真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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相楽総三(赤報隊隊長)の処刑 明治という国家

2018年02月10日 | 国際・政治

 明治4年、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚房を副使とする岩倉使節団一行が、欧米諸国視察のために日本を発っていますが、その最初の訪問国の米国で、使節団一行は大歓迎を受けたといいます。その時の晩餐会において、伊藤博文が英語で、下記のような内容のスピーチを行ったということですが、問題があると思います。そのまま受け入れることはできません。

今日、わが日本の政府および国民の熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。この目的のためにわが国ではすでに陸海軍、学校、教育の制度について欧米の方式を採用しており、貿易についてもとみに盛んになり、文明の知識はとうとうと流入しつつあります。しかも、わが国における進歩は物質文明だけではありません。国民の精神進歩はさらに著しいものがあります。数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました。このような大改革を、世界の歴史において、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでありましょうか。…”
 特に、”数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました”という部分がひっかかります。なぜなら、日本の近代化が始まる明治は、平和的に始まったのではなく、幕末に、外圧し対して、開国か攘夷かで激しく対立し、王政復古の大号令が発せられた後にも、戊辰戦争や西南戦争が続いて、多くの人が亡くなっているからです。詳しいことはわかりませんが、明治維新は、伊藤博文がいうような欧米のブルジョア革命とは同一視できない側面があるのではないかと思います。
 私は、王政復古の大号令が発せられた前後に、多くの人が戦いで亡くなったり、暗殺されたり、処刑されたりした事実から、明治新政府発は、「力は正義なり」を土台として天皇制国家をつくりあげていったように思うのです。

 薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て結成された相楽総三を隊長とする赤報隊が、「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで幕府に対して反発する民衆の支持を得て、幕府軍を追い詰め、挑発したことは否定しようがない事実だと思います。それが、計画通り進み鳥羽・伏見の戦いのきっかけになったもかかわらず、相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士は、結成を支援し、作戦を指示した人たちによって「にせ官軍」の汚名を着せられ、下記の資料1<「いい話ほどあぶない 消えた赤報隊」野口達二(さ・え・ら書房)から抜粋>にあるように、弁解の機会さえ与えられず、処刑されています。この時、下諏訪宿の外れで処刑されたのは相楽総三、大木四郎、西村謹吾、渋谷総司、高山健彦、金田源一郎、竹貫三郎、小松三郎の八名ですが、赤報隊三番隊の隊士の多くも処刑されたといいます。
 びっくりするのは、
そうだ、相楽という男に、”にせ官軍”になってもらうのだ。
みつのようなことばで百姓をまどわした男として、年貢半減の号令とともに消えてもらう。
と言って処刑を指示したのは、赤報隊の結成を支援した岩倉具視であるということです。西郷隆盛や大久保利通など、明治新政府発足当時の中心人物が深く関わっていることを見逃すことができません。

 司馬遼太郎が、「この国のかたち」のなかで、伊藤博文のスピーチと同じような内容で、明治維新を評価していますが、違和感を感じました。
明治憲法もまた他の近代国家と同様、三権(立法・行政・司法)が明快に分立していた。ただし、天皇の位置は哲学にいう空に似ていて、行政においては内閣が各大臣ごとに天皇を輔弼(明治憲法の用語)し、輔弼者をもって最終責任者として
とも書いていましたが、それはあくまで外面を整えたということで、その本質は一貫して「力は正義なり」を土台として進んだのではないかと思います。

 私は、幕末から明治のはじめにかけて、多くの人が暗殺されたり、処刑されたりしたこと、そして、それらに明治新政府発足当時の中心人物が深く関わっていたこと、さらにそうした不都合な事実が、その後隠蔽され続けたことなどから、明治が法や道徳を重視する民主主義的な近代国家ではなく、「力は正義なり」とする天皇制国家の方向に進んでいったように思います。そして、それが昭和の敗戦に至る道筋を作ったのだと思わざるを得ないのです。

 資料2は、「明治維新 暗殺 相楽総三」原田務(叢文社)から抜粋した文章ですが、赤報隊隊士の処刑がいかに巧妙に行われ、隠蔽されたかがわかります。特に、相楽総三の孫、木村亀太郎が赤報隊の生き残り隊士、藤井誠三郎に聞いた話が印象に残りました。


資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            ひとつぶのタネを胸に…
 ・・・
 あとは、相楽だけがのこった。検視は、
「相楽総三。そのほうには、総督のとくべつのごさたをもって、切腹を申しつける。なさけとこころえよ。」
といった。処刑役がなわをとこうとすると、相楽は、ことわった。
「無用のなさけだ。なさけとは、人のこころより発するものだ。もし、総督に、人のこころがあれば、とらえた理由をはっきりとあげ、それにたいする申しひらきを聞くべきだったろう。軍の会議などといつわって召し出し、だまし討ってなんのなさけだ。相楽は、なんの手むかいもせずとらえられ、しずかに申しひらきのときを待ったはずだ。その機会さえあたえられたら、おのれはべつとしておそらく、かれら有能な若者たちをこのように殺させはしなかったろう。」
と抗議した。そして、
「きみは、しゃぐまの色から見て薩摩藩の者のようだな?」
と、きいた。検視は、だまって目をそらした。すると相楽がいった。
「それなら、いつの日か西郷さんに会うときもあろう。…そのとき、相楽がこういって死んだとつたえてくれ。”手をかたくにぎりしめ、官軍先鋒隊として中仙道を進んでくれと、たのんだのはだれだ”と。…いまひとつ、人間は”はなせばわかる”とな。」
検視は、その間の事情を知っていたらしく、だまって聞いていた。相楽は、
「さあ、ころしてもらおう。」
といった。もう、切腹は無用、というように、胸をはっていた。
 二人の検視は、そんな相楽を見て、なにかささやきあったが、うなずきあい、
「斬罪に処す。」
と、刑の方法を変え、処刑役をうながした。相楽は、最期ときめ、
「天朝さまのおわす方は、いずれかな?」
とたずねた。そして、教えられた方角にむきなおり、深ぶかとあたまを下げた。そのあと、同志のなきがらをひとつひとつふりかえり、目をつむった。首斬り役人には
「太刀取り、しっかりたのむよ。」
といって斬られるのをまったという。
 処刑が終わり、夜になって、八人の首がさらされた。
 さらし場の矢来の外には高札がたてられ、青い月の光にてらし出されていた。
 百姓たちは、まるで自分の首をさらされているような思いがして、早ばやとそこを立ち去った。 
 五兵衛と、弥五郎と、りえがのこっていた。五兵衛は、りえに、
「花を。」
といった。りえは手おってきた寒梅を、矢来のかたわらへたむけた。
 五兵衛が、手をあわせた。
 りえは、おれたちは、ただこうすることしかできないのか…と思った。また、あれだけ集まったひとが、処刑されるのを、ただじっと見ていただけじゃないかとも思った。そう思うと、やりきれなくなって、なみだがこみあげた。
 りえは、小石をひろって、霊をとむらうように、つみあげた。
 弥五郎も、かたわらで、一つ、二つとつんだ。
 五兵衛は、ひくい声で、高札を読んでいた。それは相楽にかんするものであった。
「右の者、御一新の時節につけいり、勅命をいつわり、官軍先鋒ととなえ、総督府をあざむきたてまつり、かってに進退し、あまつさえ諸藩へ応接におよび、あるいは良民を動かし、ばく大な金をむさぼり、いろいろ悪業をはたらき、その罪、かぞうるにいとまあらず…。」
「なんてことじゃ!」
五兵衛はいかった。
いまひとつは、七人の同志たちのものであった。
「右の者ども、相楽総三に味方し、勅命といつわり、強盗無頼の党を集め…。」
とあった。弥五郎は、
「うそだ、うそだ!」
とさけんだ。りえは、むせび泣いた。
弥五郎は、あたまをかきむしって、
「おれたちが強盗け! おれたち百姓がならずものかよ! みな御一新という”世なおしに期待し、集まった者ばかりじゃねえか。まっ正直な、はたらき者ばかりじゃねえか! 御一新だなんて、こんじゃ、さむれえのやることばかりじゃねぇ天朝さまのやることもしんじられねえってことじゃねえか。おれたちは、なにをよりどころに生きていけばいいんだ!」
と泣いた。さらし首は、弥五郎にも、自分たちの首のように見えた。
 …、りえがつぶやいた。
「相楽さんたちからもらった、ひとつぶのタネだよ。みんながそれを、胸のそこにうえつけるのだよ。…いつか、若葉がでる。」
 雪風が、きびしくふきぬけていった。
 五兵衛がいった。
「御一新は、ただ、、ふきあれて、わしたちの頭をとおりぬけていった。…また、ふぶきがつづく。」

 その後も、百姓たちの暮らしは、なんにもらくにはならなかった。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
闇の維新 相楽総三
                             十
 ・・・
 八人の首は刑場に梟首(キョウシュ)され、高札が三本立てられた。その一本は次のような総三への宣告文である。
相楽総三
 右之者、御一新之時節ニ乗ジ、勅命ト偽リ官軍先鋒嚮導隊ト唱ヘ、総督府ヲ欺キ奉リ、勝手ニ進退致シ、剰(アマツサ)ヘ諸藩ヘ応接ニ及ビ或ハ良民ヲ掠(オビヤカ)シ、莫大ノ金ヲ貪(ムサボ)リ種々悪業相働キ、其罪数(カゾウ)ルニ遑(イトマ)アラズ、此侭打棄(コノママウチステ)候テハ、弥(イヨイヨ)以テ大変ヲ醸シツ、其勢ヒ制スベカラザルニ至ル、之ニ依テ誅戮(チュウリク)梟首、道路遍(アマネク)諸民ニシラシムルモノ也。

                             十一
 ・・・
 なんでも、西郷は最愛の弟子益満が戦死したと聞くと、人前も憚らずオンオン声をあげて哭いたそうだが、その至誠温情な西郷がよもや相楽、伊牟田、益満を自己権謀の犠牲に供したとは誰にも思えないが、しかし結果的にはとにかくそうなってしまったのである。現にそうだった。
 西郷というと、つい大西郷というイメージが浮かび、批判心がとたんにとろっと甘く溶けて無くなってしまうが、考えてみると、彼らのほか、何十人もの草莽隊の志士たちが使い捨てに殺されているのである。この全部について、官軍の総大将格の西郷は無関係ということになっているが、果たしてそんな不自然なことが有り得ようか?…。
 また官軍が江戸城への入城をはたした後、有馬籐太が西郷吉之助に、
「さて、いよいよこんどは攘夷ですね」
と意気込んでいうと、
「そうか、お前にはまだ言ってなかったな。攘夷というのはな、ほんとうは幕府を倒すためのただの方便だったのよ」
 と、実にあっさりと言ってのけたそうだが、幕府が朝廷に無断で米国と日米修好通商条約を結んだときの、あの藩内の嵐のような尊王攘夷の絶叫を鮮明に覚えていただけに、恐らく有馬は西郷の顔をエツ? と奇異な眼で見直してしまったにちがいない。
 明治時代から西郷きらいの学者や史家がいるが、こんなところにこの人を、<謀略の徒>と極めつけるゆえんがあるのだろう。

 ・・・
 --ここに、たった一件だが次のような話が残っている。相楽処刑から二ヶ月足らず後の四月下旬のことである。事件当時斥候などでよそへいっていた隊員や、総三らの悲惨な最期を様々な情報から克明に知り、その悪辣極まるやり方に激怒した在京の薩邸生き残りの同志が集まり、権田直助、科野東一郎を中心に、事件の元凶は、調査するまでもなく岩倉具視だと復讐の暗殺計画を立てた。だが、残念ながらこれは岩倉の側近に洩れてしまい未発におわってしまった。

                        終章  - 暴露の香華 -
 ・・・
--最後になってしまったが、この話も、大正年間にはいってからのことである。武州多摩の出身で、薩邸の浪士隊から赤報隊時代までずっと総三と行をともにした、藤井誠三郎という生き残りの隊士がいた。
 藤井は、薩邸焼討ちのときは、上の山藩の総指揮者金子六左衛門を至近距離まで迫って鉄砲で倒し、また野州行の竹内啓の隊が惨敗した時は、その復讐にわずかな人数で、新川河岸の八州方役人屋敷へ討ち入りを決行した人だ。殺伐だが、直情径行の竹を割ったような性格の男だった。
 だが、その時分にはもう若い頃の面影はなく、落魄のどん底に落ち、煎餅布団にくるまって下谷御徒町の裏店の片隅に横臥していた。その藤井誠三郎を、木村亀太郎が死ぬ少し前に尋ねている。
 身動きできない老残病苦でいながら、総裁の孫の訪問に感激して眼を輝かし、乏しい血を湧き立たせ、
「われわれが若いとき夢みていた、王政復古が実現をみますと、とたんに薩長が権力を妄(ミダ)りにいたしだし、われわれ関東武士が血みどろになって働いた功はすべて奪われて、彼らの独り占めなものとなってしまいました。明治維新の火蓋を切らすにいたったわれわれの功は、すっぽり闇から闇へ葬られ、それからの彼らは、われわれ関東武士の生き残りが一日も早く世の中から消えていくことのみ望んでいるのです。だからときに関東武士で勤皇に働いたものが、一人でも世に出ようとすると、かならず陰に廻って悪辣に迫害します。浪士隊の幹部だった落合源一郎さんは、伊那県の大参事にまでなられたのに、ありもしない飛んでもない嫌疑で叩き落されたし、やはり幹部だった権田直助さんは、大学教授をしているとき陰謀に引っかけられ、国事犯の嫌疑を受けて同じく追放されてしまいました。したがいまして、残念ながら将来とも薩摩屋敷の総大将としての相楽総裁の名は世間に出ないでしょう。必ずこれは私の言葉どおりとなりましょう。とにかくこのようにして、多くの勤王を叫んで戦死した関東の侍たちはみんな、薩摩の我利我利亡者(ガリガリモウジャ)どもを顕彰するための敷石になってしまいました…」
 と、火を吐くような憎悪を込めて薩藩を罵倒したあと、
「相楽総裁は、背の高さ五尺七寸ちかく、ちょっと見ると怖いようだが非常にやさしく、気性は上に強く下に弱かったですね。そういう点があるので、西郷と争論したり、総督府や参謀と争ったりして、これは是なりと信じたら梃子(テコ)でも動かない、というところがありました。そういったことが欠点といえば欠点で、そのためにずいぶん損もしたし、また落命の遠い原因はそこにあったと思います。しかし、下諏訪の梟首(キョウシュ)高札のあの文句は何たることでしょう。あれが強盗無頼なら維新のときに、強盗無頼ならざるものが幾人いるか、ほかのどのような事例と比べても、われわれの方は何もやっておらんといっていい。あの際は官軍の費用が不足なので土州とか薩州とか長州とかいう大藩が控えている藩士は、多少とも藩主から手当てがあったろうが、勤王浪士という側は、費用は全部自分持ち。総裁はもとより赤坂の実家からたびたび多額の金をもってこられたし、金原忠蔵は下総の富豪の子だし、渋谷もそうだし、小松三郎も家が豊かなので、こういう人たちが自分の家の金を注ぎこんだ。あのころの勤王浪士を二ツに分けて、一ツは資産のある者、一つは困窮の者、この二つがどっちも片寄らず旨く行ったのはそういう風であったからです。それにしても薩藩の出身者が世にときめいている限り、相楽総三の名はぜったいに有名にならないでしょう。総裁は筑波山のときも、藤田小四郎などの考えが小さいので袂をわかちました。不徹底が嫌いだったのです総裁はーーだから、下諏訪で命が助かったとしても、きっとどこかしらで、何とかかんとかして殺されていたに違いありません」
 こういって、しまいには堪えきれず声を放って哭(ナ)いた。

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