上流位置し、高橋は藤尾山の西にあり、東流して一ノ瀬川

に合流する柳沢川の支流高橋川中流域に集落を形成する。

犬切峠で結ばれる両集落は併せて一ノ瀬・高橋両沢と呼ばれた。

一ノ瀬は、市之瀬とも書き、市野瀬も併用された。

黒川金山の衰退により金掘りが離散して行く過程での移住である

ので、17世紀中頃までの成立が推定される。

※黒川金山の隆盛により、享保9年(1724)、人口は139人・

世帯数42あった集落であるが、令和3年11月現在、人口12人、

世帯数16であるので、黒川金山の衰退により、離散した集落で

あることが良く解る。

今は、大自然好きの筆者のような人のみが訪れるようで、夏や秋の

シーズン以外には、人に出会うは殆どない。

黒川金山とは、一之瀬高橋集落の南に含める鶏冠山(とさか山、

黒川山とも)中にある鉱山遺跡。

広くは同集落周辺の山中にある龍喰谷(りゅうばみだに)金山等も

含める。鶏冠山は、標高1710mを測り、山頂には、鶏冠神社の

奥宮が鎮座する。山中には、黒川千軒、寺屋敷、女郎ゴー、裾の

柳沢川沿いには”おいらん淵”等の金山にまつわる地名遺構等が残る。


現地には甲州市(教育委員会)の解説版があり「黒川金山」と「おい

らん淵」伝説を解説。黒川金山のあった鶏冠山は、現在は閉山され、

金掘りはできないので、登山好きの筆者は大菩薩嶺の帰路で分岐路

確認したことがあるが、山頂の鶏冠奥宮へは登拝したことはない。

歴史的に見ると、定かではないが平安時代~鎌倉~室町時代にかけて、

豪族であった三枝氏、頼朝に疎まれた安田義定、武田信虎の時代より

信玄の時代に最盛期を迎えたと云われ、勝頼の時代には、急速に衰退

し、徳川時代になって、大久保長安らも黒川金山に関わったが、

17世紀中頃には、閉山したものと思われる・・・と記されている。


黒川金山には「黒川千軒」と云われた鉱山街の名残りである整地

された平坦面と坑道跡が残されており、一ノ瀬高橋地域には、

竜喰谷(りゅうばだに)金山、牛王院平金山などがあります。

なお、当時金山を経営管理していた集団は「金山衆」と呼ばれ、

産地武士団を形成して、塩山上萩原、下於曽、熊野等に居を構えて

いました。


「おいらん淵」伝説が伝わる一ノ瀬高橋・・・!

現「おいらん淵」は、宴台はもちろん吊り橋もない険しい渓谷!


「おいらん淵」は、地元では「銚子の滝」と呼ばれていますが、

黒川金山にまつわる悲しい伝説が残されています。

戦国時代、金採掘が全盛期を迎えた頃、「黒川千軒」云われた鉱山街

の近くに、金山坑夫慰安の遊女を置いた場所がありました。

注)昔から、千軒、三千軒等は、”沢山”という意味で記されている。

武田家の滅亡により、これ以上経営が出来なくなったため、閉山に

あたり、金山の秘密が漏れることを防ぐため、ここ柳沢川に宴台を

つくり宴席を設けました。遊女達の宴の最中に、宴台を吊っていた

藤づるを切り落とし、宴台もろともに、淵へ沈めて口封じをした

ことから「おいらん淵」と呼ばれるようになりました。甲州市。

注)今でも不思議なことに、山梨県では「すべて武田家、すなわち

”信玄”が繁栄の歴史の要となっているようだ。


一ノ瀬集落の里宮「鶏冠神社」は犬切峠から一ノ瀬高橋に入る峠!

鶏冠神社の「さわら」は甲州市(旧塩山市)指定の文化財・・・!

高橋集落から犬切峠を越えて、一ノ瀬の集落へ向かう林道の入り口に

鎮座する「里宮鶏冠神社の鳥居の左右脇に立つ二本のさわらのうち、

正面左側にある一本である。樹高30,0m、根回り5.1m、

目通りで4.4mを測る。サワラは「さっぱりの意」であると言われ

・・・、現地は明治40年の水害により、多くの家屋が流失・破壊

され、その後、東京都の水源地としてヒノキとカラマツが植林された

ため、さわらは、ほとんど見当たらなくなった。一般には、直径が

1mに達するものであるが・・・、目通り4.4mを測る大樹として

生育しているのが、非常に珍しく、貴重なものである。

平成十三年1月塩山市教育委員会・・・と解説される。


今も、黒川鶏冠神社は山中、厳かに・・・鎮座する!


前号「上萩原」編に記される予定だったが、

残念ながら、容量限界のため②部に記載している。

上萩原の「岩昌寺」は・・・、驚くほど、広々としている寺院!

 

甲斐国志 巻之七十五 仏寺部第三・・・によると、

江林山 岩昌寺上萩原岩波 

臨済宗武州三田領二又尾村海禅寺ノ末、除地七段六畝歩、開山ハ

本寺七世関宗徳光、開基ハ秩父郡浦山村ノ人浅見六右衛門徳光ノ父ナリ

客殿六間半九間、本尊ハ粘華釈迦、庫裏五間十一間、衆寮・山門

備ハレリ塔司二宇。・・・と記され、往古より大きな古刹である。

注)七段六畝は換算によると、約7524㎡(約2276坪)。

写真で見る通り、都会では考えられない広い敷地が岩昌寺に見える。

開山の昔から、大きな敷地を有する古刹であることが伺える。


曹洞宗に相応しい「雲龍山法幢院」の参道は如何にも古刹を感じる!

甲斐国志 巻之七十五 仏寺部第三・・・によると、

上萩原村岩波 曹洞宗落合村永昌院の末。

黒印寺内4百坪山林二町三町、客殿ハ間九間半。本尊は釈迦。

庫裏五間十二間、衆寮・山門、永正元年甲子歳本寺開山神岳通竜禅師

校者曰く永昌院開山一華文英ヲ云フ。ノ弟子南富宗宿草創ス、慶長の四奉行証文同制札

ヲ所蔵ス 末寺一、抱所二・・・と記される古刹。


一ノ瀬高橋」には、無形文化財「春駒」が、現代も続く・・・!

一ノ瀬高橋の春駒は、毎年1月14日の小正月に行われ、芸能系列

から見ると、春駒踊り、いわゆる「駒踊り」であって、伝承場所は、

一ノ瀬(旧村落)として、一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と一ノ瀬から

分村した落合である。一ノ瀬の春駒伝承の資料は全く残されていな

いが、口承では、黒川金山の採金従事者(金堀衆)の間に伝承され

代々受け継がれてきたものとされている。一ノ瀬高橋の春駒は、

1月2日の御紙集めに始まり、同11日のぶちかまし、14日の

本祭り、15日の別当送りをもって終わる。

春駒は、一ノ瀬(本村)で一頭。二ノ瀬、三ノ瀬で一頭が別々に

仕立られ、11日のぶちかましで両村総出で祭りを行うが、14日

は、一ノ瀬と二ノ瀬、三ノ瀬では、それぞれ祭りを行った。

県内でも特出すべきもので、全国的にも貴重な無形文化財である。

昭和42年8月7日県指定 平成14年3月 山梨県教育委員会。

注)筆者はJR塩山駅前の甘草屋敷で「春駒」を拝見したことがある。

  写真はその時に撮ったもので恐縮です。


「二ノ瀬高橋」の長閑な暮らしの風景・・・!

「二ノ瀬高橋の集落風景は長閑そのもの、民家の番犬も野放しで!

 雑踏の中の”都会人”が憧れそうな里・・・!・・寂しすぎるか!?


高橋の中心部にある観光用のロッジ!人っ子一人いない静かなGW!

写真には日時があるが、今回はいつでもバス路線があるところではないため、

五月のGWに訪れたものの人っ子一人も合わず、写真の通りの静けさでした。

往時、筆者の都合で撮った写真を活用しているので、ご容赦ください。

山梨県に移住して里山をつぶさに歩いてみた。さらに焦点を絞って、甲州市

具に紹介するのは初めてです。甲州市は南北に長く、中心地の旧塩山市内

繁華街だけが甲州市ではないことがよくわかった。大自然という表現を

しばしば使ってきたが、考えてみれば、山梨県域の73%が森林や山だと

覚えた通りの里山である。

従って、次回も「甲州市域を辿り、殆どの方が読めない地名と言う

「西広門田=(かわだ)」という地域(塩山中心地の外れ)」を辿ってみる。