ワシントンDC中心から北西部に行くと、ジョージタウンの町並みがある。
いわゆる高級住宅街で、街灯や街路樹も整備されていて、非常に気持ちの良い場所である。
あいにく雪がまだ結構、残っているので、足場は良くなかったが、
散策して歩くには、うってつけの場所といえるだろう。
ジョージタウンのM通り沿いには、米国最大手の書店チェーン「Barnes & Noble」が店を構えている。
今朝は散策ついでに、その店に立ち寄って、品揃えの具合を確認しに行った。
目当てはもちろん、冷戦史や軍事史、情報関係の文献であったが、
率直に言って、大した物は置いていなかった。
いまやインターネット書店「アマゾン」のおかげで、
日本にいても、欲しい文献は即座に手に入れられるようになったため、
店頭にあるものは大半がすでに購入済みのものであった。
唯一、ケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリューが、MI5の公式史を発刊していたので、
それを購入するかどうか迷ったが、
とりあえず、冷戦史に関するもので、米国ではどんなものが入門書になっているのかを知るために、
次のような文献を買ってみた。
Merrilyn Thomas
The Cold War:A Beginner's Guide
Oxford: One World, 2009
日本でも、冷戦史を扱った入門書は複数、出版されている。
しかし、いずれも好評を博していないのは、
基本軸となる冷戦観がまったく共有されていないからである。
「冷戦をどう考えるか」という問題は、実は20世紀後半の国際政治を見定めるだけでなく、
実を言うと、21世紀の行方を捉える上でも非常に重要な問題であるにもかかわらず、
日本では、その議論がほとんどなされないまま、ソ連崩壊という既成事実のみにこだわり、
その歴史的評価を下すことから逃げてきたのである。
それに引き換え、本書はまさに入門書、しかも一般向けのものであるにもかかわらず、
明確に冷戦とは、「おおむね米英ソ、そして東西ドイツの情報機関同士の戦いであった」と言い切っている。
冷戦期における情報活動の役割は、日本の冷戦史研究ではほとんど言及されることがなく、
お慰め程度に、核スパイ事件などの問題が出てくるくらいであるが、
米国では、極めて初歩的な入門書でさえも、
冷戦がまぎれもなく「諜報戦」であったことを認めているのである。
この認識の差は一体何なのだろうか。
米国で学んできた日本の学者たちは、一体ここで何を見てきたというのだろうか。
逆に言えば、米国人にとって、冷戦を「諜報戦」と捉えることは、実にごく当たり前の認識であって、
今更、あえて強調するまでもないことなのかもしれない。
そうだとすると、日本は結局、冷戦というものの本質が何も分からないまま、冷戦終結を迎えたのである。
このパーセプション・ギャップが持つ意味は、極めて大きい問題をはらんでいる。
それは何も政策的な問題だけでなく、歴史的検討を加える上でも、重大な示唆を含んでいると思われる。
訪米して早々、思わぬ収穫を得た日であった。
いわゆる高級住宅街で、街灯や街路樹も整備されていて、非常に気持ちの良い場所である。
あいにく雪がまだ結構、残っているので、足場は良くなかったが、
散策して歩くには、うってつけの場所といえるだろう。
ジョージタウンのM通り沿いには、米国最大手の書店チェーン「Barnes & Noble」が店を構えている。
今朝は散策ついでに、その店に立ち寄って、品揃えの具合を確認しに行った。
目当てはもちろん、冷戦史や軍事史、情報関係の文献であったが、
率直に言って、大した物は置いていなかった。
いまやインターネット書店「アマゾン」のおかげで、
日本にいても、欲しい文献は即座に手に入れられるようになったため、
店頭にあるものは大半がすでに購入済みのものであった。
唯一、ケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリューが、MI5の公式史を発刊していたので、
それを購入するかどうか迷ったが、
とりあえず、冷戦史に関するもので、米国ではどんなものが入門書になっているのかを知るために、
次のような文献を買ってみた。
Merrilyn Thomas
The Cold War:A Beginner's Guide
Oxford: One World, 2009
日本でも、冷戦史を扱った入門書は複数、出版されている。
しかし、いずれも好評を博していないのは、
基本軸となる冷戦観がまったく共有されていないからである。
「冷戦をどう考えるか」という問題は、実は20世紀後半の国際政治を見定めるだけでなく、
実を言うと、21世紀の行方を捉える上でも非常に重要な問題であるにもかかわらず、
日本では、その議論がほとんどなされないまま、ソ連崩壊という既成事実のみにこだわり、
その歴史的評価を下すことから逃げてきたのである。
それに引き換え、本書はまさに入門書、しかも一般向けのものであるにもかかわらず、
明確に冷戦とは、「おおむね米英ソ、そして東西ドイツの情報機関同士の戦いであった」と言い切っている。
冷戦期における情報活動の役割は、日本の冷戦史研究ではほとんど言及されることがなく、
お慰め程度に、核スパイ事件などの問題が出てくるくらいであるが、
米国では、極めて初歩的な入門書でさえも、
冷戦がまぎれもなく「諜報戦」であったことを認めているのである。
この認識の差は一体何なのだろうか。
米国で学んできた日本の学者たちは、一体ここで何を見てきたというのだろうか。
逆に言えば、米国人にとって、冷戦を「諜報戦」と捉えることは、実にごく当たり前の認識であって、
今更、あえて強調するまでもないことなのかもしれない。
そうだとすると、日本は結局、冷戦というものの本質が何も分からないまま、冷戦終結を迎えたのである。
このパーセプション・ギャップが持つ意味は、極めて大きい問題をはらんでいる。
それは何も政策的な問題だけでなく、歴史的検討を加える上でも、重大な示唆を含んでいると思われる。
訪米して早々、思わぬ収穫を得た日であった。