真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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岩瀬肥後守の攘夷批判と討幕の密勅

2018年06月18日 | 国際・政治

 江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が自ら政権返上を明治天皇に奏上し、翌日、天皇がその奏上を勅許したという政治的出来事が、いわゆる「大政奉還」ですが、大政奉還後、なぜ平和的に、新しい時代に移行しなかったのか、と私は疑問に思います。
 慶喜の「大政奉還上表文」には

臣慶喜謹テ皇国時運之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐(コウチュウ)ヲ解テ相家(ショウカ)権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷(チョウケン)ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト少ナカラズ、今日ノ形勢ニ至リ候モ畢竟(ヒッキョウ)薄徳ノ致ス所 慚懼(ザンク)ニ堪ズ候、況ヤ当今外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈(イヨイヨ)朝権一途ニ出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉り、広ク天下ノ公儀ヲ尽(ツク)シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕リ候得ハ、必ス海外万国ト並ビ立ツベク候、臣慶喜国家ニ尽ス所、是ニ過ギザルト存ジ奉リ候、乍去(サリナガラ)猶(ナオ)見込ノ儀モ之アリ候得ハ、申シ聞クベク旨諸侯ヘ相達シ置キ候、之ニヨリ此段謹ンデ奏聞仕リ候以上

 とあるのです。幕政を顧みて、素直に「従来ノ旧習ヲ改メ」、「広ク天下ノ公儀ヲ尽(ツク)シ」て、「同心協力」を呼びかけているにもかかわらず、下記のように、「賊臣徳川慶喜ヲ殄戮(テンリク)セヨ」と慶喜殺害を命じる「討幕の密勅」が下されたのはなぜでしょうか。

詔す。源慶喜、累世(ルイセイ)ノ威ヲ籍(カ)り、闔族(カフゾク)ノ強(キョウ)ヲ恃(タノ)ミ、妄(ミダリ)ニ忠良ヲ賊害(ゾクガイ)シ、数(シバシバ)王命ヲ棄絶シ、遂ニハ先帝ノ詔ヲ矯(タ)メテ懼(オソ)レズ、万民ヲ溝壑(コウガク)ニ擠(オト)シ顧ミズ、罪悪ノ至ル所、神州将(マサ)ニ傾覆(ケイフク)セントス。 朕、今、民ノ父母タリ、コノ賊ニシテ討タズンバ、何ヲ以テ、上ハ先帝ノ霊ニ謝シ、下ハ万民ノ深讐(シンシウ)ニ報イムヤ。コレ、朕ノ憂憤(イウフン)ノ在ル所、諒闇(リョウアン)ヲ顧ミザルハ、萬(バン)已(ヤ)ムベカラザレバ也(ナリ)。汝(ナンジ)、宜シク朕ノ心ヲ体シテ、賊臣慶喜ヲ殄戮(テンリク)シ、以テ速ヤカニ回天ノ偉勲ヲ奏シ、而シテ、生霊(セイレイ)ヲ山嶽ノ安キニ措(オ)クベシ。此レ朕ノ願ナレバ、敢ヘテ或(マド)ヒ懈(オコタ)ルコト無カレ

 この「討幕の密勅」の内容は、徳川慶喜を全く理解しようとしていない上に、極めて冷酷で攻撃的です。
 この「討幕の密勅」は、岩倉具視を中心とする討幕派による「偽勅」であったという説がありますが、私も間違いなく「偽勅」だろうと思います。なぜなら、孝明天皇がなくなった大変な時期に、即位して一年も経ていないまだ14歳の明治天皇が、あたかも長期にわたって天皇の位にあって物事を考えてきたかのような、こうした内容の勅許を下すとは考えにくい上に、勅許には、摂政二条斉敬の名がなく、花押も御名もなかったということだからです。

 また、「幕末政治家」福地源一郎(平凡社)の「岩瀬肥後守」には、岩瀬肥後守が、堀田閣老によって招集された諸大名の前で、条約締結の必要性六点をあげて論じた内容が記されています。「一身の禍害を顧」みずなされた「岩瀬肥後守」の主張は、どれも充分考え抜かれたものであり、間違っていないと思います。そして、立派ではないかと思います。
 「岩瀬肥後守」の主張を聞いた諸大名については
諸大名は内心その条約には不服の向もありしかど、岩瀬の才弁に説伏せられては、目のあたり一語の異議を提出すること能はずして、皆謹聴し敢て反対の詞を発する者も無かりけり
 とあります。当時の攘夷の思想では、何の反論もできなかった、ということではないかと思います。 下記に抜粋した文章で、岩瀬肥後守を中心とする幕府の役人が、幕末、日本を取り巻く情勢をかなり正確にとらえ、懸命に対応しようとしていたことがわかるのではないかと思います。
 
 だから、徳川慶喜殺害を命令するような「偽勅」によって権力奪取を画策し、力づくで政権移行を成し遂げた人たちによる明治の時代を明るいものとして描き、「文化の日」を「明治の日」に変えたり、明治150年を記念して様々な事業を展開しようとする計画には、賛成できません。
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                            岩瀬肥後守

 岩瀬肥後守は昌平学校の出身にして、一躍御目付に挙られ、重職中にて尤も壮年の士なりき。識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備へたる人なり。阿部内閣の時には、未だ十分に其技倆を現はすに至らざりけるが、堀田内閣の時に至り、米国ハルリスが下田に渡来し、和親貿易の条約訂結を請求せるに際し、応接委員と為りてハルリスと折衝し、親しく其説く所を聴き、大いに悟りて益々其開国説を主張し、遂に堀田閣老をしてハルリスを許して参府せしめ、将軍家に拝謁して国書を親呈せしめ、堀田と外交談判に渉らしめたるは、主として岩瀬の力なりき。当時幕府を挙て皆鎖国攘夷の説に執拗し開国和親を喜ばず、阿部内閣の後を請て、姑く外国の請求に応じ、「薪水の供給若くは漂着難船の救助を諾するに止めて、以て切迫の機を緩くし、其間に我軍備を整へて外交を謝絶すべし」と云ふが幕府一体の政策にて、開国和親は固より其好まざる所なりけるに、独り岩瀬は、初より少しく蘭書をも読みて、聊か外国の事情を知れりとは云ひながら、此非開国の群議の間に立ちて、断然世界の通義をを主張し、「和親貿易の条約は欧米諸国の望に応じて之を訂結せざる可からず。然らざれば日本は孤立して国運も終に危し」と公言し、以て閣議を動かしたるは、岩瀬なり。世間或は井伊大老を以て開国政治家の主動者の如くに云ふものは其実を知らざるの説なり。当時幕吏中にて初よりして毫も鎖国攘夷の臭気を帯びざりしは、岩瀬一人にして堀田閣老をして、其所信を決断せしめたるも、岩瀬に外ならざりしこと事実にして明白なり。

 既にしてハルリスは出府して大に開国の議を以て堀田内閣に説き、永井川路の諸人も之に同意を為して幕議は条約訂結と決したるが、当時鎖攘の気焔は、水戸の導火線に由て熾に世上に唱えられ、列藩諸候の如きも大抵は開国説に傾きたりければ、幕閣は頗る之に関して難色ありしに、岩瀬は堀田を勧めて諸大名を招集せしめ、己れ自から其中に進み出で、開鎖の利害を堂々と弁じ、幕府が条約を結ぶを以て国家の大利益を謀るの趣意を説きたり。諸大名は内心その条約には不服の向もありしかど、岩瀬の才弁に説伏せられては、目のあたり一語の異議を提出すること能はずして、皆謹聴し敢て反対の詞を発する者も無かりけり。

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 されども、岩瀬は当時藩主の内命を帯びて出京せる越前の橋本左内と窃に結托し、青蓮院宮を始め奉り、三条公、其外の公卿を説くに、鎖攘の利害を以てし、開国の必要を論ぜしめ、己れも亦公卿に面会する毎に、其機を外さず論弁したれども、其効を奏するを得ずして、空しく堀田に先ちて東帰したり。
”当時京都の公卿が外国の事情に疎かりしは、実に予想の外に出でたり。橋本左内の報告に「三条実万公は政治に関して利害得失を聞分け玉ひ、実に非常の御方なれども外国の事情に至りては、一向に御分り無く恰も別人の如き状にておはします」と云へるを以て、其状況を知り、岩瀬が其才を展すこと能はざりしを察すべきなり。

 条約調印の勅許は未だ之を得るに至らず、而して英仏両国が戦捷の余威を以て、全権を日本に派遣するの時期は、方に目前に迫りたれば、「此上は勅許を俟たずして日米条約に調印し、対外政策の基礎を定むること急務なり」とは、当時外国掛の議にして、岩瀬は尤も其主張者なり。群議の交々之を不可なりとせるを排し、閣老松平伊賀守の果断を利用し、以て幕閣をして調印を独断せしめたるは、実に岩瀬の力なりき。


 水野筑後守(其時は田安殿御家老)は元来条約勅許論者の一人でありければ、此議論の際に、岩瀬に面会して曰く「幕府已に条約調印に関して勅許を京都に請へる以上は、米国全権へ対しては如何ようにも言延し、以て其勅許を俟つの外に方策あるべからず。然るを目下幕府の独断にて調印せば、他日不測の大患あらんこと必定なり。是足下の独断説は大に余が反対せる所なり」。岩瀬冷笑して曰く、「京都公卿には、宇内の大勢を弁別して国家の利害を悟り、条約勅許に同意を表すもの一人も無し是を知りながら、徒に勅許々々と勅許を恃み、其為に時期を失ひ、英仏全権等が新捷の余威に乗じて我国に来るを待たんは、実に無智の至りなり。斯る蟠根錯節の場合に遭際しては、快刀直截の外は有る可からず。国内不測の大患は、我素より覚悟する所なり。我は唯々国外より不測の大患を被らん事を恐るゝなり」と云々(是は水野筑州の直話)。当時また幕府の有識中にも、岩瀬が勅許を俟たずして調印するの議を主張せるを危ぶみて、頻りに岩瀬を難詰したるに、岩瀬は憤然として答へて曰く、「彼の日米条約の草案は、第一にハルリスが両国の利益を重んじ、及ぶ程の功夫を竭して立案し、次に不肖なれども、我輩が畢生の才智の揮ひて、論難数回を重ね、及ばずながらも日本の利益を保護して、漸く議定したる条約なり。今日の場合にては、仮令誰か全権に成りて談判しても、日本が富国強兵の実を挙げざる限りは、是より優等の条約を議定すること、尤も難しかるべし。是一ツ。次には此条約の調印を遷延し其中に英仏全権が十数艘の軍艦を率て品川沖に乗込み、和親貿易の条約を議定すべしと要求するに至らば、其要求は今日の日米条約よりは、遥に我国に不利益なる条款を多く議定する事に成らんは必定なり、寧ろハルリスが申す如く、早く今日の条約に調印して其関門を設け置くの安全なるに若かず、是二ツ。次には今日の条約に勅許なき程なれば、英仏の条約とても勅許なきは勿論なり。或は行掛りの上にて、英仏全権等が直に大阪に乗込み、勅許の大権ある京都へ談判すべしとて、江戸湾を去り西上せんこと、決して其必無を保し難し。斯ては忽に戦争の端を開きて、日本の禍を招くの恐あり、是三ツ。次には、「春秋城下の盟を恥づ」などゝ迂遠なる論を唱へ、勝敗に拘らず一戦を試みたる上にて、和親貿易を開くべしと主張する輩あり。一戦して頑固者輩に迷夢を醒さするは宜しけれども、其為に取返しの成らざる禍根を日本に残すは最も恐るべき事なり。故に今日の長計は早く日米和親条約に調印し、諸外国に対しては、戦わずして和するに若かず、是四ツ。次には勅許を俟たずして条約に調印する事より、議論沸騰して、益々朝廷の震怒を招き、徳川氏をして遂に不臣の名を得せしむに至る事もあらんが、畢竟朝廷にて、一途に攘夷と思召し給ふは、宇内の形勢を知食されぬ故なり。されば今日勅許を俟たざるは、不臣に似て実は決して不臣に非ざるなり、是五ツ。次には、此調印の為に不測の禍を惹起して、或は徳川氏の安危に係はる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、此場合に臨みては、社稷(シャショク)を重しとする決心あらざる可からず、是六ツ。此六ツの理由あるを以て、僕は断然調印の議を主張し、敢て一身の禍害を顧ざるなり」と云々(是は井上信濃守の直話)。

 条約調印に関しては、岩瀬辛くして其目的を達したれども、儲君議に関しては全く失敗して、井伊大老、幕閣に首座し、紀州殿御養君と定まり、復動かす可からざる事となれり。然れども岩瀬が越前候土州候およびおよび橋本左内等の諸士と謀りたるは、外にしては外国の交通を開き、内にしては政治を釐革(リカク)するの目的なれば、「此目的を達するには、年長賢明」の将軍家を戴かざる可からず。其事行はれずば、暫く一歩譲りて、一橋殿を御意見に立てゝ、大権を摂せしめ奉り、越前候及び有名の人々を政務の総裁と成し以て大に計る所あらん」と密議したり。然るに其事漏れ聞えたりけん、岩瀬は有志の諸大名および有司諸人と倶に、一網に打撃せられて初め閑散の地位に左遷せられ、尋で安政六年に厳責を被りて官職を褫奪(チダツ)せられたり(その後数年ならずして憂鬱の為に病みて卒去せり)。

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