真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮戦争、アメリカの正統性は? だから、ウクライナ戦争も・・・

2022年10月26日 | 国際・政治

 ロシア軍が一方的にウクライナに侵略したとされているウクライナ戦争は、実はそれほど単純な侵略戦争などではなく、ヨーロッパ諸国に対するアメリカの覇権や利益を維持するために、ロシアの孤立化、弱体化を意図して、アメリカが画策した戦争であるという側面を見逃してはならないと思います。

 1989年の冷戦終結に伴い、1991年3月にワルシャワ条約機構はその軍事機構を廃止しました。そして、7月に正式に解散しました。しかしながら、ワルシャワ条約機構に対抗していた北大西洋条約機構(通称NATO)は廃止も、解散もされず残されました。それは、アメリカがヨーロッパ諸国に対する影響力を維持するためであったといわれています。

 戦時中からアメリカがソ連の影響力拡大を恐れていたことは、先だって取り上げた朝鮮の38度線での分割占領案でも明らかだと思います。ソ連軍の急速な南下によって、朝鮮全域がソ連軍に占領されることを恐れたアメリカは、ソ連参戦直後の1945年8月10日、夜を徹して「三省調整委員会」を開き、38度線での分割占領案(後に「一般命令第一号」として世に出ます)を作成し、ソ連に提起したのです。

 そして、南朝鮮を占領したアメリカが、軍政庁を設置して何をしたのかを踏まえれば、ウクライナに対しアメリカがどのように関わり、何をしているのかを理解したり、どんなプロパガンダが流布されている可能性があるかを考える手掛かりが得られるのではないかと思います。

 アメリカは38度線での南北朝鮮の分割占領を提起したのみではありません。
 その後、アメリカは、すでに建国準備委員会によって進められ、”全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名による、全国人民代表社会において、南北朝鮮を合一した「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議”していたにもかかわらず、その「朝鮮人民共和国」の独立を受け入れず、南朝鮮単独政府の樹立に動いているのです。それは、米英ソ三国外相会議で合意された「モスクワ議定書」の内容にも反するものであったと思います。圧倒的多数の朝鮮の人たちも、国際社会も南朝鮮単独政府の樹立など望んではいなかったと思います。

 だからアメリカは、独裁者李承晩を担ぎだし、反民特委(反民族行為特別調査委員会)の断罪の対象である総督府時代の官吏や、高級官僚を利用して、共産主義者や社会主義者はもちろん、人民共和国派の政治家や活動家を弾圧し、拘束し、虐殺をくり返したのだと思います。
 ”米軍が避難住民に機銃掃射をくわえ死亡させた「老斤里(ノグンリ)事件」(忠清北道永同郡)も同じ頃に起こっている”というような記述を見逃すことはできません。

 また、下記には、
38度線でも南北の正規軍による小競り合いや陣取り合戦が絶えなかった。当時は南側に属していた開城付近での戦闘(49年5月)や西海岸に突き出た甕津(オンジン)半島での戦闘(9月)など、小競り合いの域を超えた数千人規模の攻防も起こっている。これら38度線を越えた奇襲攻撃のほとんどは韓国軍によるものだった。
 とあります。

 日本では、朝鮮戦争については、北朝鮮軍の越境攻撃が発端であるとされていますが、ウクライナ戦争と同じように、それほど単純な一方的侵攻や侵略などではないといえるように思います。
 また、北朝鮮軍の南進に、ソ連軍や中国軍は加わっておらず、客観的に見れば、それは朝鮮国内の内戦であったと思います。したがって、米軍や国連軍が、李承晩政権を支援して北朝鮮軍を攻撃する武力介入は、不当であったと思います。
 さらに、
 ”追い詰められたマッカーサーは、原爆の使用や台湾軍の中国侵攻を主張してホワイトハウスの首脳部と対立し解任される
 というような記述も見逃すことができません。恐ろしい武力主義だと思います。
  
 ソ連軍は、アメリカ軍と違って、北朝鮮占領の直後、”南北朝鮮を合一した「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立”を承認していたことも見逃してはならないことだと思います。
 歴史の歪曲やプロパガンダを、多数意見に基づくものとして追認してはならないと思うのです。客観的事実や、地域住民の本心を知ることが大事だと思います。
 金時鐘という作家が、当初解放軍として歓迎された米軍が、蓋をあければ、日本軍と変わらない占領軍だったというようなことを書いていたのを忘れることができません。
 
 だから、ウクライナ東部のルハンスク、ドネツク、南部のザポリッジャ、ヘルソンの各州で行われた「住民投票」で、ロシアへの編入に対する賛成票が多数を占め、プーチン大統領が四州の併合を宣言したことをもって、今まで以上にロシアを強く非難し、ウクライナ軍支援の方向性に走ることに、私は同意することはできません。
 「住民投票」に、言われているようなロシア兵の力が働いていたかどうか、投票結果が、住民の思いに沿ったものかどうか、しっかり確認して、あくまでも停戦・和解の方向で対応してほしいと思うのです。
 朝鮮では、圧倒的多数の人たちの思いを潰すかたちで、戦争が始められ、
和田春樹の算定によれば、北朝鮮側には死者・行方不明者、南への難民などによる人口の損失が272万人、韓国側には133万人あったとされる
 とあります。アメリカが軍事介入しなければ、これほど多数の犠牲者が出ることはなかったと思います。
 下記は、「新・韓国現代史」文京需洙(岩波新書1577)から抜萃しました。
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                  第1章 解放、分断、戦争

                3 朝鮮戦争とその社会的帰結

 開戦までの状況
 大韓民国が成立し、これに対する済州島や麗水での反乱が鎮圧されたとはいえ、李承晩政権は一向に安定しなかった。単独選挙による制憲国会(200議席)で多数派(85議席)を占めたのは、少壮派(ソジャンパ)と呼ばれた改革志向の無所属議員たちであった。李承晩直系の大韓独立促成国民会は55議席、韓国民主党も29議席、李範奭(イボムソク)らの右翼も18議席とまったくふるわなかった。そもそも、憲法づくりをめぐる論戦で李承晩は自身に有利な大統領制を主張してゆずらず、ついにこれをもぎとった。だが、大統領の選出権は国会にあるとされ、その権限は国会によって大きく制約されていた。しかも、それまで提携関係にあった李承晩と韓国民主党も国務総理の指名問題で決裂し、李承晩の国会での足場をさらに狭くした。
 少壮派は、駐韓米軍撤退や反民特委(反民族行為特別調査委員会)による親日派の断罪、さらに統一問題などで李承晩に攻勢をしかけた。新政府の行政、法曹、警察には日帝時代の下級官吏7万人余りが再登用され、政府の要職には反民特委の告発対象となる植民地時代の高級官僚30人余りが含まれていた(白ウンソン)「李承晩統治の評価──分断と民主主義」)。反民特委による活動は、そういう李承晩の政権基盤を大いに揺るがしたのである。

 窮地に立った李承晩はあ、49年6月、ソウル市警に反民特委を襲撃させる一方、「国会フラクション事件」(少壮派議員13名を南労党の工作員だとして逮捕した事件)をでっち上げて少壮派に反撃した。共産主義と内通したとのでっち上げや、警察や右翼をつかった力づくでの封じ込めは、李承晩が政敵追い落としのためにその後くり返して用いる手法であった。同じ6月におきた金九暗殺も李承晩の指図によるものだとされている。すでに前年11月には「国家保安法」が制定され、反共の名の下に政敵を合法的に追い落とすための制度的手段もととのう。

 一方で智異山に立てこもった3500人から6000人と推定されるゲリラが全羅道から慶尚道にかけての広い範囲で遊撃戦をくりひろげていた。38度線でも南北の正規軍による小競り合いや陣取り合戦が絶えなかった。当時は南側に属していた開城付近での戦闘(49年5月)や西海岸に突き出た甕津(オンジン)半島での戦闘(9月)など、小競り合いの域を超えた数千人規模の攻防も起こっている。これら38度線を越えた奇襲攻撃のほとんどは韓国軍によるものだった。李承晩は「北進統一」を叫んでしきりに北を挑発した。「北進統一」の決行を阻んでいたのはアメリカだった。49年6月に軍事顧問だけを残し朝鮮半島から撤退したアメリカは、この地でことがおこることを望んでいなかったのである。
 一方、北朝鮮の側でも事情はよく似ていた。49年3月、モスクワを訪れた金日成は、「全国土を武力解放する」ための「機が熟した」とスターリンに進言している。だが、スターリンは、「ソ連と米国の間にいまだ38度線分割協定が有効であることを記憶しなければならない。これにわれわれが先に違反すれば米国の介入を防ぐ名分がない」と反対した(和田春樹「朝鮮戦争全史」)。49年には北朝鮮の民主基地の基盤がかたまり、智異山での遊撃戦や中国内戦の状況も北朝鮮を”解放戦争”へと誘引していたのである。

 中国革命の勝利(49年10月)は、金日成の”解放戦争”への情熱を決定的なまでにかきたてることになる。49年7~10月には中国内戦で実践経験をつんだ精鋭の朝鮮人部隊が北朝鮮に帰った。さらに50年2~3月にも4万から5万人が帰還し、さしせまった朝鮮半島での内戦にそなえている(B・カミングス『現代朝鮮の歴史──世界の中の朝鮮』)。4月から5月にかけて金日成と朴憲永はモスクワと北京をあいついで訪問している。その際、二人はようやく、建国以来の悲願といえた”解放戦争”へのゴーサインをスターリンと毛沢東の双方からうけとったのである。
 朝鮮戦争は、こうして50年6月25日早朝(午前4時)、北朝鮮の人民軍が甕津半島で攻撃に出たことから始まった。だが、それは不意打ちというよりは、1年以上におよぶ”低強度戦争”の本格内戦への移行というべきものだった。

 朝鮮戦争下の虐殺・テロ
 甕津に始まった攻撃は、日が昇る頃には開城、春川など38度線の主要地点に及び、人民軍は、まさに破竹の勢いで南進した。韓国軍は総崩れで敗走し、人民軍はわずか4日目でソウルを占領する。さらに3ヶ月目には、韓国の90%の地域(人口の92%)を占領し、大邱・釜山を囲む慶尚道の一角のみが残された。これに対してアメリカは、中国の代表権問題でソ連がボイコットしていた安保理の決議を得て、国連軍の名の下に参戦し、戦争は第二局面に移る。9月15日、米軍を主力とする国連軍は、261の艦船と7万5000人の兵力を動員して仁川に上陸作戦を敢行した。人民軍は敗退し、28日にはソウルが奪還された。勢いづいた国連軍は、10月、38度線を越えて北進し、28日には平壌を占領、さらに人民軍を中国国境付近まで追い詰めていく。
 これに対して10月19日、中国軍(人民志願軍)が18万人の兵力を投入して参戦(11月には12万の兵力が追加投入される)して戦争は第三局面へと移り、内戦は異なる体制間の国際紛争となった。数に勝る中・朝軍は、米・韓軍(国連軍)を押し返し、12月6日には平壌を奪い返した。中・朝軍の反撃は38度線を越えてつづいた。年が明けて51年1月4日には、ソウルをふたたび占領してさらに進撃するが、37度線付近での米・韓軍の猛反撃にあって戦線は膠着した。
 追い詰められたマッカーサーは、原爆の使用や台湾軍の中国侵攻を主張してホワイトハウスの首脳部と対立し解任される。2月米・韓軍が総反撃し、戦争は第四局面となり、3月14日にはソウルを再び奪い返した。その後、38度線付近で両軍の一進一退のもみあいが続くが、51年6月、ソ連が休戦を提起する。休戦交渉は、北進統一に固執する李承晩の抵抗や捕虜の送還問題なあどで2年余りも引き伸ばされ、53年7月27日、ようやく停戦交渉が調印された。
 こうして3年余りにわたってつづいた戦争が南北朝鮮にもたらした人的・物的被害ははかりしれない。大雑把に300万人とされる犠牲者数も、実は、資料によってまちまちである。
 人口センサス(国政調査)から割り出した和田春樹の算定によれば、朝鮮戦争によって北朝鮮側には死者・行方不明者、南への難民などによる人口の損失が272万人、韓国側には133万人あったとされる(和田春樹『朝鮮戦争』)。米軍の犠牲者(死者)は公式発表で3万3629人であり、国連側は中国軍の戦死・行方不明・捕虜などによる損失が90万人に達すると推定している。さらに戦争の混乱でちりぢりに離散した家族は1千万人におよぶといわれる。
 戦争は、多くの非戦闘員を巻き込み、済州島での虐殺が朝鮮半島全域で再現される形となった。戦争が始まるやいなや犠牲になったのは、政治犯や、左派の経歴のある予備検束者、そして左派の懐柔や統制を目的につくられていた国民保導連盟のメンバーたちであった。韓国軍は敗走しながらも、保導連盟員を韓国のほぼ全域で虐殺した。保導連盟員として、虐殺された住民の正確な数字は明らかではないが、忠清北道だけでも連盟員1万人余りのうち3000人が殺害されている。全国で連盟員として登録されていたのは33万人であった(韓知希「1949~50年、国民保導連盟結成の政治的性格」)

 7月初めには、大田刑務所に収監されていた政治犯1800人が集団虐殺され、大邱、釜山の刑務所でも同じような虐殺があった。早期に人民軍が掌握した刑務所(ソウル・仁川など)以外では、そういう虐殺があった可能性がたかい。さらに、米軍が避難住民に機銃掃射をくわえ死亡させた「老斤里(ノグルリ)事件」(忠清北道永同郡)も同じ頃に起こっている。
 保導連盟員や政治犯に対する大量虐殺は、北朝鮮占領地での過酷な粛清や報復テロの動機や口実にもなった。逃げ遅れた韓国政府や民間右翼団体の関係者は”反動”として”人民裁判”や”粛清”の対象となった。さらに、「革命的テロが少数の反動を超えて一般人にまで拡大する組織化されたテロに変質した」(朴明林『韓国1950──戦争と平和』)。ある韓国側の資料(広報処統計局『6・25事変被害者名簿(其一)』)によると、「残忍非道な傀儡徒党」(人民軍と左翼)に殺害された「非戦闘員」の数は6万人近くにも及ぶ。
 国連軍が参戦にふみきった頃(50年8月)、洛東江付近で戦線が膠着し、人民軍は補給戦が南に伸びきって本隊の後方を脅かされ、窮地に立たされる。米軍は人民軍に占領されたソウルを猛爆撃し、韓国側の資料でも4000人以上が死亡している。この進退窮まる状況で金日成は、「部隊内に混乱をひきおこし、武器を捨て、命令なしに戦場を離れるものたちは、職位のいかんを問わずすべて人民の敵であり、その場で死刑にする」との命令を下した。(萩原遼『朝鮮戦争──金日成とマッカーサーの陰謀』)。
 仁川上陸作戦以後、北に敗走する人民軍は韓国軍の捕虜や”反動分子”を大量に虐殺した。数値は定かでないが、平壌では1800人、元山では500人、咸鏡道の咸興一帯では1万2700人が虐殺されたといわれる(朴明林『韓国1950──戦争と平和』)。一方、北朝鮮も、米・韓軍の北朝鮮への侵攻と占領にともなって10万人以上の住民が各地で虐殺されたと主張している。とりわけ黄海南道の信川郡(シンチョン)では住民の四分の一にあたる3万5383人が米軍によって虐殺されたという。だが、近年、この「信川虐殺事件」は米軍によるものではなく、米・韓国軍の反撃の報に接して蜂起した反共右翼によるものであるとの説が有力である。作家・黄晳暎(ファンソギョン)は、この「信川虐殺事件」を素材とした作品(「客人」を通じて、住民を悪魔として大量虐殺したプロテスタントたちの心の闇を描いている。
 戦線の後方では韓国軍による住民虐殺が各地でおこっている。人民軍残留兵パルチザンの討伐作戦を展開していた韓国軍第11師団は、山清、咸陽、居昌などの各地で無辜の住民を虐殺し、これを「共匪討伐」の戦果としたのだった。慶尚南道居昌郡では14歳以下の子供385人を含む19人が、殺害されている(居昌事件)。
 最大の民間人虐殺は、制空権をもつ米空軍の無差別爆撃によるものであったかもしれない。緒戦での破竹の南進にもかかわらず、北朝鮮軍は7月には制空権を失い、ソウルはB29による猛爆をうけた。北朝鮮地域に対する爆撃は、38度線付近で戦線が膠着し、休戦交渉が始まった51年以降も続いた。


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