真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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終戦時朝鮮の治安対策の混乱

2021年07月20日 | 国際・政治

 しばらく前までは、特に文化的な面を中心にして、日韓関係は良好だったと思います。多くの人が観光で行き来していましたし、いろいろな分野の交流が盛んに行われていたからです。日本では、韓流ブームがありました。K-POPが好きな日本の若者もずい分増えていたのではないかと思います。逆に、韓国でも、日本のアニメやマンガ、音楽その他の日本文化に興味を持つ若者がずい分増えたと聞いています。
 にもかかわらず、このところの日韓関係は最悪です。竹島問題、慰安婦問題、徴用工問題、貿易問題その他の政治的対立が連日マスコミを賑わすようになり、先日は、韓国メディアが東京五輪の選手村における横断幕の撤去要請を猛批判し、新たな垂れ幕も登場するに至ってます。そして、オリンピックに出場予定の選手たちも、そうした政治的な問題と無関係ではいられない立場に追い込まれてきているように思います。
 それは、日本の安倍・菅政権が、韓国の文在寅政権とは、過去の歴史認識や政治姿勢がまるで違っており、関係改善が望めないと判断して攻勢を強めている結果ではないかと、私は想像します。

 だからこそ、日韓の歴史をきちんとふり返り、歩み寄る努力が欠かせないと思うのですが、現在の日本には、残念ながら、ふり返ることすら受けつけない雰囲気が広がっているように思います。
 私は、現在の日韓の諸問題は、日本側がかつての「村山談話」の姿勢を堅持して話し合いにのぞめば、必ず解決できると思っています。
 「平和の少女像」をめぐり対立が深まっている”日本軍「慰安婦」”の問題も、元日本軍「慰安婦」であった人たちの尊厳の問題として受け止め対応すれば、根本的解決も可能だと思います。でも、安倍政権による「日韓合意」は、「最終的かつ不可逆的な解決」などという言葉をつかっていますが、尊厳の回復を求めている当事者を脇に置いた政治決着であり、問題を複雑にしただけで、「最終的解決」に「不可逆的解決」にもならないものだったと思います。
 言い方を変えれば、安倍・菅政権による日韓合意は、戦時中の日本人の尊厳を守るために、元日本軍「慰安婦」の尊厳の回復は認めない内容であったということです。

 それは、極論すれば、”元日本軍「慰安婦」は売春婦であったのか、それとも、日本人によって「慰安婦」にさせられたのか”という問題であり、その歴史認識を共有することが欠かせないと思いますが、それをしようとしない安倍・菅政権では、日韓の関係改善は難しいと、私は思うのです。

 そういう意味で、下記のような終戦時の記録も、歴史認識に関わり、頭の隅に置いておくべきだろうと、私は思います。
 終戦時の朝鮮における日本の治安対策は混乱しています。当時の朝鮮における治安の責任者、西広警務局長が、”終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考え”たこと、そして、”この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏”などの独立運動家を思いうかべ、日本の韓国併合に抵抗した独立運動家に頼る方法をとったことは、前回とりあげました。
 遠藤政務総監も、呂運亨氏招いて、”…あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入るまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力を御願いしたい”と依頼していました。

 でも、軍はそれを認めず、下記抜粋文にあるように、朝鮮軍管区報道部長、長屋少将は、”…朝鮮軍は厳として健在である”として、武力をもって治安維持にあたることを宣言したのです。
 また、井原参謀長は”…絶対に軍隊を一個小隊以下にするな”と全軍に命を下し、また、兵隊のひとり歩きを厳禁したといいます。京城の部隊では、”町を歩くときは、かならず三人以上”と厳命されたとのことです。
 そうしたことも、日本の朝鮮支配がどういうものであったかを物語っていると、私は思います。
 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)から、「第三章 終戦時の朝鮮」の「三 日本軍の終戦対策」を抜粋しました。
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             第三章 終戦時の朝鮮

             三 日本軍の終戦対策

  3 治安対策
 八月十五日に終戦後の治安維持のために、各地で警備召集が行なわれた。一方軍隊にあるもののうち、召集前に警察官であった約四千名が、十五日の夕刻に除隊になり現職に復帰した。また、朝鮮人兵は全員、除隊になった。
 十六日、朝鮮建国準備委員会が活躍を開始して、京城が騒然としたときに、はじめて軍は遠藤政務総監と呂運亨氏との間に交渉があったことを知った。若い参謀たちは、この工作について軍に事前相談をしなかったことを怒り、総督府に抗議して、今後は軍が治安の指導力をもつことを主張し、総督府側の承諾をとるとともに、両者間で「政治運動取締要領」を策定した。
 その日に、朝鮮軍管区司令部は「管内一般民衆に告ぐ」と題する布告を発して、「人心を撹乱し、いやしくも治安を害するごときことあらば、軍は断固たる処置をとるのやむなきに至るべし」と警告した。十八日に、朝鮮軍管区報道部長長屋少将はラジオ放送を行い、
「一党一派、目前の野望に走り、ただただ社会秩序をみだし、何ごとか私の利を獲得せんとしてか、東亜のこの悲劇を奇貨とし、あるいは、食糧を龍断し、交通通信機関の破壊または略奪・横領をくわだて、治安を害せんとする匪賊的行為に出ずるものがある。朝鮮軍は厳として健在である。今にしてその非を悟らずんば、ところと場所を問わず、断固武力を行使するのやむなきは、先日の軍当局の発表によっても明瞭である」
と述べた。日本軍は日本人保護に必要な地点に出動した。京城では二十日に京城師管区司令官菰田康一(コモダコウイチ)中将が、京城警備司令官に任命され、隷下部隊のほか、在京城第120師団をあわせ指揮した。兵力はおよそ歩兵約二個連隊で、一般治安のほか、とくに食糧の収集に努力した。
 西南海岸にあって、米軍の上陸をまちかまえていた部隊の一部が戦車や装甲自動車をつらねて主要都市に集結した。いなかで迫害になやんでいた日本人は、軍隊に助けられながら都市に避難してきた。また、軍隊の力で警察や官庁や新聞社の接収をとりもどした。
 井原参謀長は全軍に命を下し、「武力の発動は最悪の事態に限る」「絶対に軍隊を一個小隊以下にするな」と伝え、兵隊のひとり歩きを厳禁した。京城の部隊はでは、「町を歩くときは、かならず三人以上」と厳命された。それは民心の激動期に朝鮮人民衆と軍隊との摩擦を少なくし、あくまで流血を防ごうとするにあった。軍の出動にもかかわらず流血騒ぎが少なかったのは、この首脳部の指令よろしきを得た結果といえよう。
 また、軍としては、きたるべき日本軍の武装解除にそなえて、九千名の軍人を警察官に転属させ「特別警察隊」を編成し、銃剣をもたせ、警察官の服装をあたえて赴任させた。
 しかし、この軍の出動は、朝鮮人側、ことに発足当初の意気さかんな朝鮮建国準備委員会の人々にとって、このましいものではなかった。日本軍への感情が悪化し、一部には衝突のおそれさえ予想された。十八日夜、当時の京城師管区参謀貝出茂之少佐は、平服で単身、鍾路の長安ビル内にあった同会の保安隊本部を訪れて、事態収拾について保安隊幹部と話合いを行なった。これについて、朝鮮人側の記録には、
「異論百出、だが長年の旧怨をすてて、切迫した事態を円満に解決しようという点では意見が一致した。この混乱期にかれが保安隊と日本軍との中にたって調整の労をとったことは、事態を円満に解決するのに陰に陽によい結果をもたらした」
と述べている。また、総督府は軍の強硬な要請により、二十日に朝鮮人団体の責任者を鍾路警察署に召集し、同日午後五時かぎり朝鮮人側の政治または治安維持団体はその看板をおろし、即時解散することを命じた。しかし、これに対して、二十一日に、建国準備委員会総務部長崔謹愚氏は朴錫胤氏とともに遠藤政務総監をたずねて、軍の強硬な態度は約束に違うと抗議した。政務総監は、井原参謀長に直接あって解決するようにといったので、崔・朴両氏は井原参謀長をたずねて、神崎大佐らと会談した。席上相互のきびしい応酬ののちに、建国準備委員会だけはその看板をおろさず、治安に協力することになったという。
 軍は、日ごろ朝鮮人に接していないために、政治的感覚がにぶく、その工作はつたなかった。ために、かえって混乱をひきおこしたところも少なくなかった。
 全羅北道裡里にいた護鮮兵団長(第160師団長)は、八月二十日に告辞をラジオで発表したが、その中に「軍は総督府と協議の上、警察・憲兵の後盾となり、治安維持に任ずるとともに、要救護物件・住民の保護に任ず」といい、
(一)宗主権委譲せらるるまでは、朝鮮は皇土にして、朝鮮人民は皇民なり。よろしく聖旨を奉戴し、皇国臣民の誓いを朗唱し、平静事に従うべし。内鮮人相互絶対に相剋すべからず。
(一)独立運動は、いっさいこれを認めず。……韓国国旗の掲揚は厳禁す。
(一)治安維持のための団体結成を認めず。ただし軍・官憲に協力するものも申出に対して軍において統制す。
と述べている。
 忠清北道では、小林地区司令官が、八月十五日・十七日の二回にわたり警備召集(在郷軍人の召集)を行なおうとしたのに対し、坪井警察部長は知事の意見により、これを阻止することにつとめ、さらに警察官をつかって令状を配布するのをとめる一方、警察部が朝鮮人保安隊の後援者になることを発表した。しかし、軍は八月二十三日に、その保安隊に解散命令を下して、警察部の工作に反撃した。軍から編成替えした四百名の特別警察隊員が、八月二十五日から九月一日の間に三回にわたり忠清北道に派遣されてきたが、道警察部が「援助を必要としない」と述べて、総督府と連絡の上、隊員をその自由意思に任せて家に帰らせた。その際、四名だけが、自由意思で警察に残ったという。軍が警察側の工作を理解せず双方対立的になったところはほかにもみられたが、忠清北道がもっとも甚だしかった。
 全羅南道では、道知事が許可した九月九日の朝鮮人側の祝賀行進を師管区司令部が反対し、八木知事はその説得に苦労して、ついに行なわせることができた。
 江原道陵で八月二十九日に、慶尚南道河東で八月二十日に、統営で九月二十九日に、特別警察隊員による発砲事件が起こり、いずれの地でも、対日本人感情が急に悪くなり、河東と統営では、朝鮮人の死亡者がでて、関係の日本人の拘留をみた。
 軍は、一般日本人に「治安維持は軍が責任をおう。軍は最後にひきあげる」と宣言したが、北朝鮮では軍がまっ先にソ連軍から武装解除をうけえて抑留され、南朝鮮では軍がまっ先に米軍から引揚を命ぜられた。一般日本人は、従来の観念から軍に頼ろうとしていたため、とくに北朝鮮ではその悲劇を大きくした。軍が米ソ両軍に行なった交渉については次章で述べる。

 なお、血気にはやる青年将校の中には、終戦を痛憤して、自決するものもいた。平壌では、八月二十五日、第五空軍の飛行将校六名が重爆撃機にのり、思いきり飛んだのちに平壌飛行場内で自爆した。これは一説にあまりに低空飛行したために、地上の建物と接触して墜落したともいう。済州島でも、終戦後、第五十八軍管下の砲兵隊の見習士官が割腹自殺したことが報ぜられている。羅南では、八月十八日に武装解除の準備を行なっている間に、下士官および上等兵一名が手榴弾で自殺を計った。


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