「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

天照大神(徐福)の生涯

2018-06-04 05:32:36 | 天照大神(徐福)
  
1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。
 徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われる。天忍穂耳は少年一行の中でも年長であり、その時18歳位であったと思われる。饒速日命は紀元前208年頃の生まれであり、次男が生まれる前に亡くなったのであるから、享年25歳~30歳とすれば、紀元前180年頃となる。徐福(天照大神)の死亡年と同じ頃と思われる。瓊々杵命は紀元前180年頃には生まれていたはずである。瓊々杵命の関金への降臨のとき(紀元前180年頃)、天照大御神は亡くなっていたか亡くなる前であった。大国主は饒速日命と年齢は同じくらいのはずである。同じく、素戔嗚の長男と天忍穂耳の長男として、紀元前210年から数年後に誕生している。饒速日命が降臨した時には大国主・大年神も葦原中つ国に多くの子供ができていたはずである。
 瓊々杵命が茶屋条の大宮神社に降臨したときは20歳くらいになっていたはずであるから紀元前160年頃である。この頃に出雲大社のモデルが造られている。天孫族は4歳の瓊々杵命が成長するのと同じく大国主・大年神の子たちが成長するのを待たなければならなかった。瓊々杵命は関金の矢送神社に降りてきて20数年後に下種の大宮神社の御所に移った。
 古事記では天照大神は天孫が降臨してもまだ高天原にいたように書いているがこの時はすでに伊勢野の天照皇大神宮に降臨していた。瓊々杵命が関金に降臨する頃は天照大御神は亡くなっていたか亡くなる前であった。藤原氏は伊勢野の天照皇大神宮を隠すために古事記を改ざんしている。
 古事記には「そこで天照大御神、高木の神は勅命して、天忍穗耳に『今、葦原の中つ国は平定し終わったという。そこで、言依さしに従って天降り、その国を治めよ』と言った。天忍穗耳は答えて、『天降りしようと服を着替えておりましたところ、私の子が生まれました。名は邇邇藝命といいます。この子を降らせた方がいいかと思います』と言った。この御子が、高木の神の娘、萬幡豊秋津師比賣を妻として生んだ子が、天火明命、次に邇邇藝命の二柱である」とある。

2 丹後の籠神社の祭神は奈良時代までは彦火火出見尊であった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2)『消された大王饒速日命の謎』の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神の火明命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、彦火火出見尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、火火出見尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・火明命として祀っております。」とある。これは、火明は、本来「火火出見」であったということである。
(3)私見
 丹後の籠神社の祭神は彦火明命であり、先代旧事本紀も天火明命と饒速日尊は同神とするので、天火明命=饒速日尊は丹後の籠神社に行っていたものと思っていた。しかし、海部宮司は「籠神社の祭神は奈良時代以前は彦火火出見尊であった」と言うので、天火明命=饒速日尊は丹後に行っていない。

3 私見
「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。徐福(天照大神)も丹後には行っていない。
 饒速日尊が亡くなったので、天忍穗耳はこういう返事(瓊々杵命が生まれたこと)をしたのである。天照大神がいつ高天原から伊勢野の皇大神宮に降りてきたのかは古事記からは分からないようにしてある。
 因幡の白兎伝説について白兎を徐福一行に、和邇を始皇帝に比定する人がおられたが、面白い説だと思います。まさにそのとおりかもしれない。千代川流域にも白兎に代表される一族がいて、天照大神の装束をくわえて霊石山に導いたという伝承が因幡国にはあるから、白兎が徐福一行ならば、年老いた長を導くのは当然である。また徐福がいつまでたっても状況を復奏しないので、始皇帝の部下が徐福を追っていたのではないだろうか。徐福一行の装束は白い装束であったそうである。

 余談 
 和邇(鰐)とは丸木舟を操る船頭のことである。丸木舟がサメの形に似ているからこのように言う。丸木舟の大きさによって一尋鰐、八尋和邇に分けられた。いわゆる丸木舟による海上タクシーである。住吉海上交通のほうが古いのだが(縄文海進ピーク時以前からあった)、因幡の白兎では綿津見海上交通が利用された。大綿津見神とは、和邇(鰐)たちの頭領であった。本拠地は辰韓・慶州近くの港である。
 
 


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