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History, Strategy, Ideology, and Nations

12月15日

2009年12月15日 | NEWS & TOPICS
 小沢幹事長が再び記者会見に応じて、一体何が問題なのかと開き直っているとのことである。
 新聞記者が不勉強なことを見越して、「勉強してこい」と啖呵を切るあたり、
 小沢幹事長自身も丁寧に説明できるほど、憲法解釈に精通しているわけではないのだろう。
 なぜなら、その根拠として挙げているのが、
 「天皇の国事行為は内閣の助言と承認に基づく」という憲法上の規定だけだからであり、
 今回の件では、その条文を都合よく解釈しているだけにすぎないからである。
 記者からの質問を威圧的に封じようとしたのは、
 その論理構成が出鱈目かつ恣意的なものであることを暴露されないためであろう。
 慶應の法学も地に堕ちたものである。

 それにしても「内閣の助言と承認」さえあれば、天皇の行動を統制できると考える思考回路は、
 神をも恐れぬ所業と言わざるを得ない。
 従来の内閣は、憲法上、そうした文言があるにせよ、
 天皇の置かれた地位や過去の経緯を鑑みて、天皇に上奏しつつ、その意向を尊重する姿勢で臨んできた。
 小沢幹事長の立場は、まさに「憲法原理主義」とでも言うべき代物であり、
 国民主権の前に天皇はそれに服すべきとの解釈が根底には存在するのだろう。
 
 しかし、それは戦後民主主義が日本人に説いて諭した一種の理念型にほかならない。
 かつて明治期に自由民権運動が盛んに繰り広げられたが、
 「民主」という言葉を使っていないことに注目する必要がある。
 それは日本の君主はあくまで天皇にほかならず、
 国民はその臣下として権利を与えられる存在と捉えられていたからである。
 大正期も「民主主義」とは直接言わないで、
 「デモクラシー」と外来語で誤魔化していたのも同じ理由からである。

 ところが、戦後、そうした感覚が否定され、天皇は「象徴」という捉え所のない存在となった一方、
 国民主権の概念が入ってきたことにより、統治上の君主は国民自身になった。
 小沢幹事長は、この原理を徹底的に統治システムの中に組み込もうとしているのであり、
 その意味で、まさしく「戦後民主主義の徒花」と表現することが出来るのである。
 
 従って、小沢幹事長の頭の中には、憲法改正はまったく念頭に置かれていないであろうし、
 集団的自衛権の容認も、その選択肢の中に入っていることはないであろう。
 これらの問題に取り組むことは、戦後民主主義の理想に反することになるからである。
 そして、気分としての反米主義が、体内に漆喰の如く食い込んでいるため、
 反米であれば何でも許されるといったムードが全体的に漂うことになる。
 鳩山内閣や民主党の支持率が大きく低下しないのは、
 小沢幹事長と同世代の人たちが、内心、米国に強硬的な鳩山内閣の姿勢に対して、
 秘かな喝采を送っているからではなかろうか。
 また、天皇観にしても、この世代は国民主権の理念を何の疑いもなく信じている傾向が強く、
 天皇の存在に思い致す機会も知識もないまま、今日まで歩んできた世代と言える。

 近年まで韓国では、ノ・ムヒョン大統領を支持した世代が「386世代」と呼ばれ、
 反米・反日の政治姿勢で大いに外交関係を悪化させた。
 日本では、50~60代の年齢層が戦後民主主義世代であり、
 現在、この世代が日本の有権者で最も有力な存在であることを想起した時、
 日本を覚醒させるためには、この年齢層に働きかけることが必要である。
 しかし、果たしてその日は来るのだろうか。
 何とも心許ない気がして仕方がない。